SENTIVAL! 2012 報告 2

◎祭りの後で―演劇フェスSENTIVAL! 2012 レビュー
 梅田 径

 atelier SENTIO、SUBTERRANEAN、巣鴨教会を舞台に繰り広げられた地域演劇フェスティバル「SENTIVAL! 2012」がOrt-d.d「夜と耳」の終演をもって終わりを告げた。4月から7月までの長期間、17団体によるパフォーマンスと、ポストトーク、クラシック音楽とダンスの競演、フェルデンクライスWSと充実した内容であった。

 フェスティバルの魅力は一度に多数のアーティストたちの作品をみることができることにある。演劇を趣味とする人なら誰でも、気づかぬうちに見に行く公演や好みの劇団が固定化していることがあるだろう。あるいは、ある作風を試す劇団をもっと知りたいと思ってもなかなかそうした劇団に巡り会えない事もある。

 フェスティバルで何が見られるのかはディレクターの技術次第ともなるわけだけれど、そこには明示的にも暗黙的にも、いろいろなコンセプトが透けてみえることがある。それを発見といってよいならば、フェスに参加する劇団を網羅的に見ることは、観客にとって新しい発見の連続だ。いままで見てきた演劇の見方が変わることもあるし、各劇団の類似点や相違点に注意することで新しい演劇の魅力に気づくこともある。

 SENTIVAL! 2012は、その意味で実にたくさんの発見を与えてくれたフェスティバルであったように思う。見たことがある劇団も知らなかった劇団も、演劇のフェスティバルに集まったことで、劇団自身の魅力だけではない新しい魅力に気づくことができた。

 本レポートでは「SENTIVAL!」の各劇団の公演を、フェスティバルならではの切り口から紹介してみたい。これらの観点は、たとえば単独の公演としては得られなかったであろうものだ。単純なスタイルの違いや、時間の流れといった抽象的な観点も含む。こうした視点を設定することで各作品の魅力が限定されてしまう器具もあるだろう。けれども、演劇フェスをまるごと見る魅力は、公演ごとの劇評を述べるに留まらない見方の発見にあるはずなのである。

 以下、「一人芝居」、「実験的作品」、「時間の流れ」、「物語演劇」、そして「ダンス」と五つの観点から参加作品を見ていこう。「一人芝居」はSENTIVAL!の規模によくあい、多くの劇団が一人芝居を採用していた。現代演劇的な「実験的作品」も代々のSENTIVAL! によくみえ、本フェスティバルの代表する傾向でもある。「時間の流れ」は形式や趣向というよりも演出の技術であるが、のんびりとした演劇空間の演出は地域性との関係が透けて見え、重要な観点になりうると考えた。「物語演劇」は劇作に重点をおいたストーリーの巧みなもの。あまりにも範囲が広すぎる言葉ではあるけれども、ポストドラマ的な演劇とは異なるストーリーに重点を置いていた作品を一括してこう称した。ダンスはそのまま、演劇ではなくダンス公演である。今年から会場に加わった巣鴨教会を利用した、雰囲気ある作品たちはSENTIVAL! ならではのものだろう。

一人芝居

 「SENTIVAL!」では、公演スタイルとして一人芝居の多さが際立った。百景社、カトリ企画、ディディエ・ガラス、A La Placeなどが一人芝居を上演した。劇場の規模や公演数などから考えて一人芝居を持ち込んだ、という劇団も多かったようであるが、観客にしてみればこれほど愉快なこともあるまい。多くのステージをこなすことで成長し、パッケージングしやすく地域にも持っていきやすい形態である。一時間程度の上演時間で観劇しやすいものが多く、またそれぞれの作風の違いを比較しながら消化できて観客にとっても楽しい時間であっただろう。

