トライフル「タバコトーク×ドーナツトーク」

◎不条理演劇と口語演劇、そして、演劇の歴史を背負って活動すること。あるいは作家の表現衝動について
  矢野靖人

「タバコトーク×ドーナツトーク」公演チラシ NEVER LOSE(活動休止中)の片山雄一が名古屋で旗揚げしたカンパニー・トライフルの第二回公演、『タバコトーク×ドーナツトーク』二本立て公演を観に行って来た。
 トライフルは2010年2月にちくさ座で旗揚げした名古屋のカンパニー。東京在住の劇作家、演出家、そして俳優でもある片山雄一が、製作時にのみ名古屋に長期滞在(レジデンス)して、名古屋の俳優、スタッフと共同制作を行うという、久しぶりに自らが主宰として旗揚げしたカンパニー。東京と名古屋のみならず、演劇東京一極集中に異を唱え、ゆくゆくは東京とそれ以外の全国とを結ぶためのカンパニーを目指しているという。

 今回は七ツ寺共同スタジオとの並び主催公演ということで、フロンティア・アートレジデンス・コンプレックス2010と銘打たれている。二週間連続公演、合間に3日間休演日をおいて、舞台上で名古屋の若手演劇人二人、二ノキノコスター(オレンヂスタ作・演出)と吉川和典(電光石火一発座 主宰・作・演出)と片山の三人で「不条理」についてのワークショップもおこなうという意欲的な企画だった。

 今回は先に『タバコトーク』を、そして後から『ドーナツトーク』を観た。この順番で見たのは、NEVER LOSE時代からの再演作品でもあり、片山の代表作の一つである『タバコトーク』と、新作で名古屋に滞在制作して俳優とワークショップをしながら当て書きをして作ったという『ドーナツトーク』とを時系列順に並べて比較することで、作家片山雄一の仕事を俯瞰したかったからだ。

 『タバコトーク』のあらすじは簡単だ。高校三年生の3人(オガワ・ツカダ・ヤマケン)が織りなす物語で、放課後に3人がだべっているともう一人の友人であるトシノリが現れる。しかしトシノリは朝起きたら急に17歳のまま40過ぎのおじさんになっていて…というカフカの「変身」をモチーフにした物語。『ドーナツトーク』も同じ「変身」「審判」をモチーフにしているというが、先ずは観た順に、『タバコトーク』から話を始めようと思う。

 取り敢えず観て、感じたことと、『タバコトーク』という戯曲の持っている普遍性について書く。再演が繰り返されている本作だが、一般に高校時代の感覚の懐かしさや子供時代の振る舞いのバカバカしさ、つまり戯曲の持っている<追憶>の要素にばかり目が行きがちだけれども、この戯曲の本質は<不条理>性にあると思う。

 つまり、朝起きたらおじさんになっていた17歳というモチーフ。(実際にはここで、他の若い三人の俳優に比べて、一人だけ実年齢40歳代前後の俳優が起用される。)

「タバコトーク」公演から
写真は「タバコトーク」公演から。撮影=西岡真一 提供=トライフル 禁無断転載

 つまり実年齢40歳前後の俳優が17歳を演じるという演劇的な仕掛け、そこから来るさまざまなギャップや齟齬をこの戯曲は描いていくのだが、このモチーフについて、今回も、不条理さ=バカバカしさが際立っていて、観客は終始大受けをしていた(たとえば年を取ってしまった男が一人だけ食事の嗜好が油ものが苦手というように変わっていたり、女性の好みが変わっていたり、というように、)のだけれども、実は、この感覚は本当は「笑いごと」ではなくて、人間が年をとる。そのことの避けられなさや、自由の利かなくなる身体の自己との疎外、生まれる場所や時間を選べない、容姿や能力を選んで生まれてくることの出来ない人間の根本的な不条理性=根拠のなさを描いているところがこの戯曲の怖いところであって、多くの観客の笑いを誘いながらも、俳優・久川徳明(劇団翔航群)はその怖さを身を以て体現していたように思う。素晴らしかった。

 あと、面白かったのが、片山は今回の『タバコトーク』を、上演することで初めて意味をなす「上演台本」ではなく自律した読み物として成立し得る「戯曲」を目指して書いた、と、当日パンフレットに書いていたのだけど、勿論、戯曲として自律性があって他劇団などでも上演される位、良くできた戯曲なんだけれど、『タバコトーク』という戯曲はしかし意外なほどNEVER LOSEという集団の集団性を背負っていて、それがとても興味深かった。

 いや、違うか。NEVER LOSEという集団の集団性というよりか、片山雄一の原風景、持って生まれた身体と、彼の生活史がそこに滲み出ていたのかもしれない。NEVER LOSEという集団はそれを許容する身体を持った俳優たちの集団だった。

