劇団東演「どん底」

◎「絶望の闇」見せる演出
中尾祐子

「どん底」公演チラシ1966年の初演後、日本全国を巡演し、節目節目に再演してきた老舗劇団の代表作が、創立50周年を記念して再び幕を開けた。演出は八田元夫、千田是也と続き、3代目にあたるロシアの鬼才ワレリー・ベリャコーヴィッチ。1998年に朝日生命ホールで初演をふみ、今回が4度目の挑戦である。

原作はロシアの文豪ゴーリキーが掃きだめのような木賃宿で暮らす人々を描いた不朽の名作。こそ泥、錠前屋、アルコール中毒者、荷揚げ人足や娼婦など社会の底辺に生きる人々が、薄汚れた部屋でたわいない喧嘩、酒と賭博の日々を繰り返している。そこに巡礼者を名乗るルカ(内山森彦)が新参者として現れる。人は隣人にばかり良心を求めるといった人生観や労働への蔑視をもつ底辺の人間に向かって、「わしらはみんな、この地上では巡礼さ。わしらの地球だって空を巡る巡礼というじゃないか」「どんなに気取ったところで、人間は人間として生まれ、人間として死んで行くんだ」と応える初老の男。現状から抜け出したくても抜け出せない堕落ぶりが蔓延する宿に、かすかな波紋を呼び起こす。
巡礼者は絶望にどっぷりと浸かった人間たちに這い出す希望を与える存在なのか。劇団はこの戯曲を性善説にもとづいた人間賛歌として表現するのか考えてみたい。

ステージの構成はいたってシンプルだ。薄暗く汚い洞窟のような安宿のイメージを骨組みだけの質素な二段ベッドを4列、斜めに配置しただけで立体化する。美術は演出も手がけるベリャコーヴィッチによるもの。舞台衣装はすべて白系で統一をはかり、木賃宿の主人(石田登星)と妻ワシリーサ(津田真澄)もしょせんは同じ底辺の住人であることを印象づける。
二段ベッドの後方を群衆がのっそりと歩みより、歌を歌い踊る。台詞を吐く者もそうではない者も寸分も乱れない動きでベッド上を体全体を使って転がり、場面の盛り上がりや感情の起伏、ゆったりと重苦しい無言の叫びを暗示する。音楽がたくみに使われている。劇中で流れる音楽はいわゆる「どん底の歌」として知られる歌唱ではなく、独特の民族音楽とコーラス、床を踏み鳴らす音。虐げられた者たちの叫びは地響きのような不気味な力強さを響かせる。
舞台空間や衣装、音楽とも「どん底」の情景を浮かび上がらせるには、十分な効果を発揮している。だからこそ、「どん底」という言葉を実際に口に出さない機微もあっただろうと思う。

「どん底」公演
【写真は「どん底」公演から 提供=劇団東演 禁無断転載】

ただ、照明に関しては少々引っ掛かりがある。働かない宿の人間を蔑視する錠前屋クレーシチ(山中康司)、地位も名誉も失った自称・男爵(笹山栄一)、恋物語に恋する娼婦ナースチャ(腰越夏水)、それぞれが舞台の前面に当たられたスポットライトに包まれて、客席に向かいその思いを独白する。
二段ベッドのある空間はあまり光が当てられていない。照明の当て方の区別によって、一人ひとりが過去の栄光や見果てぬ希望を孤独に空想している様子が浮き彫りにされる。その一方で、こんな安宿に天から差しこむ光はあるのか、という野暮な常識感覚が観劇の邪魔をする。宿の住人が立っている場所はステージであるこ とを思い出し、芝居をみているという現実世界にふり戻される。このロシアの戯曲は遠い異国の作り話ではなく、誰しもが抱いている貧しさや悲壮感とリアルに結びつく。それが世界中で上演され続ける理由のひとつといって過言ではない。筆者は役者の演じる姿に己を重ねつつ、のめりこんでいる緊迫感からずれ落ちることなく集中していたかった。

舞台構成の話はこれくらいにしておき、クライマックスに向かう展開を述べていきたい。物語は新たな局面をむかえ、ルカと宿の住人たちの顛末が描かれる。宿の主人の妻ワシリーサがナターシャを虐待する騒ぎのなか、ナターシャに想いを寄せる泥棒稼業のペーペル(南保大樹)が宿の主人を殺害してしまう。ナターシャはペーペルと姉が共謀して義兄を殺害したと口走り、二人は逮捕。精神に異常をきたしたナターシャは入院してしまう。

殺人事件の騒ぎに乗じてルカは姿を消す。木賃宿ではルカを信心深い人だと支持する者と嘘つき呼ばわりする者に分かれ言い争う。ルカにすっかり感化された役者(能登剛)は、どんなアルコール中毒患者でも無料で治せる療養所があるというルカの言葉を頼りに宿をふらふらと出て行く。

巡礼者ルカは一体何者だったのか。一連の騒動のあと、観客の胸に静かに湧き上がる疑問だ。この疑問をどのようなメッセージにして観客に伝えるのか。物語は最終的にどのような方向に絞られていくのか。