■ 百景社「女生徒
 太宰治「女生徒」を、大胆な切り口でアレンジした一人芝居を持ち込んだ。すでに筑波で公演を行って一週間後の再演であるが、鮮度も練度も高い。百景社は太宰作品をすでに二作品、舞台化しており、三作目となる本作は山本晃子の一人芝居である。太宰のテキストを解体し再建したうえで、1941年へとタイムスリップする。台本は太宰の『女生徒』に一部省略をくわえたものである。第二次大戦期の戦争が終わる1945年までを舞台にして、日本のどこかにいたかもしれない元気で不満屋で、しかし魅力的な女生徒を描き出した。
 見所はいくつもあるが、同じぐらい冗漫なところもあったように感じる。山本晃子のオーバーで不条理だが、ひょうひょうして楽しそうな所作の一つ一つが、太平洋戦争の空気や爆撃、銃撃音と重なり合いながら、そこに戦場と拮抗するほどの強い日常の存在をうかがわせる後半部にこそ心奪われる。
 日常の穏やかさや、少女の不満が、世界に対する抵抗にすら見えてくる。前半はコントで笑いを交えた日常描写であるが、その時間がひとつひとついとおしく観客の心に埋め込まれていく演出の妙は、観劇後も数日続くほどの切ない余韻を残してくれた。一見オーバーすぎるように見える演技は、笑いだけではなくて同情や哀愁や戦慄を誘い、その感慨の複雑さには芸術的で複雑だけれど、エンターテイメントでもあるようなすがすがしさも同時に残る。なかなかの名作になるかも? なんて予感を抱かせる一作品に仕上がった。持ち運びできるよう工夫された小道具も面白い。

■ カトリ企画ANNEX「夜光 / 蜜
 カトリ企画ANNEXは三〇分の一人芝居を二本展開した。一つは泉鏡花「夜行巡査」をモチーフにした「夜光」。酒巻誉洋が演出し、森田祐吏が出演した。もう一つは室生犀星の小説「蜜のあはれ」をモチーフにした劇団ajiの島が演出し、第七劇場の小菅が出演する「蜜」の二本立てである。
 まず、「夜行巡査」の演出は、徹頭徹尾森田の演技に注視させるものだ。一人で数役を演じる森田の、やや強面であるが繊細な表情。鏡花の文体とあいまってまるで琵琶法師のような不可思議な野生をもつ俳優である。もともととても「濃い」森田の演技がこの演出によってより深い闇の側に入ったようで、これは新境地、といってもよいだろう。しかし演技も作品も硬質でかたく、男性的に寄りすぎた印象があり、女性らしさを演じ切ることができない弱みもうかがえた。
 「蜜のあはれ」は室生犀星最晩年の戯作風小説で、金魚のお嬢さんと人間のおじさまとの二人の話。小菅と島の相性は抜群で、小菅の演技は軽やかで楽しく朗らかであり、島はその楽しさを存分に引き出しながら、コミカルな動作の中にも、若い娘に翻弄される老人の哀れさを織り込んだ。奇抜な衣装に身を包み、水差しにいる架空の金魚に話しかける。小道具は次々と見立てに使われ、ひげ剃りで頭をそり始めるわ、ボウリングするわ、小菅は高校生男子のようなばかばかしさと老人の惨めさ、若いお嬢さんのはしゃぎっぷりを縦横無尽に演じてみせる。
 なかでも印象深かったのは、老人が泣くシーンである。小菅が涙ながらに老人の役を演じ、その直後に、目に涙を浮かべたままで女性の役に転じたその一瞬の、人の身体が引きずってしまう「役」が二重写しになった瞬間であった。この演出がすばらしい。どきりとした観客は多かったであろう。終演後のトーク!に登壇したブルーノプロデュースの橋本清が指摘していた。

■ A La Place「女がひとり
 A La Placeは、イタリアが生んだノーベル賞作家ダリオ・フォーの代表作「一人の女」を、暗くシリアスでしかしどこか開放的でもある悲喜劇に仕上げた。
 赤い服に身をつつんだ蔡恵美は四角く狭い透明な空間に閉じこめられている。白一色でけして広いとは言えないセンティオの舞台空間に、移動式のセットを組み、動的でダイナミックな美術を持ち込んだセンスがいい。世界的な喜劇作家として著名なダレル・フォーらしい、セクシャルでもの悲しく、悲劇的でありながらキュートでもある復讐劇を、A La Placeは囲われた女性の悲劇性に注視してシャープな演劇に仕上げた。演出はシンプルな物語劇の体裁で、激しい身体表現も意味のくみ取れない無駄もないすっきりとしたものである。それはしかし、地味でもあるが透明な箱の舞台美術を中心に物語劇としての「一人の女」にふさわしいものであった。派手さや驚きには乏しいものの、とにもかくにも演技を見せる物語的のストレートプレイの舞台であった。やや前半が冗漫だったが、舞台には現れない多くの人物を顕然と相手にする蔡恵美の演技力は見事の一言。