 ではトライフルはどうか。

 結論からいえば、彼らは非常によく戦っていたと思う。日常会話を装いながらも、片山が書いているのは明らかな東京の下町弁であること。それとは当然名古屋で生まれ育った俳優は格闘するだろう。あるいは、現代口語の姿を借りながら、演出の文脈は片山の師である故・金杉忠男由来の完全なアングラの方法に依っていて、それら二つの異なる物と、演出らしい演出や演技の方法論、他言語との格闘経験の少ない名古屋の若い俳優たち(深津章生、山下雄資、中嶋隼都ら)は、実によく戦っていたように思う。ただ残念なのは、これは僕が演出家だからしょうがないのかもしれないけれど、その方法が透けて見えてしまったことだ。

 やっぱり、他言語を演じることは難しいのか。難しいに決まっている。だけどそれは演劇の持つ根本的な、避けられないハードルでもある。

 そういう意味で、比較をしてしまえばトライフルの『タバコトーク』より、NEVER LOSEの『タバコトーク』の方を好む人もいるかもしれない。けれど、それでもどちらも片山演出は片山演出であって、その本質は失われていなかった。初見の観客には意外と気づかれないのだけれども、強度の高い演出的文法に支えられた俳優の造型、身体の所作や空間の構成は素晴らしかった。総合的な意味での演出は、どちらかといえば以前より腕に磨きがかかっていて、完成度としてはトライフル作品の方がまとまりは良かったともいえる。

 総論としては、『タバコトーク』については、非常に良い出来の良質なエンターテイメント作品を見せて貰うことができたように思う。

 一方『ドーナツトーク』は非常に評価の難しい作品だった。

 物語のシノプシスはいたってシンプルだ。古い学生時代からの友人である女4人が、久しぶりに集まってそのうちの誰かのうちに泊まりに来ている。いわゆるお泊り会、パジャマパーティをしているのだが、お酒も入った女たちは赤裸々な、お互いの初めての体験の話をしたり、その相手から貰ったラブレターを持ちより、お互いに読んで聞かせたりする。

 そのうち、どうやら4人のうちの一人の、今日は誕生日であるらしいこと、サプライズで誕生日ケーキを用意していることが分かって、中盤舞台が完全に暗転になり、客席真中に設えられた花道から手作りのバースデーケーキが登場する。思い切ってろうそくを吹き消す一人。しかし、暗転からの復帰がなかなかできない。電灯のスイッチだけでなく、家のブレーカから落としてしまっていたらしいのだ。

 しばらくしてようやく照明が復帰する。しかしふと見ると、その場にいた3人が全員違う人間(配役)に代わってしまっている!

 しかもみんな一様に年をとっていて、(配役が変わっているんだから当たり前の話なのだが、)容姿が少し? 変ってしまっている。そのことに焦り戸惑う3人。しかしお互い、直接にそのことには触れあわない。そうこうするうちに戻って来た誕生日を祝われた女が、彼女だけが実は年を取っただけでなく、男の身体(男性の別キャスト)になってしまっていて…という不条理劇。

「ドーナツトーク」公演から

「ドーナツトーク」公演から
写真は「ドーナツトーク」公演から。撮影=西岡真一 提供=トライフル 禁無断転載

 その後、女たち? 4人は、それでも友人同士だということを時間をかけて確認していくのだが、その紆余曲折、不条理な出来ごととの人の向き合い方の描写が実に面白かった。

 しかし観ているとこれが、先にも述べたように評価の非常に難しいというか、複雑極まりない構造をなしているのだ。

 構造が多層的というか、先ず冒頭から、台詞や演技は前半の女4人を演じる名古屋の若い俳優(稲葉みずき、鶴田雅弓、ひのみもく、浅倉由莉)にあわせて非常にこなれた口語に近い台詞、身体に改変されてはいるが、一方でアングラの雄、金杉忠男の戯曲「花の寺」の戯曲構造の影響、及び引用が多く、観ていてノッケから私たちの、60年以降のこの現代演劇の歴史を意識せざるを得ない状況に私は追い込まれた。あるいは私たちは先人の辿って来た歴史を引き継げるのか。60年代アングラ演劇のモチーフは現代にも通用するのか、という問題が頭を駆け巡った。

 知っての通り、片山は金杉忠男を師と仰ぐ最後の演劇人の一人だ。金杉忠男の名前は東京ではいざ知らず、いや東京でももう名前を知っている人は数少なくなっている「中村座」、「金杉忠男アソシエーツ」の主宰で、上に書いた「花の寺」は金杉の最後の戯曲だ。東京でも名前を知っている人が少なくなっているような状況下で、ここ名古屋で、その名前や、まして「花の寺」という戯曲を知っている人間がいるのかどうか。トークの時間に客席に質問を投げかけてはみたものの、案の定、金杉の名前を知る者は皆無に等しかった。

