チェルフィッチュ「現在地」

◎「〜だわ」の裏にある恐怖
 仲野マリ

genzaichi_flyerTG 2013年11月から12月にかけて行われたフェスティバル/トーキョーで、岡田利規主宰チェルフィッチュ「現在地」を観た。ある「村」の湖のあたりに突然現れた「青い雲」をきっかけに、「村が破滅するらしい」という噂が聞こえ始め、その村で暮らす7人の女性たちが、その噂を信じるのか信じないのか、その噂を広めるのか広めないのか、噂を広める人間を受け入れるのか受け入れないのか、村から脱出するのかとどまるのかを描いている。
 それは2011年3月に発生した福島第一原子力発電所の事故以来、「情報」に翻弄されるようになった日本人を描いたものであると想像される。実際、「現在地」はそれを強く意識し、「3.11後の第一作」として2012年2月に初演されたものだ。

 迷惑施設の建設計画などで村民の意見が賛否に分かれ、共同体が分断されていく物語はこれまでにもいろいろあった。だがこの作品は、そうした対外的な要因ではなく、純粋に自分たちの、それも個人としての「価値観」「優先度」「選択の違い」によって、今まで和やかに暮らしてきた気持ちが分断されていく姿を描いている。

 冒頭、登場する女性たちはそれぞれ机に座ったり、自分だけマグカップで飲み物を持っていたりする。そして怒ったり泣いたりせず、感情の起伏なくただ静かに、それぞれがそれぞれの思いを語る。出て行こうとする者ととどまろうとする者の思いはすれ違い、どちらも説得されないで、ただ平行線が続く。

 女性だけとなる登場人物は皆、「〜だわ」という女性特有の、それも最近の女性はあまり使わなくなった言葉づかいを敢えて使う。このことについては違和感があるという向きもあるが、私はまったく違和感を覚えなかった。なぜなら、これはメールやツイート、チャットといった、ネット上での言葉のやりとりと考えられるからだ。

 ネットでは自分が欲する人としかつながらないから、多くは同じ世代であったり、趣味を同じくしたりする人々だ。結果的につながった7人が女性ばかりであっても何の不思議もない。

 次に、ネットでの言葉のやりとりには、一種のマナーがある。特に、自分の意見が誤解されたり、曲解されたり、それを聞いて相手が逆上したりしないように配慮する場合、言葉づかいは非常に丁寧になり、説明はまわりくどくなり、喜怒哀楽はできるだけ外に出さないようになる。そう考えれば、彼女たちの一種棒読み的な科白術にも意味があると考えられる。

 また、最初の登場のしかたも、めいめいが自分だけの空間を持っていて、あるときまで「ROM」(読んでいるだけの状態)だった人間が、おもむろにチャット(おしゃべり)に参入するという風景も、これは現代のネット会話そのものではないだろうか。

 「会話」というより「自分の気持ちを伝える」だけのやりとりが続く中、私が注目したのは、村の破滅を予感し、自分だけでなくできれば友人たち全員で移住したいと思っている人間の「あなただから話すんだけど」とか「あなたの言っていることはよくわかるけど、でも私はそれで説得されない気がする」あるいは「なぜ私はあなたの価値観に説得されないんだろう」という言葉である。

 移住推進派は現状維持派に対し、常に注意深く「私があなたの意見に従わないのは、決してあなたのことが嫌いなわけではなく、あなたの説明が悪いからでもなく、あなたの価値観が間違っているわけでもないからね。それに、私も別にあなたに私の意見を強制していないよ」と、これまでの人間関係を壊さないようにしながら、慎重に「わが道を行く」宣言を行っているのである。

 3.11にまつわる「出るか、残るか」の話というと、避難地域に指定された福島の人々だけの問題だと思う人もいるかもしれないが、首都圏に住む私にとって、これは決して他人事ではない。神奈川県出身の岡田も、震災後放射能の影響を考えて家族で熊本に移住している。私も、今後どのように生活していくべきか、当時家族と真剣に話し合い、模索した。そして自分だけが助かりたいのではないから、友人にも声を掛けた。でも話す相手は慎重に選んだし、これっきり普通の話ができなくなるかもしれないという不安を抱きながら、意を決して臨んだものだ。まさに「あなただから話すんだけれど」の心境である。

 そんなとき、私は馬鹿丁寧な言葉を駆使して、慎重に慎重に、外堀から埋めるようにして相手の真意を測っていった。相容れない価値観の持ち主であったり、私の意見を言えば言うほど相手を悲しませたりする場合には、それ以上、放射能とか原発とか移住とか、そういう話題をとりあげないようにした。