■ ディディエ・ガラス「アルルカン、(再び)天狗に出会う
 ディディエ・ガラスは斬新な仮面劇で世界的評価を受けるパフォーマー。「アルルカン、(再び)天狗に出会う」を上演した。アルルカンはイタリアの即興劇「コンメディア・デッラルテ」の道化役である。その伝統性と可能性の両方を模索したかったというディディエは、アルルカンのみならず京劇、能、狂言、そのほか様々な仮面劇や伝統芸能の所作を模倣し、さらにアップデートすることでユニークでコミカルな楽しくも切ない舞台空間を作り上げた。
 実に芸達者でパフォーマンスとして非の打ち所がない。体調にも左右されるであろう激しい演出であったが、ディディエの舞台には、仮面劇の手法を批判的な距離をもって接する力も働いている。仮面をかぶる俳優の主体的なありかた、つまり仮面の「下」にあるディディエ自身の「顔」のありかたにまで問いかけを持ち込んでいる。舞台の最後、ディディエが仮面をとり、ポロシャツをきて自らの記憶を語り始めるとき、そのときには「仮面」がもつ遮蔽性やコミカルさに頼らないディディエ自身の語りが舞台空間の中に生成された。ディディエの舞台はエンターテイメント的な笑いと楽しみだけしかない世界にはない、芸術の暗い深さへの誘いを兼ねており、この完成度は「SENTIVAL!」中最高の高みにあったと感じられた。

実験的作品

 また、代々のSENTIVAL! がそうであったように、実験的で冒険的な作風の作品が多く印象に残った。shelf、ブルーノプロデュース、七つ寺プロデュース等が、テキストのコラージュ、身体表現の追求、独創的な舞台美術などを模索した。ort-d.dや前回劇評を書いたユニークポイントは近代文学作品の舞台化を試みる。
 各作品はコンセプチュアルで、それぞれに難解な部分を抱えつつも、大規模な商業演劇ではありえない冒険的な現代演劇を模索していた。

■ shelf「edit
 shelfは今作「edit」と題し、「untitled」以降模索しているテキストコラージュの手法を試した。演劇における「編集」はテキストと身体との距離感をはかるものであったらしい。舞台には女性が五名、男性が二人、金色とベージュを基調にした神秘的で荘厳な衣装に目を奪われる。
 作品全体の構成は、俳優たちがそれぞれの演技体を保持しつつ、明らかなドラマを排除しながら進む、不明瞭でポリフォニックな現代演劇だ。同時多発的な展開こそ少ないが、舞台のどこを見ればいいのかわからず、緊張を強いられる。ポストドラマの現代演劇らしく、難解で演出・作劇の意図を組みにくい作りだが、同時に俳優たちがそれぞれに発するテクストと格闘し、演技と発話とが絶妙にせめぎ合う、一筋縄ではいかない作品にも仕上がっていた。
 コンセプトや構図は面白いが、やや全体として平坦な演出に感じられ、また舞台の全体を凝視し続けなければならない構造は、一時間の上演時間すらやや長いものに感じさえた。ドラマに蝕まれない演劇空間を持続可能なものにするにはもう一工夫必要だろうか。

■ ブルーノプロデュース「サモン
 ブルーノプロデュースは現在俳優二名を加えた三名の劇団となっている。俳優たちの「記憶」を素材にして舞台を制作するドキュメンタリー・ポップという手法で舞台制作を行っており、今回は病気の記憶をテーマに制作したとのことである。
 水族館のような淡い青と、本当に淡くていまにも消えそうな明度の光。俳優は演技というよりも、ドキュメンタリーでも撮っているかのような空々しく、他人行儀な演技と言動である。まず李そじんが自分の病気の話をする。大きな病気はしたことない。でも、昔風邪をひいて、その時に見た夢が忘れられない。
 彼女自身の生々しい体験だとは思えないほどの、淡々とした口調だった。一瞬壁にはりつくと、それからなんの脈絡もなく床に倒れる。謎の行為が、延々と続いた。やめてほしいと思いながら目がはなせない。
 暗い闇の中に、曖昧な光で人の居ない水族館のような劇空間を、ぞわぞわするような不可解さが包み込む。ノイズサウンドを中心とする不快感と落伍感がないまぜになった音楽、とりとめのない会話と重い過去の記憶にすがるでもなく、完全に客観的になるわけでもなく、ひたすら解法のない数理的な演劇だと思えた。心地良いかそうではないかは別に、ストーリーでも演技力でも身体性でもない宙づりの何者かに浸っている時間はたしかにほかの演劇ではあまり感じたことがなく、しかも各人の記憶という体に染みついたはずの体験から作り上げているはずなのに、この嘘のような不安感はなんなんだろう。これを突き詰めた先には演劇を刷新する何かがあるのかもしれない。
 だが、「記憶」から舞台を制作するという要素の重みが不明瞭だったきらいはある。記憶とはそもそも改変されて、曖昧なものだ。ひとつひとつの記憶がもつ重みをとらえ損ねているようにも、扱いかねているようにも見えて、メッセージやコンセプトのブレは否めない。記憶を舞台につなぎとめるための模索を続けていけば、きっと広い世界につながっているはず。

