ロドリゴ・ガルシア「ヴァーサス」

◎ポエティックという魔法
 柴田隆子

「ヴァーサス」公演チラシ 面白かった。劇評の書き出しとしてこれほど拙い書き出しはないと思うが、初めてロドリゴ・ガルシアの舞台に触れて湧き上がってきたのは、「面白い」という感覚だった。暴力的で非情な「現実」を描きながらも、「ポエティック」に一種コミカルにまとめられた「ガルシア・ワールド」の放つ独特の美しさは、描かれているものの猥雑さを隠蔽するだけでなく、その「美」を受け入れることを観客に課す。私は諾々とそれに従った。しかしわずかに残った微妙な違和感は、反芻するうちに膨らんでいき、しばらくたってから大きな衝撃に変わる、私はなんてものを「面白い」と感じてしまったのだろう。こうした一連の反応を観客から引き出すのが、「ガルシア・ワールド」と呼ばれる由縁なのだと思う。

 タイトルの「ヴァーサス」(versus)とは、対置の形で、対抗する二者の関係を表す際に用いられる言葉である。ガルシアがここで試みているのは、テーゼに対しアンチテーゼをぶつけて、弁証法的に何か具体的な解決策を導き出そうというものではない。むしろ対立関係におかれる両者の不均衡がゆるぎない「現実」としてあることを指摘し、より冷めた視点から、一般に言われているそれが本当の対立項なのかを疑っているように見える。つまり、それらは対極ではなく、単なるコインの表裏の関係なのではないかという視点である。

 現代社会に関する二項対立には、「現実」の政治に対するユートピア的解決策がある。フランコ政権時代を思わせるニュース映像や車のクラッシュシーンといった「現実」を表す映像の直後、まるで幼稚園児の書いたような線描画のアニメーションが映し出される。ゴヤの『1808年5月3日』を思わせる絵では虐殺は回避され、ワールド・トレード・センター風のビルの側を悠々と飛行機が飛び去り、戦車の前に一人立った人間は、戦車の中から出てきた人たちと踊り出す。唐突に始まる人類皆兄弟的な展開は、そうだったらいいのにとナイーヴに夢見てしまいがちな人間に対し、それは安易な幻想に過ぎないと揶揄しているようだ。しかし、リアルな実写のように見えた映像は、ニュース報道の切り貼りであり、アクション映画のクラッシュシーンに過ぎない。確かにマドリードで虐殺は行なわれ、ワールド・トレード・センターは破壊されたが、私たちの知っている「現実」とはメディアを通したものでしかない。

 もっと端的に同じ虚実の関係を表すのが、女性が持つアイスクリームを男性がドライヤーを向けて溶かす短い場面である。登場人物が演じているのは単純なばかげたイタズラで、正面を向く女の無表情は「こんなことを面白いと思う、男ってバカだよね~っ」とでも言いたそうにみえる。だが、後ろに大きく伸びた彼らの影は互いに銃口を向け合っているようで、微動だにしないその影は緊迫した雰囲気を伝える。どちらが本当の姿なのだろう。実像が真で、影は虚とは限らず、見えているのが仮象で、影が内実を表すこともある。現実社会を鑑み、客観的な判断をすることは可能なのか、ひょっとしたら単にアイスクリームに向けられたドライヤーのような「悪意」に対し、過剰反応している可能性はないのかと疑ってみたくなる。全てが相対的だというのではない。「事実」は厳然として存在するし、それを冷静に見つめるガルシアの態度は決して楽観的なものではない。しかしそうした「事実」を歴史性の中で普遍化して「現実」として固定化してしまった場合、見誤る可能性があるのではないだろうか。

「ヴァーサス」公演から
「ヴァーサス」
【写真は「ヴァーサス」公演から 撮影=Jun_Ishikawa(c)  提供=F/T10 禁無断転載】

 「愛」に関しては、古くからの二元論である男女の対比が挙げられる。人類愛のような普遍的な愛は絵空事に過ぎないという「現実的」見方からすれば、個人の「愛」も存在せず、そこにあるのは「愛」の美名を借りた「支配」や「暴力」の関係ということになる。女性だけでなく若い男性も性的対象となることから、単なる男女の二項対立ではないかもしれないが、ここでの「愛」が抑圧と被抑圧の関係であるのは間違いない。そして「美」と結びつくことで、その関係性が隠蔽されることをガルシアは明らかにする。

