◎天使としてのお年寄り
水牛健太郎
昨年のフェスティバル/トーキョーで注目の作品「ドラマソロジー」が「七十歳以上のお年寄りの自分語りで構成された作品」であると初めて聞いた時、自分がどのように反応したかよく覚えている。私は「それはずるい」と言ったのだ。これには説明が必要だろう。
私はかつて新聞記者をしていた。これは基本的に人に話を聞く仕事である。ずいぶん色々な人に話を聞いた。いわゆる「普通の」人にも聞いたし、地方政治家、お役人、警察官、国会議員、高校野球の選手、経営者、県知事、農家の人、市民運動家、犯罪の容疑者等々、その人の属性により、話を聞くべくして聞いたこともある。数分の立ち話もあればえんえん五時間なんてのもあった。場数を踏むうちに、ちょっとしたテクニックもあれこれ身に付けた。だから人の話を聞くことについては、かつてはプロ意識みたいなものを持っていたし、今でも、ブランクはあるにせよ、まあ俺が本気出したらそこいらの人にはそうそう負けないよ、なんて思っているわけだ。
そんな私がつくづく感じていたのは、「ともかくお年寄りの話は面白い」ということであった。お年寄りの話は、何度も心のうちで反芻され、人にも話されて、表現にはその人独自の磨きがかかっていることが多い。そしてその内容は、既に失われた世界の証言である。それも個人的なディテールほど味わいが深い。
「繰り返してはならない戦争」や「原爆の惨禍」など、大文字の歴史にはある程度公式の語りがある。それも大事ではあるが、正直聞き飽きた感もある。しかしそんな歴史も、目の前の人が、その日どんな服を着ていた、朝、何を食べたなどと話し出したとたんに、あせた風景は色を取り戻し、すべてが生々しく動き出す。「本当にあったことなんだ、やっぱり」というわけだ。
それが別に大きな事件の記憶である必要もない。その時代、その場所に、そんな暮らしが、そんなことが、そんなものが、へえ、有線電話がそんなに普及してたんですか…、えっ、洪水の水がそんな高さまで…、なんと、この食堂でそんな恋のさや当てが…、ええっ、カレーライスがそんなに高かったんですか…。信じられない。本当に面白いことばかり…。
そのようにいささかオタクチックにお年寄りの話に聞き入った過去を持つ私にとって、「ドラマソロジー」の企画は、自分の井戸の水を汚されたような憤激をもたらした。若いやつが、うまいことやりやがって。お年寄りの話のおいしいとこだけ彩りよく盛り付けて、自分の作品でござい、芸術でございっていうつもりか。それは一種の搾取じゃないか。何と不届きな。そんな気分。
【写真は「DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー」公演から 撮影=青木司(c) 提供=F/T10 禁無断転載】
しかし、実際に見た「ドラマソロジー」は全然そんな作品ではなかった。搾取どころか、構成・演出の相模友士郎の創意が全編に貫かれ、お年寄りをその表現意図に沿った形で徹底的に使い倒している。お年寄り個人の話からは「おいしい」はずの物語性が取り除かれ、個々の「わたし」を通じて「わたしたち」が浮かび上がってくるように仕組まれていた。要するに、これは大した作品だった。
作品の中でのお年寄りの語りを特徴づけるのは「私は」の連呼である。年齢や経験、趣味など自分に関する色々な内容をともかく「私は」の形で語り続ける。チラシに紹介されている言葉を使えば「箇条書き調」、ということになる。日本語は本来、主語を明示することがあまりない言語である。日本語学の世界では、「日本語にはそもそも主語が存在しない」という説もある。「は」という助詞も、実は「主語」を表すものではないとされている(主語を表すのは「が」であるというのが定説)。「は」が表すのは「主題」である。有名な「象は鼻が長い」という文。「象は」というのがこの文の主題、つまり象について話しているということを示す。そして「鼻が長い」というのがその内容である。象について話すならば、「鼻が長い」という性質を持っている。この文はそんな意味だということだ。
そんなわけで「私は」の連呼は、それぞれの文が「私」についての話であることを、いちいち確認していることになる。文字通り「自分語り」ということだが、実際に聞いた印象は、いわゆる「自分語り」とはむしろ対極と言っていいぐらいのものだ。
一つには、「私は」と連呼する語りが日本語として相当不自然なものだということがあるだろう。実は英語でも中国語でも“I…”“我…”で始まる文だけの繰り返しは多かれ少なかれ不自然なのだが、日本語はそもそも「私」について話すときは「私は」を省略するのが普通なので、不自然さは際立つ。まるで主題を省略できない稚拙な会話プログラムが組み込まれたロボットのような、そんな感じすらするのである。
そして意外な発見は、「私は」の連呼が「私の物語」の発生を拒むということである。これは実際にやってみるとよく分かる。「桃太郎」でも「白雪姫」でもいい、試してみると、単一の主題(ないし主語)の連呼で語ることは決してできないことが分かるだろう。物語が形成されるには、主題の移動が必要だということだ。統一されうるのは視点であって、主題ではない。ある視点(普通は一つの視点だが、複数でも可)から様々なものを見て、その間に何らかの関係を見出していく。因果関係であったり、類縁であったり。それが物語だと言えばいいかもしれない。「私は猫を見ました。猫はネズミを追いかけていました。そのネズミは…」。これで物語になる。
「ドラマソロジー」には七人の高齢者が出演しているが、彼ら一人一人が名を名乗り、かなり長く自分に関するあれこれを語るにもかかわらず、また彼らの生活を紹介するビデオ画像等の助けがあるにもかかわらず、聞いていても、それぞれの人生に深く入り込むという気はしない。「私は」の連呼によって、物語の発生が抑圧されているからだ。