■ 七つ寺プロデュース「HR
 名古屋にある「七つ寺共同スタジオ」がプロデュースする公演「七つ寺プロデュース」の東京公演。第七劇場の鳴海康平氏が美術と演出を担当した。白布を大胆に舞台の背後に垂らし、舞台中央には人が座れるほどに大きなスピーカーと蔦をまとった柱を配置した。空間構築は見事の一言だ。俳優の身体表現にとどまらない映像やミニマルサウンドを大胆に使った実験的な舞台に仕上げた。ただ、演劇としての質はどうだったか。「HR」とはとある作家名のアナグラムで、彼の書いたさまざまなテキストを断片的に切り接ぎ、俳優たちとの記憶や会話をコラージュしたもので、それぞれに一貫性も関連性もない(少なくとも、僕には見いだせなかった)。俳優たちの記憶はそれぞれに面白く楽しいものもあったものの、舞台美術が要求する「美しさ」やHR氏の作品世界とは相容れない印象も受けた。現代演劇をどのように理解するのか、あるいは難解な作品と観客はどう向き合うのか。個人的に難しい課題も見えた作品であった。

■ Ort-d.d「夜と耳
「SENTIVAL!」のクロージングはOrt-d.dの第六回になる本公演「夜と耳」である。坂口安吾後期の名作短編小説「夜長姫と耳男」をベースに、男優二人女優三人による、幻想的で暴力的な土俗的でもあり神話的でもテキストの魔力を引き受けながら、緊張感とドラマ性あふれる舞台に仕上げた。
 本公演では「夜長姫と耳男」のテキストに、同じ安吾による名評論である「堕落論」のテキストをコラージュした。「夜長姫」には出てこない男性が舞台上に配され、恐怖と寓話の世界に現実世界との接点を強く持たせた作品解釈は、安吾の痛烈な現代社会批判とも、あまりにも寓意に満ちた「夜長姫」の世界ともある程度の距離をとっている。
 舞台空間はライトが三つに椅子が数個、中央には虎紋の敷物を模した絨毯とシンプルであり、俳優の衣装も一人の男性はスーツで「耳男」役を主になう男性は茶色のゆるやかな衣装。女優は平佐喜子、渡辺麻依 金子由菜の三名ともが、同じ仕立てで血のように赤い。女優たち三人がアンサンブルを駆使しながら一人の「姫」を演じるテクニックには、魔術的な魅力と暴力的な恐怖心をあおる凶器の姫を舞台空間に顕現させるのに有効な手段だったように思われる。一方で「耳男」の配役は何かにとり憑かれたかのように振る舞う芸術家の姿を必死で演じつつも、原作にあった狂気と正気の間でのみをふるう、窮鼠の気配を出すまでにはいたらなかったように感じられた。終演後にもっと力強い演技であればなぁ、とも思ったが、数ステ後の演技を見てみたい欲にもかられる。

時間の流れ

 A.C.O.A.や劇団渡辺は、作風こそ似るところが少ないが、演劇空間に流れる多様な時間の流れ方との戯れ方がよく似ていた。50分から100分程度のやや短い上演時間の作品が多いなか、俳優たちに大胆な静止―何もしない時間―を要求し、のんびりと歌ってみせて、踊ってみせて誘ってみせる。ストーリーを解体しテキストを自在に組み合わせながらも、ただ早い速度で次々とストーリーを展開させるような劇薬的な作りをこばみ、ゆったりとした、まるで音楽を聴いているかのような心地よさがある作劇である。
 「静か」さや「ポップさ」といった尺度とは違う独特の速度感は―僕の偏見もあるだろうが―東京のような大都市の演劇では難しいようにもしばしば感じられることがある。瞬きの間に展開が変わる演劇はまるで生き急ぐようにも死に急ぐようにも思えてしまうことがあった。劇団の作風が地域性と直に結びつくことはないのだが、濃密だがゆったりとした時間の中で行われる演劇はせまい東京の息苦しさとは少し異なる居心地がよい凪ぎを感じた。