 ここまでの時点で、そういう状況であることが容易に想像できたのにもかかわらず、何故片山はこの戯曲の引用、金杉へのオマージュともとれる作品を作ろうと思ったのか。僕にはそれがまったく理解出来なかった。理解出来ないということは否定的なことではない。僕には理解できない片山の表現への「衝動」を、僕はこの作品に感じたということだ。これは生半可な気持ちで見て、感想をいって消費してしまっていいような演劇作品ではない。冒頭5分位のシーンで、これは片山が自らの生き方、存在理由を掛けて挑んだ私戯曲というか、安易な客席の共感を拒むような、(勿論演出家としての片山は観客を楽しませようとあちこちにサービスをちりばめていて、客席も多く笑い声の絶えない舞台だったが、)己の表現衝動を出来るだけそのままに舞台にのせた作品だということが分かった。

 先に舞台が多層的な構造をなしていると言ったが、そのようにして戯曲としての『ドーナツトーク』が演劇の歴史性を強く意識的に背負って書かれているにも関わらず、ここは演出家片山の領分だろう。その一方でこの座組みでしか成立しない上演台本としてのテキストとして『ドーナツトーク』は書かれており、テキストと演出、俳優の身体との不可分性、あるいはギリギリの線を引く演劇的な虚構性が舞台全体の構成要素に多分に含まれており、戯曲を読む、あるいは演出を見るという行為を不可能にするような、実に多層的で混沌を含んだ演劇作品になっているのだ。

 先に述べた大胆な二人一役の構造。8人の男女で4人の女性を演じ、中盤で何の説明も理由もなく、キャストが4人入れ替わる。片山は、カフカの「変身」あるいは「審判」をモチーフにしているというが、ここの戯曲は見事だった。普通、物語的には状況の変化を言葉で説明するだろう。言葉で説明するというか、何が起こったのか分からず混乱する様を描くだろう。それを、片山は一切描かない。台詞では一切説明されない。ただ、お互いの顔を観て変化に気づき、しかしどうしていいか分からず、会話の糸口も見つからず間を持て余す3人が、誰もしゃべらず一人また一人とただせんべいをバリバリと食べる間。ビニル袋の擦れる音。交差する視線。思わず外してしまう視線。後半の冒頭を演じる、戯曲化不可能な関係性を描いた女優3人(加東サユミ、スズキナコ、石原愛子)の仕事は見事だった。

 バッグから鏡を取り出して、自分の顔を確かめる女たち。そしてそこに男になってしまった女(前半はトライフルの稲葉みずき、後半はよこしまブロッコリーの澤村一間が演じる。)が現れる。何事もなかったかのように振る舞う女。しかし明らかに状況は、関係は以前と異なってしまっていて、ぎくしゃくとした時間が流れる。

 うーん。しかし、これは、じつにこの後のあらすじを書くのが難しい。けっきょくあるきっかけを元に、自分の身体が女ではなく男になってしまったことに女は気づくわけだが、その女を男として扱うのか、女として扱うべきなのか戸惑うわけでもなく、女たちはほぼそのまま事態をありのままに受け止める。もし貰い手がなかったら私と結婚してよ、等々の台詞が観客を混乱に導く。

 多くの観客が「?」と頭にクエスチョンマークを付けたまま舞台を観ていたんじゃないだろうか、と思う。とこれは作家の片山自身も後に語っていた。そうかもしれない。しかし演劇は、否、芸術は一人のアーティストの表現衝動を体感するものだとすれば、簡単に知性で理解できるような代物であってはいけない。そんなものは面白くない。出会ってすぐに共感を得られるものは、それは芸術というよりもエンターテインメントだ。うまく言えないが、僕はそんな思いを残して劇場を後にした。

 演劇作品として、『ドーナツトーク』は非常に大きな問題作なのではないかと思う。先にも書いたように演劇は、過去の演劇の歴史(文学性)をどこまで引き継ぐことができるのか。あるいは演劇的な仕掛けの作成と更新を、つまり虚構とルールをいったん成立させておきながら、途中でそれを破たんさせるか否かのギリギリの線で変更する、それはいったいどこまでが可能で、その線はどこに引くことができるのか。

 『ドーナツトーク』はそのようにして、観客の観るルール、観るときの姿勢の更新を迫るような作品だった。

 それでいて、片山が劇作家として金杉忠男から引き継いだ<追憶>の要素は決してなくならない。片山作品は実験作であると同時にエンターテイメント作品でもあろうとする。終盤最後の順番で最初に好きになった人からのラブレターを読む男になってしまった女(澤村一間)の、もう取り返しのつかない過去と、未来への反復の希望。