 裸に羊毛を巻きつけた少女への虐待はとても美しく描かれる。スクリーンに手足を縛られた子羊の画像が投影され、少女が生贄の羊の比喩であることが暗示される。テニスウエアの男に大人しく手足を縛られる彼女は、しかし鼻と口を手で覆われると激しく抵抗する。息ができなくなるのだから当然だ。男が手を離すと彼女は大人しくなる。男は優しく太ももや頭ををなでて落ち着かせた後、また同じ行為に及ぶ。激しくもがくたびに彼女の衣装がずれ、美しい肌がやわらかな温かみのあるライトの下で露わになる。その度に乱れた肢体を客席に向けて整え、執拗に男は窒息プレイを繰り返す。彼女の苦しむ姿はしかし、エロティックでとても美しい。

 そう見えてしまうのは、子羊の絵と柔らかいライトによって女性の身体がエロス的「美」に対象化されてしまい、彼女の感じている苦しさを思いやることを忘れてしまったからである。個としての少女への関心ではなく、物としての「肉体」に対して欲望が掻き立てられる。この欲望は本当に私のものなのだろうか、とひどく戸惑う。これは明らかに観客の視線を意識したポルノだ。続く無抵抗の女性に水を飲ませ続ける場面も同様で、彼女の衣服が濡れ、豊満な肉体が透けてくるのを観客に見せつける。背後のスクリーンに大写しになる女たちも、無理矢理水を飲まされて一様に眉を寄せカメラにうんざりした視線を向けるが、抵抗することはない。映像には短いショットごとにテロップが入る。字面だけみれば、陵虐的な言葉に叛逆的な言葉が対置された政治的メッセージのように見えるが、政治的な言葉はポルノの図式にのせてしまうと、単に欲望を煽る記号にすぎなくなる。ガルシアはこれらをひとつの「事実」として突きつける。

 ガルシアは意図的にポルノの図式を舞台に持ち込んでいるのである。ポルノは、一般的な社会通念として許容されうるものとみなされているが、そこにあるのは、「ペットとはやらない」(セックスしない)と言った少年の発言にあるように、対等な人間関係ではない。ペットとは「やる」のではなく、彼らの自由を奪い生死を弄ぶのである。極論すれば、人間をつなぐものは相手に対する支配欲であり、中でも暴力による形式が一番プリミティヴで美しい。その美を享受するためには、抑圧されている側の気持ちは考えてはいけない、それはペットであり、物質であり、単なる対象にすぎない。いや、ペットだって本当はそれを望んでいるのだ。これはひとつのイデオロギーである。

 性的な対象にもなる「少年」は二重のバイアスがかかっている。彼は「舌を入れるキスは理解できない」と言い、「ペットとはやらない」とわざわざ口に出して確認する。そうするのは、彼にとってそれがまだ無意識でいられるほど自明なことではないからである。「男」のイデオロギーに染まりきっていない彼は、本を読んでいることを見咎められ、読んでいた姿勢のまま次々と本を頭に貼り付けられ、本に覆われた頭のまま後から立位でレイプされる。暴力の対極にあるはずの知識は、役に立たないどころか暴力を呼び寄せる。一連のシーンは美しさの幻影をまとってはおらず、むしろガルシアの育った世界の「現実」として淡々と描写される。こうして「少年」は「男」になるのだ。

「ヴァーサス」公演から
「ヴァーサス」
【写真は「ヴァーサス」公演から 撮影=Jun_Ishikawa(c)  提供=F/T10 禁無断転載】

 「現実」を支配しているイデオロギーとしてそのような事例があることをガルシアは指摘しているわけだが、現状を容認してよいと考えているわけではないのは、「別の方法で自由になる生き方、視点、方法を伝える存在」として演劇を位置づけているという彼の言葉からもわかる。決して効率的とはいいがたい「演劇」というメディアを使って彼が試みているのは、問いかけによって「現実」に疑問を持たせ、詩的なアプローチによって別の可能性を観客に想像させることである。

 映像に映し出されるアニメーションの「猿」との禅問答的な掛け合いでは、人間側のヒューマニスティックな考えは一笑に付される。落書のような「猿」に「バカだな~、そんなことはありえないだろう」と笑われているのは舞台上の人物だけでなく、観客自身でもある。なにしろスクリーンに映った「猿」は、字幕ではなく、直接日本語で「クソガキどもめ」と語りかけてくるのだ。つまり、質問されているのは、直接答えている登場人物だけでなく観客でもある。本当の意味での答えはないだろう。反発するもよし、なるほどと考えてみるのもいいが、出口なしの今日の現実認識では、「猿」の方が主導権を握り、人間たちは明らかに守勢にまわっている。この状況を覆す鍵は観客にあるはずだ。