■ A.C.O.A.presents「スピリッツ オブ ジョン・シルバー
 A.C.O.A.は那須を本拠とする劇団。唐十郎の名作戯曲『ジョン・シルバー』と『続ジョン・シルバー』をリミックスしてアレンジした。
 一人多役、台詞は切り張りでアンサンブルも加えて、さらにギターの引きがたりに歌と踊りも織り交ぜる豪華なステージ! 原作はストーリー性の強い恋女房小春の妄念を中心に繰り広げられるが、ストーリーテリングの妙に味がある『ジョン・シルバー』のテキストを解体し、それをさらにズラしながら積み重ねる鈴木史郎の演出は、『ジョン・シルバー』の物語的なおもしろさをほぼ完全に殺害してしまったようにも感じられた。でも、楽しい! 俳優たちも気合い十分で、とくに八木光太郎のパワフルな演技が光った。彼のもつ火力が舞台と客席をぼうぼうと燃やす。演劇を見に来たはずなのにお祭りにでも来てしまったかのような、ぼっと燃えつつ、切なくもなぜか愉快で、妙にくつろいでしまう空間であった。

■ 劇団渡辺「ニホンショキ
 劇団渡辺は神話から現代までの歴史を一時間に納めた。静岡を拠点に活動する劇団で、舞台には和装をベースにした豪華な衣装に身を包んだ男女の二人芝居である。一時間と少しの上演時間に、バリエーション豊かに多様なスタイルをおりまぜた。中でも日本創世のコントを行ったのち、天岩戸にこもってしまったアマテラスを待つシーンが秀逸だ。俳優もじぃっとろうそくを見つめてなにもせず。なんにもない奇妙な真空が神代の舞台を現世へとひきつぐ妙で、こののち駿河神楽があり、混線する泥臭い人間劇がある。太平楽なコントであった神代と、古典戯曲がえぐり出す人世の苦しい土臭さとの対照は、ニホンショキと題されたこの舞台最大の見せ場だ。
 自分たちの生がもっと別の巨大な歴史とつながっていることの確認が、このように気持ちのよい舞台になるのか、と驚く。二人の俳優は抜群の錬度で阿吽の呼吸をひしひしと感じる。演出に振り回されることなく日本史の大体を演じきった。スケールの大きさと丁寧な作劇に脱帽。

物語演劇

 ドラマを排し、演出と俳優の身体に徹底して注視する実験的な演劇を模索する劇団の一方、物語劇を中心に上演する劇団たちも目立った。QやLiveUpCapsuls、iaku.などは物語に強い信頼をよせて演出プランを策定しており、演出に重点をおくもの、徹底して戯曲を信じるものとそれぞれに異なるスタンスをもっていた。しかし、彼らに通じていえるのは、ある物語の中で活動する人の生に丁寧に視線をくばり、そこから目を離さない、という姿勢である。

■ Q「地下鉄
 Q「地下鉄」。壁面に沿ってつるされた無数の電球と、大きなミラーボール。舞台空間は止まっているのに、何か別のものが動いているかのような、ミラーボール独特の光の軌跡が散る暖色が鮮やかなQの世界を作りだしていた。
 それぞれにタイプが異なる三名の女性と、陰鬱で変態的な妄想にふける一人の男性が地下鉄のなかですれ違う物語。繰り返しの多い物語構造と身体動作が、くだけた口語体とよくあう。オナニーやセックス、臨まない妊娠などの生理的なモチーフを、生理的な嫌悪感を含むようなところまで剥き出しのまま、大胆に扱う手法には好悪が分かれるだろう。個々人の好き嫌いというよりも、もっと感覚的で、人間の本能的な嫌悪を催すところにまで踏み込んでくる作劇には独特の個性がある。物語は進むが、最後まで相互に分かり合う事はない。断絶の闇は深い。メタ的な視点をところどころに導入し、物語であること、俳優であることに大胆に接近するが、それがまた嫌みなぐらいに効果的で面白い。おおざっぱに見えて繊細な展開を、上演時間にきちんと収斂させた。
 交差してしまってもわかりあえない物と出会ってしまう嫌悪感のあわいにある感情は嘘のつきようがないほどに深いテーマになりうる可能性があるだろう。だからこそ、この世界の狭さも気になる。分かり合うための努力は放棄していいのか。生理的な生々しさを舞台にあげる力業の舞台である。やや人を選ぶともいえるが、見おわったあとの胃部不快感の心地よさはなんといったよいものだろうか。