「僕がもし大人になって、よっちゃんを守れるようになったら、そしてもう一度出会うことができたら僕と付き合って下さい。」

 その台詞を、男の身体に変ってしまった女(=男)が涙ながらに大声で読みあげる。

 「守ってよ私を」

 客席には多くのすすり泣きの声が聞こえていた。

 演劇作品を作るという意味での「劇」作家、「演劇人」片山雄一の、確かな最新作、それは戯曲と演出、俳優の仕事の不可分な一つの舞台作品としての演劇作品を僕は今回名古屋で見せて貰った。

 最後になるが、同時上演の『タバコトーク』同様、いやそれ以上に、片山がこの作品を名古屋の若い俳優たちと共同して製作したことを評価しておきたい。

 こういういい方は名古屋の演劇人たちにたいへん失礼な物言いになるかもしれないが、名古屋では演劇の共有すべき歴史や文脈が在る世代からこちらでどうにも断絶してしまっている。名古屋は劇作家の都市だが、北村想氏、天野天街氏、はせひろいち氏、佃典彦氏ら40代後半~50代の劇作家たち以降、つまり30代以下の劇作家がほとんど育っていない。いわんや、演出家においてをや、である。名古屋には演出家と呼べる人間がほとんどいない。畢竟、俳優も、劇作家のイメージをたどることは出来ても、自立した俳優というのがほとんどいない。

 そんな不毛の地において、片山は地を耕し、種を植え、水をやってという一からの作業を一回り以上違う若い俳優らと一緒に始めようとしている。

 東京で生まれ育った地の利を捨てて。しかも何の助成や、行政などのバックアップもなく、だ。凄まじい覚悟のいる仕事だと思う。あるいは、そのこと自体が彼の不可避的に選ばざるを得なかった「表現」活動の一環なのかもしれない。社会と向き合い、ただ単に商品として消費されるのではないコミュニケーションのアートとしての演劇の、その未来を託すべきは片山のような市井のアーティストの一人ひとりの活動なのではないかと感じた。
(初出:マガジン・ワンダーランド第218号、2010年12月1日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
矢野靖人(やの・やすひと)
 shelf演出家・プロデューサー。1975年名古屋市生まれ。代表作に『R.U.R. a second presentation』(作/カレル・チャペック)、『構成・イプセン ─ Composition / Ibsen』(作/ヘンリク・イプセン)、『悲劇、断章 ― Fragment / Greek Tragedy』(作/エウリピデス)等。shelfの他に、2006年より横濱・リーディング・コレクション(共催/横浜SAAC、横浜市市民活力推進局)プロデューサー・総合ディレクターも務める。日本演出者協会会員、(財)舞台芸術財団演劇人会議会員。2011年10~11月に上演予定の『構成・イプセン ― COmposition / Ibsen』(原作 / ヘンリク・イプセン)は、shelf代表作の改訂再演。東京・京都・名古屋と三都市ツアーを実施する予定。

【上演記録】
トライフル Vol.2 「タバコトーク×ドーナツトーク
七ツ寺共同スタジオ(2010年11月11日-21日)
作・演出:片山雄一(トライフル)

出演:
『タバコトーク』
久川徳明(劇団翔航群)
深津章生(トライフル)
山下雄資
中嶋隼都(劇団[C/E])
江上定子(PAO COMPANY)

『ドーナツトーク』
稲葉みずき(トライフル)
澤村一間(よこしまブロッコリー)
鶴田雅弓(よこしまブロッコリー)
加東サユミ
ひのみもく(少年王者舘)
スズキナコ(avec・ビーズ)
浅倉由莉(トライフル)
石原愛子

チケット:一般当日3,000円/前売2,500円 学生(前売券・当日券共に)1,500円 『タバコトーク+ドーナツトーク』セット券 3,500円

《終演後トークイベント》
・11/13土 ジャコウネズミのパパ(双身機関 主宰・演出家/七ツ寺共同スタジオ スタッフ)、にへいたかひろ(よこしまブロッコリー 代表・劇作家・演出家)
・11/14日 麻原奈未(劇団オートバイ 主宰)
・11/20土 ニノキノコスター(オレンヂスタ 作・演出)、吉川和典(電光石火一発座 主宰)
・11/21日 矢野靖人(shelf 代表・演出家)

《休演日にワークショップ開催》
・11/15月:片山雄一(トライフル 主宰・劇作・演出)
・11/16火:ニノキノコスター(オレンヂスタ 作・演出)
・11/17水:吉川和典(電光石火一発座 主宰・演出・俳優)

照明:則武鶴代
音響:大谷真央
舞台監督:柴田頼克
宣伝美術:オレンヂスタ美術部
写真撮影:西岡真一
映像撮影:村崎哲也(ムーヴィン)
制作:松丸琴子
主催:トライフル、七ツ寺共同スタジオ


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