ルカは堕落した人々に対し希望のあるような、ないような話を聞かせて回り、こころを揺さぶった。殺人事件のような大騒ぎの後こそ、宿の住人らは不安を取り除く物語をルカに期待しただろう。しかし、ルカはさっそうと宿を去った。そんな言動からも、ルカは自分自身を信じていない人間だと筆者は考えている。ルカの言葉は人生訓をなぞっているだけで、つめが甘くざれ言に近い。ルカ以外の人が同じ台詞を吐けば殴られる程度のいい加減さがある。しかし、ルカが相手ならば苦笑交じりに許される。そんな危ういバランスを保っている好人物なのだ。 ルカは胡散臭くも人情にあふれるという難しい役柄である。

筆者の解釈に対し、ベリャコーヴィッチの描くルカには、堕落した人々に人生の教訓を聞かせてあげるという意識が感じられなくもなかった。ルカを演じる内山の風貌は真面目だ。声もまっすぐで全体として飄々とした人物像に出来上がっている。この老人の言うことには腹が立つけど憎めない、そんな愛嬌がいま少し物足りない。だから、この劇団に登場するルカの言葉にはたわ言という軽さよりも、説教のような深刻さを感じさせる。

決まった主人公がいないと言われるこの戯曲。劇団東演では、イカサマ賭博師サーチン(武正忠明)がクライマックスで熱く情熱的に語りかける。ルカの説いていた人間賛歌の意志を受け継ぐように。そこに、役者が首を吊ったというニュースが舞い込む。サーチンはぼそりと吐く。「せっかくの歌を台無しにしやがった」と。

クライマックスでサーチンが熱弁する姿は、ルカの落としていった希望のしっぽを掴み取ろうとした男を象徴する。その点を強調させたうえで、ルカを信じた役者の自殺という幕切れをむかえると、最後の独白は希望が失望に転じたという意味合いをより際立たせる。役者の自殺はサーチンに落胆をもたらしたという事実をはっきりとさせる。

たとえば、ルカをあいまいな道化師として出現させ通過させてみる。サーチンもひとり熱く語るのではなく、宿の住人らの雑談の輪に溶け込ませてみる。すると、結末の印象は変わる。「せっかくの歌を台無しにしやがった」という呟きは、死という不味いニュースが酒宴の場を汚して残念だという不道徳なコメントとしても響く。宿主人の殺人事件も巡礼者の存在も仲間の自殺も、もともと大事ではなかった。厄介事と感じることはあっても、次の日には忘れられる日常のひとコマでしかない。そんな「どん底」の描き方もあるだろうと思う。真面目さが表立つルカの説教じみた嘘は、サーチンが今までの自分を振り切るように熱く語るほどの希望を与えた。少なくとも、宿の住人一人が変わる可能性を観客に示したのだ。ところが、ルカを信じた者の自殺によって、すぐさまその希望は光を消されたろうそくのように勢いを無くす。ベリャコーヴィッチの演出は、 サーチンをはじめ残された底辺の人々が希望という言葉をつかみ出した途端、没落の日々に戻る結末を明確にした。

思うに、宿の住人たちはあまりにも他力本願に生きている。どの事件も、堕落した人間たちが自らの力でやり直していかねばと思わせる程の魔力を秘めていなかった。また「どん底」の日々に舞い戻るのも構わないと言わんばかりの顛末である。思想だけでは貧しさから解放されなかった。ルカはその象徴として現れ去っていく風だったのだ。人生に絶望した人間の暗闇の深さ、人の誇りをそぎ落とすほどの闇深さをあらためて感じさせる芝居だった。
(初出:マガジン・ワンダーランド第167号、2009年11月25日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
中尾祐子(なかお・ゆうこ)
1981年千葉県生まれ、フリーライター。立教大学大学院文学研究科修了(文化人類学専攻)。

【上演記録】
劇団東演「どん底」創立50周年記念 第132回公演
下北沢本多劇場(2009年11月9~15日)
*上演時間は休憩を含め、約3時間

作=マキシム・ゴーリキー
翻訳=佐野史郎
演出・美術=ワレリー・ベリャコーヴィッチ

出演=山中康司、腰越夏水、南保大樹、笹山栄一、岸並万里子、小川由樹枝、武正忠明(劇団俳優座)、内山森彦(コスモプロジェクト)、石田登星(演劇集団円)、津田真澄(劇団青年座)、D・ナグレジノフ(ユーゴザパト劇場)、G・ガルキナ(ユーゴザパト劇場)ほか

舞台監督=古館裕司
照明=V・クリモフ
音響=A・ロプホフ
衣裳=A・プーシキン
宣伝美術=コガワ・ミチヒロ
大道具=丸与デザインテック(株)
小道具=高津装飾美術(株)
制作=横川功

全席指定・日時指定 一般4500円 シニア(65歳以上)4000円 学生3000円

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