■ LiveUpCupsules「大盈若沖
 過去の人物を取り上げる演劇は、しばしばその人物の造形や生き様の凝縮度合いがうまくいったりいかなかったりするものだが、画人である伊藤若冲にフォーカスをあてたこの作品はそこで少しひっかかりがあったか。会場は手前と奥に観客席があり、舞台は席に挟まれた空間に設置されていた。黒い壁面の劇場に、床に敷かれた白い布が壁面寸前で天井まで引っ張りあげられている。切り込みが縦にいれられて、左右に二面ずつ、白い壁面が構築されるという仕掛け。どの席からでも演技空間を見渡せる面白い舞台美術ではあったが、江戸時代の中期の京都を想わせるにはやや現代的すぎるように思えた。
 若冲の人生を理想化された芸術家としてではなく、京都四条の青物問屋の息子として描く視点の妙がすばらしい。伝説的なエピソードが数多く残る若冲を、家族や仲間に支えられ続け、周囲の期待や交流をもとに作風を進化させる作家として、京に生きる経済人として素朴に描いて、ドラマとしてはやや地味にすぎる感もあった暖かく素直な作品に仕上げた。話の展開も丁寧で、京都奉行の悪行直訴のために江戸に下るクライマックスはなかなか見応えがある。多くの資料に振り回されることなく、若冲の何を描きたいのかがはっきりしていて見やすい芝居であった。細やかな気配りと物語への落とし込みが丁寧で、劇作と演出をてがけた村井の技量をたたえたい。
 上演時間の短さからから、若冲を囲む人々もそれぞれにユニークな持ち味をもって造形されていたものの、やや見せ場は少なく感じた。また、ストレートプレイの演出で見せる手法は、見慣れたものでもあり安心感はあるものの、新味に乏しい。時折、若冲の逸話を表したものの、説明がなくなんのシーンなのかすぐには分からないものもあり、上演時間一時間、人一人の人生を描くのには短すぎたきらいもある。

■ iaku「人の気も知らないで
 「エダニク」で劇作家協会新人賞を受賞した元売込隊ビームの劇作家、横山拓也が自らを主宰とし、自作の中ですぐれた作品を全国へと宅配するユニット「iaku」の旗揚げ公演「人の気も知らないで」である。関西での公演をへて「SENTIVAL!」に持ち込んだ。
 「エダニク」でみせつけたミステリ風味の労働劇という要素を、登場人物を女性に据えてさらにシャープに洗練した本作も、軽妙でありながら重いテーマを扱う高い質量の作品となった。
 地方のタウンガイド誌で働く女性三人が結婚式での出し物を相談するために集まった喫茶店で、事故にあった同僚の話や嫌いな取引先の話題を通じて三人は意見を対立させる。一幕物の舞台ながら、会話だけで次々にあかされる衝撃の事実の数々と、ついに分かり合うことのできない人の業の深さなどテーマは重い。しかし、その重さがしっかり日常の生活、そして「仕事」と結びついていて、舌を巻くほどの巧みなストーリー運びである。三人の会話から舞台には出てこない物語の主人公ともいうべき三名の人物が立ち上がる。彼らの存在感がくっきりと立ち上がっていく劇作がすばらしい。腕を失いながらもけなげに人を祝福する女性、セクハラばかりの取引先の男、そのさなかに結婚する男女。舞台にいない誰かを浮かび上がらせる技法はまさに劇作家の力量を思い知る一瞬だ。
 ストレートプレイの会話劇ということで、カフェを模した舞台美術にも演出にもとくに目を張るわけではないが、ただただ戯曲とストーリーテリングがすばらしい。もうひと呼吸深いところへと足を運んでほしいと思うこともないではないが、人と人とがぶつかい、わかり合えなくても、時間をおくことでいつかわかりあえるかもしれない、という含みは終わりとしては曖昧なものの、すっと終わってしまうだけではない、一筋縄ではいかない作品を作ろうという劇作家の意気込みであろう。俳優たちはひょうひょうとして戯曲を進めた印象である。変わったことをしたわけではないけれど、声も演技も十分によかった。