 私の知人の何家族かは西に移住し、あるいは一時的に避難した。夫と妻で意見が食い違って別居した家族や、とどまることになったが気持ちのずれは戻らなかったカップルもたくさん見ている。「まったく気にしない」という友人も多いが、「気にしない」を表明するにも一度は考えなければならない。彼らもまた、一つの決断をしたという意味では同じ苦しみを味わった仲間だ。

 「そこにいてはダメ!さあ、逃げて!今よ、今しかないのよ!」
 …そんなふうに、ダイレクトに言えたらどんなに楽か。しかし、友と交わす言葉はたしかに感情の起伏のない、「そうね。そういう考え方もあるわよね」だった。彼らも自分たちの価値観を押し付けようとはしない。「私は気にしないわ」と言うにとどまる。

 だから私にはこの作品が身につまされる。けれど当事者であるからこそ、逆に不満も多い。会話自体に抑揚がなくても、その会話の原動力となる不安や焦り、悲しみや愛情は確かに存在し、その振れ幅に胸は張り裂けるほどである。そうした内なる叫びの描写が、行動の理由づけが、この作品にあっただろうか。

 岡田は「表に出ない対立、隠された緊張感をピリピリと感じてほしい」と願ったようだが、後ろの席からは「学芸会みたいだったね」の声が聞こえた。それほどに、舞台作品としては未熟であった。演出が退屈なのが致命的で、一様に抑揚のない喋り方が続き、7人の登場人物の個性が際立たない。一人青柳いづみだけは、よく通る声と滑舌のよさ、表現力で突出していたが、その青柳にしても、家にやってきた知人をいきなり殺して「この人は死にたがっていた」とうそぶくシーンでは、そこに至るまでの心情が浮かび上がってこなかった。もちろん、殺されるほうも、「死にたがっていた」かどうかはまったく不明だ。

 後半は宇宙船(のようなもの)で地球を脱出するかどうかという展開になるが、その宇宙船は「青い雲」が出現した近くの湖の底から見つかる。ということは、宇宙船は「青い雲」と関係があるのでは? と思いきや、何の疑いもなくその宇宙船を使って地球外に脱出することになる展開が、いかにも安直。「青い雲」の正体も、「村の滅亡」との因果関係も、はっきりしないままだ。いつの間にか「かつて滅亡した日本という国の話」として昔話を聞かせる形になっているが、そういうことなら最初から設定は日本でよかったのではないか。

 「みんな(宇宙船に乗って)移住を希望するかと思ったけれど、案外少なかった」と移住推進派が言うくだりも気になった。なぜ「宇宙」に移住しなければならないのか、乗って安全なのか、移住する星は決まっているのか、そこまで行くのに何年かかるのか、そのときまでの食糧はあるのか、その宇宙船は誰が操縦するのか、湖の底にあったのにちゃんと動くのか、などなど疑問だらけで、私が移住派だったとしても、とても乗船できない状況だ。少なくとも、現状維持派の口を通してそういう疑問は投げかけるべきだろう。

 そんなこと、「フィクション」なのだからどうでもいいだろうか? いや、「フィクション」だからこそ、ディテールが重要なのである。

 岡田は3.11を経て、「リアルからフィクションへ」自らがシフトしたと言っている。「このあいだまで、どっちかというとフィクションに対して白けた態度、べつに舞台上で人が惚れたり殺したりされてもな、みたいな感覚を持って」いたのだが、自分の生きている「今」の感覚を大事にしていたところへ3.11を経験し、「万年単位のスケールで考えるしかない放射能」の問題が浮上するや、「今」という「小さなタイムスケールから解放され」て、「フィクションが機能する扉が一気に開かれた」という。

 彼が今回の作品で仕込んだ「フィクション」を挙げると、設定を実在の場所ではなく、とある村のいつかとした点、唐突に行われる殺人、地球外へ脱出する宇宙船のようなものを登場させた点、湖の水位がどんどん減って底まで見えるも、短期間で大雨が降り続いて元の水位に戻るというノアの方舟的な時間の流れ、くらいだろうか。これらをもって「リアルからフィクションへ」などと言える画期的なものだとは、到底言えないと私は思う。逆に、たとえ現在の日本の、今を描いたとしても、フィクションはちゃんと成立するのであって、岡田が「3.11」以前に発表した「3月の5日間」も、こちらは「リアル」であって「フィクションでない」などといえようはずがない。

 演劇とは、どうつくろうが、所詮「つくりもの(フィクション)」なのである。ただその「つくりもの」がどこまで「真実らしさ」に迫れるのか。ギリシア悲劇の太古から、求められているのは「真実」ではなく「真実らしさ」の描写であって、リアルとフィクションは対立する概念ではない。観客が「フィクション」に「リアル」を見出して共鳴し、カタルシスを覚えることこそ、演劇の醍醐味だといえよう。

