範宙遊泳「範宙遊泳展 幼女Xの人生で一番楽しい数時間」

◎文字と役者では、どちらが物語か
  さやわか

範宙遊泳展チラシ

 2月に新宿眼科画廊地下で行われた範宙遊泳の公演は「範宙遊泳展」と名付けられていた。この公演に意欲的な試みはいくつかあったが、ともかく観客にいわゆる演目として提示されていたのは作・演出の山本卓卓による一人芝居「楽しい時間」と、休憩を挟んで上演された二人芝居「幼女X」の二本であった。

 「楽しい時間」は開演前に観客に書かせたアンケートを使いながら、著述業として言葉を紡いでいく男の姿を描いたものだった。この作品の世紀末的な世界観は震災以後の文脈も匂わせたが、しかしより興味深かったのは筋書きよりも書き言葉(エクリチュール)の扱いである。山本卓卓は壁面に観客のアンケートにあった「楽しい時間」を感じさせる言葉を、仕事としての執筆を模しながら書き連ねていく。その行為は筋書きの上では、単に職業と実生活が引き裂かれてしまったという意味を感じさせる。つまり「楽しい言葉」は男の憂鬱な現実と無縁のものだというわけだ。

 しかしこれが演劇であるということを意識して考えると、つまり観客が書いた「楽しい言葉」は、演劇自体とは関係のないものであり、相容れないものだ、ということになる。観客は演劇の内容を知らずに、好き勝手に「楽しい時間」について書いたのであって、それは作中の男とも、範宙遊泳の演目とも関係がない。

「範宙遊泳展」から
【写真は「範宙遊泳展」から。撮影= amemiya yukitaka 提供=範宙遊泳 禁無断転載】

 当たり前のようだが、それは究極的には、書き言葉というものと、そこにある人間との断絶として描かれている。つまり簡単に言えば、人は言葉ではないし、言葉は壁面に記述できるが、人は三次元的な存在である。その絶対的な区別が、物語上での男の苦悩に重ねられていく。この演目はそういうものであった。

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 休憩のあいだ、観客は会場内にさりげなく隠されるようにしてあった狭いトンネルをくぐり、次の「幼女X」が上演される舞台へと誘導される。ここで観客は、自分たちが三次元的な存在であることを強く意識する。「楽しい時間」を見ている間、そこにあるのは周囲を壁に囲まれた狭い舞台だった。主人公の男は、その壁に書き言葉を連ねていた。だが我々は三次元の身体を持った存在だから、壁面に穴があれば奥へ進むことができる。文字ではないのだから。

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 このような身体と書き言葉の対立は「幼女X」において全面化する。この芝居は二人の男と、壁面に投影される書き言葉の共演によって演じられるのだ。登場するのはまず外科医と結婚しセレブになった姉に複雑な感情を抱いている弟。そして、その姉の元彼で、今は「世直し」のためにハンマーを持って街を徘徊する男。元彼との二役で演じられる外科医。人間が演じるのはこの三人である。つまり、舞台には実質ふたりの男がいるだけである。

 そして姉とその他の登場人物の台詞は、すべて舞台正面の白いスクリーンに投影される。映像だ。書き言葉の存在でしかない姉と、舞台上の二人の男たちは、決して交わることができない。彼らは社会からほとんど堕ちかけていて、そのことに気づいている。そして、あるべきだった自分の人生のことを考えている。彼女と結婚していたかもしれない人生や、姉を含めた家族の中で立ち回るべき自然な仕草が、「役者」である彼らの口から臨場感と具体性をもって語られる。

 しかし、彼らの声は白い壁に投影された書き言葉の前では煙のように曖昧に消えていくばかりだ。彼らは絶対に書き言葉のようには生きられない。物語は書き言葉の中にあって、彼らのがわにはない。彼らは役者であり、演じる身体だが、だからこそ物語そのものではないのだ。

 そもそもこの芝居には美術と呼べるものはなく、舞台は四方に真っ白な壁があるだけである。物語の冒頭は新宿御苑だが、映像は新宿御苑を実写で映し出す。その前に立つ、二人の男たち。彼らがどれだけ新宿御苑を想っても、写真の中には入っていけない。投影された写真の前に立っても、その場所にいることにはならない。身体に映像が重ねられてしまうばかりなのだ。