 疑問を持つことは容易でも、別の可能性を想像することは難しい。冒頭の女と、終幕の男に同じ台詞で語らせたように、今日のグローバルな社会を覆う抑圧の構図は、男女関係なく全ての人類に覆いかぶさっている。しかし、男女間に階層化があるがゆえに、同じ台詞を女は暴力の合間に半ば叫び声で告発するように発するしかなく、生き延びられる可能性の高い男は死んでしまった女の横で、回想するかのように静かにつぶやけるのである。この男女の立場は交換可能なのか、可能だとしたらどんな方法があるのか、そもそも交換することに意味があるのか、この底辺の構図から自由になる別の方法は存在するのか。頭の中に次々と問いがわいてくる中、美しい花輪で飾られた女の葬式で終わるラストはあまりにも唐突だった。

 ガルシアの舞台は、「現実」に流れている数々のイデオロギーを、その矛盾を含めて受容可能な形にコンパクトにまとめていて、一見わかりやすい。ありのままの現実などというものこそ幻想に過ぎないのに、あたかもそれがパッケージ化された姿がどこかにあり、それを詩的に再現したかのような錯覚に捉えられる。最初に感じた面白さの正体はこれだったのではないだろうか。「猿」がいうように、我々人類は簡単に忘れてしまうことによって進化し、俗物となることでバランスをとり、社会に適応してきた。人間の脳は、忘れることで正常を保ち、残った記憶に対して個人的な倫理的意味づけをする。悲惨な「現実」に対し、字幕や音楽で語られる詩的な言葉は救いである。しかしガルシアは、この詩的な領域には観客を安住させない。暴力は人間の一部であり、それは安全な場所にいると思っていた観客すら巻き込む。ポルノという暴力行為は見る者にも加担を強いる。「美しいもの」を見たつもりで、自分のものとは思えない欲望が自分のうちにあることに気づく。だから忘れる、なかったことにする。そうして人間は進化してきた。しかし、そういう立ち位置を、「猿」でない私は取るわけにはいかない。

 私の見た可能性は冒頭のピザの場面にある。ピザは、今日グローバル化を代表する食べ物のひとつであるが、真ん中の柔らかい部分だけを食べる子供たちは、資本主義の果実のみを享受する世代への皮肉である。どこの国でも、探せばそういう奴らはいる。しかし、その違和感を問い続けることはできる。ガルシアが舞台作品で試みているのは、そういうことだろう。私もしばらくしたら日常に紛れて忘れてしまうかもしれない。しかし、少なくとも今はまだ考えていたいと思う。
(初出:マガジン・ワンダーランド第224号、2011年1月19日発行。購読は登録ページから)

【略歴】
 柴田隆子(しばた・たかこ)
 東京都世田谷区生まれ、横浜在住。学習院大学大学院身体表象文化学専攻博士課程在籍。西洋を中心にした舞台芸術理論を研究。
 ・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/shibata-takako/

【上演記録】
ロドリゴ・ガルシア「ヴァーサス」(フェスティバル/トーキョー10)
にしすがも創造舎(2010年11月20-24日)
上演時間:120分
初演:2008年
上演言語:スペイン語・日本語字幕付き

構成・演出:ロドリゴ・ガルシア
出演:パトリシア・アルバレス、イケ、ルベン・エスカミジャ、フアン・ロリエンテ、ヌリア・ロアンシ、イサベル・オヘダ、ダビー・ピノ、ダニエル・ロメロ

照明:カルロス・マルケリエ
技術監督:ロベルト・カファギーニ
音響:マルク・ロマゴサ
衣装:ベレン・モントリウ
アニメーション:クリスティーナ・ブスト
映像:ラモン・ディアゴ
音楽:チキータ&チャタラ、ダビー・ピノ、テープ

制作:モニカ・コフィーニョ、マリアテ・ガルシア、ディエゴ・ラマス
製作:国立文化記念協会
共同製作:ラボラル・テアトロ(アストゥリアス公国政府)

東京公演スタッフ
技術監督:寅川英司+鴉屋
技術監督助手:佐藤恵、河野千鶴
舞台監督:杣谷昌洋
演出部:弘光哲也
美術コーディネート:大津英輔+鴉屋
小道具:栗山佳代子
小道具助手:横川奈保子、今村智美
照明コーディネート:佐々木真喜子((株)ファクター)
音響コーディネート:相川晶((有)サウンドウィーズ)
字幕操作:幕内覚(舞台字幕/映像 まくうち)
テキスト翻訳:寺尾隆吉
通訳:石井園子、浜田和範
音声吹き替え:近藤強
衣装管理:大石若草子
フロント統括:竹岸実夏

後援:在日アルゼンチン共和国大使館、駐日スペイン大使館、セルパンテス文化センター東京
主催:フェスティバル/トーキョー

入場料 4,500円


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