 この作品に「真実らしさ」が欠けているのは、「危機の源」が描かれていないからだと思う。3.11後、なぜ私たち国民が情報に右往左往しているのかといえば、「放射能」という厳然たる危機がすぐそばにあるからである。だがここでは「村が破滅するらしいという噂」をどうとらえるかに終始して、「もし本当だったら」の怖さがない。逃げるほうにもとどまるほうにも、どちらと決められない者にも、突き刺さるような痛みが感じられないのだ。ゲームとしてのディベイトを見るようで、当事者としての肌触りがない。「村が破滅する」とは具体的にはどういうことなのかについて、もっとしっかりとした「ウソ」を構築すべきだった。

 岡田は3.11後にチェーホフの『桜の園』を読み、ロシアがソヴィエトになって貴族が愛着ある土地を手放さなくてはならなくなる感覚が、福島の人々の気持ちにつながっていると感じたという。そして100年前の戯曲が今でも「有効」であることを実感し、「『現在地』は100年後にどう映るのか?」と思うようになる。
「現代の日本が抱えている問題のために役立つのが、大昔のどこか別の国でつくられたアートだってことはあり得るのだし、だから逆に現代の日本のアーティストの仕事も、未来のどこかの誰かの中で爆発する」はずだ、と。

 では、「現在地」は、21世紀の「桜の園」となり得るのだろうか。

 人間はこれまで何千年と、歴史の中に、神話の中に、文学の中に、人類の叡智と生きることの真実を見出してきた。そしていつの時代にも共通する人間の感情が描かれているものを、「古典」と呼んでその価値を伝えている。「いつ爆発するかわからない時限爆弾としての価値」とは、つまり「古典」のことである。古典をひもとけば、過去の事象を扱っていても、違う土地の話でも、それが理由で感情移入できないものなどないと知れる。

 私は、「現在地」はいつの時代ともどことも誰とも書いていない話ではなく、日本の、2011年3月11日以降の、私たちの姿として描くべきではなかったかと思う。デマといわれようが放射脳といわれようが、大好きな人を助けるために必死で「〜だわ」と静かに語りかける切なさを、あるいは自分のこれまでの生活や価値観をすべて捨てることを潔しとせずにとどまる矜持を。そのとき、両者の間で起こる殺人というフィクションが、何らかの象徴として観客の心に突き刺さるだろう。

 「今」を「今」として描いてこそ、100年後のまったく違う時代の、どこかの誰かの知恵となり、古典にもなり得るはずだ。そういう可能性を含みながら、「現在地」は、真の「フィクション」の域まで到達できずに失速してしまった不時着機のように思える。
(観劇:11月19日夜の回アフタートーク付)

*岡田氏の発言は、アフタートークのほか、フェスティバル/トーキョーのプログラム内インタビュー・対談から引用しました。

【筆者略歴】
仲野マリ(なかの・まり)
 フリーライター。早稲田大学第一文学部仏文科卒。歌舞伎など伝統芸能からミュージカル、バレエまで舞台演劇全般の劇評を書く。歌舞伎俳優・坂東玉三郎、ピアニスト・舘野泉、舞踊家・金森穣などインタビュー歴多数。2001年第11回日本ダンス評論賞佳作入賞。日本劇作家協会会員。twitter@GamzattiCom

【上演記録】
チェルフィッチュ現在地
東京芸術劇場 シアターイースト(2013年11月28日−12月8日)

作・演出:岡田利規
出演:佐々木幸子、伊東沙保、南波 圭、安藤真理、青柳いづみ、上村 梓、石橋志保
美術:二村周作
音楽:サンガツ
ドラマトゥルグ:セバスチャン・ブロイ
舞台監督:鈴木康郎
音響:牛川紀政
照明:大平智己
映像:山田晋平
映像オペレーター:須藤崇規
宣伝美術:松本弦人
広報:浦谷晃代、湯川裕子
制作:precog
記録写真:小池浩央
記録映像:株式会社彩高堂「西池袋映像」
F/Tスタッフ
制作統括:武田知也
制作:高橋マミ
フロント運営:坂田厚子
プログラム・ディレクター:相馬千秋
ユース・アート・マネジメント・プログラム(YAMP):乾 亜沙美、植村 真、川又美槻、
輿水すみれ、菅井新菜、塚田佳都、野口 彩、
的場久実、三浦彩歌、山崎 優、山本美幸、吉田由貴
製作:KAAT神奈川芸術劇場
共同製作:Doosan Art Center
協力:急な坂スタジオ
主催:フェスティバル/トーキョー


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