 要するに役者たちは、投影された書き言葉、あるいは壁という二次元の世界に「物語」を見ながら、しかしそこに決して入り込むことのできない身体を抱えている。しかし、その「物語」とはいったい何であろうか。筋書きの上では、彼らが交わることができずにいるのは、姉や元カノ、社会生活といった平凡な日常そのものなのだ。これが、今回の範宙遊泳が仕掛けたことのすべてだと言っていいだろう。役者たちは芝居の上で、決して物語であることができない。だがそのことによって、彼らは芝居の上では日常であることができないのである。

「範宙遊泳展」から
「範宙遊泳展」から2
【写真は「範宙遊泳展」から。撮影= amemiya yukitaka 提供=範宙遊泳 禁無断転載】

 近年、若手の演劇にはアニメや漫画的なキャラクターを演じることに接近したものがしばしば見られるが、そこで身体の位置が熟慮されていないこともしばしばある。今回の範宙遊泳は、図式的なまでに「二次元」や「フィクション」と「身体」の違和を語ってみせたことに今日的な問題への意識を感じさせる。ついでのようだがそれは、所在なき人生の半ばにある若者を描いた像としてすら正確なのだ。

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 件の元カレがなぜハンマーを持ち、「敵」を探して徘徊していたかというと、「敵を倒す」という英雄的な行動によって彼自身フィクションとなり、そのことによって日常を回復しようとしていたからだ。そして終局において、彼は連続幼女強姦殺害事件の犯人を殴打することで「世直し」を完遂しようとする。彼はこのとき、次のように言っている。

「犯人が警官に連れられて出てくるその瞬間を待っている。姿を現した瞬間、敵になる。それまではあくまで犯人。言ってしまえばフィクションだ。生身のそこにある悪だけが敵。生身でない悪はフィクション」

 この芝居の中で生身の体を持っているのは、本当は役者である彼自身なのだ。しかし、右の台詞ではその立場が巧みに反転させられている。フィクションは壁に投影された書き言葉の中にしかなく、「犯人」たる「生身の敵」もそこにしか現れない。いわば壁の中にある書き言葉にこそ「物語というリアリティ」があり、それを感じている彼の身体は、恐ろしいまでの虚ろさに捕らえられている。そして姿を現した「敵」を殴る瞬間、彼は「そうか、こうして俺はフィクションになっていくんだな、と思った」と言い、この反転を理解するのである。

 だからこの芝居のラストシーンは「テレビの中の光景」という虚構性を示唆する枠組みが与えられながら、しかしすべてを崩壊させていく。彼が犯人を殴った瞬間、映像から色があふれ出すようにしてフィクションと役者は融和していく。

 舞台には最後に、書き言葉だけが残る。「まぶしくてまぶしくて そのひかりのことをわすれるひとは だあれもいませんでした」という、まるで絵本のようなラストの言葉は、もちろんフィクションそのものを意味する位相語であると言っていい。我々観客は、役者が物語そのものになった瞬間に立ち会うというマジックを見せられて、驚きと感動を覚えるのである。

【筆者略歴】
さやわか
 ライター、物語評論家。『クイック・ジャパン』(太田出版)『ユリイカ』(青土社)などで執筆。小説、漫画、アニメ、音楽、映画、ネットなど幅広いカルチャーを対象に評論活動を行う。『朝日新聞』『ゲームラボ』で連載中。著書に『僕たちのゲーム史』(星海社新書)。共著に『西島大介のひらめき☆マンガ学校①~②』(講談社BOX)。2013年6月に書き下ろしのアイドル論『AKB商法とは何だったのか』(大洋図書)を上梓予定。Twitterアカウント @someru

【上演記録】
範宙遊泳「範宙遊泳展 幼女Xの人生で一番楽しい数時間」
新宿眼科画廊地下(2013年2月16日-27日)
作・演出:山本卓卓

出演:大橋一輝 / 埜本幸良 / 山本卓卓
美術監督:たかくらかずき
制作助手:柿木初美
制作:坂本もも
*本編は2本立て(『幼女X』(約60分)と山本卓卓一人芝居『楽しい時間』(約30分))
■料金
〔一般〕予約:2,500円 当日:3,000円
〔学生〕予約:2,000円 当日:2,500円
〔高校生以下〕1,000円(一律)

■日程
〔展示〕2013年2月17日(日)~27日(木) 。入場無料
〔公演〕2013年2月16日(土)~27日(水)
上演時間 / 約90分を予定
〔web-site〕http://www.hanchu-yuei.com/
〔twitte〕https://twitter.com/HANCHU_JAPAN

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