物語が発生しないことで、そこに浮かび上がってくるのはある種の同質性というか、集団性のようなものだ。「私」は、名前のある特定の人ではなく、たくさんいる「私」を代表して話している「私」になる。これを示唆するように、五人目の女性は「私たちは」を「主題」にして話す。「私たちはアダチミチコです。私たちは…」。
ここらへんがこの作品の最大の勘所で、評価が難しいところだとも言えるだろう。はっきり言うと、この作品はお年寄りを人間扱いしていない。「人間扱いしていない」というと普通は非難の意味である。しかし私が言っているのは、別に相模がお年寄りをいじめているとか酷使しているというような意味ではない。いや、酷使はしているかもしれない。年齢を考えるとあんなに歩くのはしんどいのではないかと思えるお年寄りもいた。しかし、本人は喜んでやっている。だいたい人前に出て注目を浴びるのは、お年寄りの心身の健康にいいことは確かだ。歩くのがしんどい方も、本番で格好良く歩けるように、毎日散歩して準備したことであろう。実に結構なこと。
【写真は「DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー」公演から 撮影=青木司(c) 提供=F/T10 禁無断転載】
私が言っているのは文字通りの意味で、作品の中でお年寄りは「人間」、すなわち一人の個性ある存在として扱われていないという意味だ。それでは何扱いしているのかと言うと、作品中の「ベルリン・天使の詩」の引用が示すように、天使である。つまり、この作品の中のお年寄りたちは、個性ある一人の人間ではなく、抽象としての人間である。地上ではなく天空に所属するものとして、人間世界をちょっと高いところから見守っている。そうして初めて、観客の目には、出演者が生命の連鎖や永遠の時の流れを象徴する存在として見えてくる。
これにはお年寄りの姿かたちがまことに似つかわしいのだ。お年寄りと子どもはこの世とあの世の境に立つ存在であるという。あの世からこの世に来たばかりの子ども、もうすぐあの世に旅立つお年寄り。かくしてお年寄りにこの世ならぬ聖性を見るのは古今東西変わらぬことであって、人間心理の奥深くに組み込まれたイメージだから、この作品のようにそれを意図して表現すれば、見る者はそのイメージをしっかりと受けとるわけである。
それをどう評価するかとなると、もはや好みの問題になってしまうのかもしれない。私は、ちょっと寂しいと思う。もちろんそれは、冒頭に書いた「おいしいところを彩りよく盛り付けた」なんて低レベルの誤解とは全く関係ない。むしろ逆方向のことで、お年寄りの話の持つ豊かな物語性を捨象したこと、つまりあまりにも「おいしくない」ことの寂しさである。
例えば、校長まで務めた女性の元教師がいた。教師と言えば私も日本語教師なのだが、ベテラン教師というのは本来、物語の宝庫なのである。子どもなんて無茶なものを長年相手にしていたわけだから、そりゃそうである。このベテラン教師がどれだけ多くの、面白いエピソードを持っているか知れないのだが、「ドラマソロジー」ではそんなこと、一つも関係ないのである。寂しい。
だがそれこそ相模の意図だ。当日パンフレットに彼は書いている。「再演にあたって、わたしがまなざそうとしていたものは、『再現可能なわたし』ともいうべき固有性というまやかしを奪い去ったわたしの姿です」。お年寄りの過去の思い出話、そこに自ずと発生する個性豊かな物語性を彼は「『再現可能なわたし』ともいうべき固有性というまやかし」と呼んでいるわけである。
相模の言うことの思想的な意味は、何とかわかるつもりである。でも私はまやかし大好きな人間だから、「そんなにストイックにやらなくても。何だかもったいないなあ」と思ってしまう。
それこそないものねだりというものであろう。相模の表現意図に寄り添うならば、やはりこれは素晴らしい作品であることは間違いないと思うのである。
(初出:マガジン・ワンダーランド第223号、2011年1月12日発行。購読は登録ページから)
【著者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
ワンダーランド編集長。1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。大学卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/mizuushi-kentaro/
【上演記録】
相模友士郎「DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー」(フェスティバル/トーキョー10)
東京芸術劇場小ホール1(2010年11月26日-28日)
上演時間:95分(休憩なし)
構成・演出:相模友士郎
出演:増田美佳
足立一子、足立みち子、飯田茂昭、相馬佐紀子、中川美代子、藤井君子、三木幸子
舞台監督・美術:夏目雅也
音響:齋藤 学
照明:高原文江
映像:遠藤幹大
演出助手・映像操作:田中章義
制作:香井亜希子(アイホール)
アイホールディレクター:小倉由佳子
製作:伊丹市立演劇ホール(アイホール)・公益財団法人伊丹市文化振興財団
初演:2009年7月 伊丹市立演劇ホール(アイホール)「地域とつくる舞台」シリーズ
助成:財団法人アサヒビール芸術文化財団
主催:フェスティバル/トーキョー
料金:自由席 一般 前売 3,000円(当日 +500円)、学生 3,000円、高校生以下 1,000円(前売・当日共通、要学生証提示)
公演日:2010年11月26日(金)?11月28日(日)
東京芸術劇場小ホール1
ポスト・パフォーマンストーク:11/27(Sat) 終演後 相模友士郎×宮沢章夫(劇作家、演出家)
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