■ 14+「土地/戯曲
 福岡の劇団14+は劇団こふく劇場の永山智行脚本による「土地/戯曲」を上演した。詩的で神話的な演劇であったが、演出や俳優たちの想像力がそれにばっちりとはまっていたかは疑問も残る。
 ふらりと主役の男性が手に箒をもって現れる。旅だってしまった姉を探すために、男はあちこちの土地へと駆け回っているのだ。途中では僧侶と出会い、また盲目の老人とその娘と出会い、老人を殺害したいと願う男性と出会う。彼らの出会いは土地の記憶と結びつきながら、しかしそのどこにも男の目指すものはないという。妻においかけられ、よくわからない男に襲われ、たどり着いた場所にはただの骨だけがあった…。
 ストーリーは複雑で不可解で謎めいている。繰り返される骨や風のモチーフは、土着神話のような謎めいたイメージを観客に何度も想起させて、それらの謎がそのまま登場人物たちの不明瞭な動機や疑問だらけの行動などに結びついている。だが、その分かえって観客には謎めいた疑問がついてまわり、いささか冷めた印象をもってしまう瞬間もないわけではなかった。その疑問をものともしない脚本の、土俗的な道具立てや文脈に、本来コメディや物語劇を得意とするという14+の演劇は見合ってなかったのかもしれない。だが、そこで14+と永山の戯曲との衝突で面白いものが産まれ…そうではあったけれど、そこまではいかなかったか。もっと大胆に演出を加えてもよかったようにも思え、唐突に、ふいに「正気」に帰ってしまうメタ的な視点な導入も二度目は余計であったように思う。
 とはいえ、多数の俳優が出て大胆に扱われた舞台空間は見応えがあり、みな上手でアンサンブルがきいている。桃色の蓮華が咲いているかのような照明の美しさにも惚れた。

ダンス

 ダンス公演としては、木野彩子による「からたち」、そしてピアノとマリンバによる「ダンス×クラシック」が行われた。巣鴨協会を舞台に行われた二つのダンス公演は、教会という場の魔術にもかけられたように幻想的で魅力的である。教会という場所を敬い、そのオーラを存分に生かして作品を作り上げた。
 ただし、「ダンス×クラシック」は日によってダンサーと演目が違うもので、また僕が観劇した回は普段利用している二階の礼拝堂ではなく、一階の幼稚園に会場が変更されていた。また礼拝堂で賛美歌の練習中であり、音楽の公演としてはきわめて不利な条件であると感じました。そのため今回は劇評から外しました。どうぞご寛恕くださいますよう。

■ 木野彩子「からたち
 木野彩子「からたち」は、昨年度より彼女が取り組んでいる映像作品プロジェクトである「AMANOGAWAプロジェクト」の一環としても位置づけられている。
 本公演は、木野が自分の誕生から現在までをダンスで表現する第一部、新百合ヶ丘AMANOGAWAプロジェクトのメンバーと共にパフォーマンスを行う第二部による構成である。
 木野がクラシックに乗せて自分の生い立ちを語りながら踊る第一部は、教会が持つ荘厳な雰囲気の中で、高い技量を持った熟練のダンサーらしい見所あるものであった。
 彼女の身体は、ことばと体がそれぞれに同じ言葉を発しているかのように素直で純粋だ。大きく手を回して球体を作ればプラネタリウムの天蓋を、軽やかにライトの光点を走れば点と点とが家や学校の地図になる。
 強い個性は感じないものの、私小説のような質量とドキュメンタリーを見ているかのような「飾り」のない素朴で軽やさが魅力だ。
 第二部は、客席にいたキャストたち(十名以上!)とともに、キャンドルの明かりを手にして踊る。第二部はキャストたちも専門的なダンサーというわけではなく、ダンス的、演劇的な見どころはない。やや現代的で実験的なものを好む人や完成度の高さを追い求める人には物足りなさを感じただろう。けれども、一人一人が教会で踊ることに意味を持たせ、キャストたちがライトの明かりを背に退場するシーンでは、巨大な影が尾をひいて十字架に浮かび上がり、天界の霊たちの存ずるはかくや。敬虔な気持ちになる。
 ダンスにもかかわらず、演劇のように物語的で、見やすく分かりやすく、丁寧な作りの、心あたたまるような空間であった。教会という空間の美しさをまた違ったかたちで実感する公演でもあった。

 普段は個別に観劇することが多いそれぞれの作品でも、フェスティバルの単位に取り込まれることでまた別種の魅力を発見することができる。普段は視野に入らないようタイプの作品との出会い、普段見慣れた作品にふと見いだす他作品との連関、さまざまなムーブメント。理使用される劇場が固定されているからこそ、新しい人々にもまたその劇場の思わぬ使い方にも驚かされる。

 「SEMNTIVAL!」は統一的なコンセプトをもたないけれど、だからこそ観客はSENTIVAL!に参加する作品たちに何かの統一性を読み込んでしまう。それは誤解を招くこともあるだろう。けれども、新しい発見をうながすことでもあるはずだ。

 フェスティバル/トーキョー(F/T)のように大規模なものではないが、小規模でかつ地域に密着した演劇祭だからこそ、いま第一線で世界と戯れる劇団たちの創作を存分に味わえた。小さな劇場だからこその、俳優と観客の「近さ」がある。これが演劇と観客の近さになっていくこともあるだろう。もちろん、これだけの公演数のすべてをみるのは楽ではないし、フェスティバルとしてのまとまりの薄さも気がかりではある。けれども、この小さな演劇祭が与えてくれる悦びにふかぶかと浸る仲間が増えてくれれば、きっとそれはパフォーミング・アーツの世界をもっと豊かにするはずだ。

*このしたposition! のリーディング公演は、体調不良で見ることができず、劇評は書けませんでした。関係者のみなさまごめんなさい。

【筆者略歴】
 梅田径(うめだ・けい)
 1984年生。早稲田大学大学院日本語日本文学コースの博士後期課程に在籍中。日本学術振興会特別研究員DC2
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/a/umeda-kei/

【上演記録】
SENTIVAL! 2012
フェスティバルディレクター:山田裕幸/鳴海康平

期間:2012年4月15日(日)~7月15日(日)
会場:
atelier SENTIO アトリエセンティオ
SUBTERRANEAN サブテレニアン
巣鴨教会

参加団体:
ユニークポイント(東京)= atelier SENTIO(4月15日-22日)
Q(東京)= atelier SENTIO(5月3日-6日)
LiveUpCapsules(東京)= SUBTERRANEAN(5月10日-13日)
百景社(つくば)= atelier SENTIO(5月12日-13日)
shelf(東京・愛知)= atelier SENTIO(5月24日-27日)
木野彩子(東京)= 巣鴨教会(6月1日-2日)
カトリ企画(東京)= atelier SENTIO(6月2日-3日)
A.C.O.A.presents(那須)= atelier SENTIO(6月7日-10日)
このしたPosition!!(三重×京都) = atelier SENTIO(6月16日-17日)
劇団渡辺(静岡)= atelier SENTIO(6月18日-19日)
ブルーノプロデュース(東京)= atelier SENTIO(6月20日-25日)
14+(福岡)= atelier SENTIO(6月22日-24日)
A La Place(東京)=atelier SENTIO(6月26日-27日)
iaku(大阪)= atelier SENTIO(6月29日-7月1日)
七ツ寺企画(愛知)= SUBTERRANEAN(7月5日-7日)
Didier GALAS(フランス)= atelier SENTIO(7月7日-7月9日)
Ort-d.d(東京)= atelier SENTIO(7月12日-7月15日)

主催:atelier SENTIO
 ユニークポイント Q LiveUpCapsules 百景社 shelf A La Place 木野彩子 カトリ企画 A.C.O.A. このしたやみ 劇団Hi!Position!! 劇団渡辺 ブルーノプロデュース 14+ iaku 七ツ寺企画 NPO劇研 Ort-d.d
共催:SUBTERRANEAN
協力:日本基督教団 巣鴨教会 アトリエ・ドミノ 第七劇場

*上演記録詳細は膨大な量になるため、省略した形で掲載した。ユルされたし。


「SENTIVAL! 2012 報告 2」への21件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜
  2. ピンバック: 梅田 径
  3. ピンバック: 李そじん
  4. ピンバック: Yumie Kurihara
  5. ピンバック: 森田祐吏(morita you-ri)
  6. ピンバック: 横山拓也
  7. ピンバック: 赤井康弘
  8. ピンバック: 永津 真奈
  9. ピンバック: 梅田 径
  10. ピンバック: 宿南麻衣
  11. ピンバック: スズキヨウヘイ
  12. ピンバック: 橋本清
  13. ピンバック: 山中秀一
  14. ピンバック: 山中秀一
  15. ピンバック: Hemi CHE
  16. ピンバック: alaplace
  17. ピンバック: Chisato Takeshita
  18. ピンバック: Junnosuke Tada
  19. ピンバック: Junnosuke Tada

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