サンプル「永い遠足」

◎万延元年ではなく、1973年でもなく、2013年の…「遠足」、しかも、「永い」…
 高橋英之

 見知らぬ世界の話を聞くのが病的に好きだった。[注1]
 一時期、十年も昔のことだが、手あたり次第に仕事で出会った人間をつかまえては、自分の知らない世界の話を聞いてまわったことがある。
 カリフォルニアでベンチャー企業を創設した生物学者は、きまって皇居の横のパレスホテルを定宿にしていた。ランチタイムなら時間があると言われて、そのホテルのラウンジのレストランで、ペスカトーレ・ビアンコを食べながら聞いた話は、新型のヌードマウス[注2]の開発についてだった。
 免疫欠損させたマウスの全身に、蛍光発光するオワンクラゲのGFP[注3]の遺伝子を組み込んだ新型のマウスを開発し、これを世界中の研究機関に供給する計画を熱く語ってくれた。このマウスに、人間のがん細胞を移植すれば、蛍光発光しないがん細胞の増殖が、視覚的に極めて容易に観察できると。それは、新型抗がん剤の開発にとって画期的な進歩だと。博士は、カバンの中から、ヒーラ細胞[注4]を移植したその新型マウスの写真を取り出し、まずは子宮がんの新薬開発を行う製薬会社にこれを販売し、一気にビジネスを拡大したいのだと、その野望を語ってくれた。

 2013年11月、進化したネズミ人間が登場するサンプルの『永い遠足』の舞台の客席で、僕は、改装される前のパレスホテルのラウンジで見たその新型マウスの写真のことを思い出していた。ネズミではあるのだけれども、クラゲの遺伝子を組み込まれ、ヒトのがん細胞を移植されたキメラ。殺されるための存在でありながら、人間にとっての希望を託された存在。これは、劇作家・松井周の妄想[注5]から紡ぎだされた物語に対する小文であるとともに、自分自身の妄想が広がってしまった「僕」の話でもある。とりあえず、『オイディプス王』、この演劇はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、演劇を観る意味なんて何もない。

 体育館を改造した劇場の舞台に、軽トラック型の電気自動車[注6]が入ってくる。荷台から三方に広げられた小さな舞台の片側に、年越しそばを食べている母親と息子。紅白歌合戦の大トリに、SMAPの『世界に一つだけの花』[注7]が流れていることころからして、2003年の大晦日であろう。やがて、このシーンが、実は息子の回想であり、現実には母親はすでに死んでいることが明らかとなる。母チヨコを慕い、この骨壺から離れられない息子ノブオは、ネズミを使った実験をしている。人間の知能レベルにまで進化したネズミの1匹は、ピーターという名前で呼ばれているが、ピーターは、ノブオから離れようとしている。どうやら、なんらかの危機がネズミたちを襲っているらしい。

【写真は「永い遠足」公演より。青木司撮影 提供=サンプル 禁無断転載】
【写真は「永い遠足」公演より。青木司撮影 提供=サンプル 禁無断転載】

 

 電動式軽トラックがぐるりと体育館の中を一周する。回り舞台よろしく移動したトラックの、もう片方の小さな舞台には、母親と娘が会話もなく座っている。娘は、ひたすらネットでゲームかなにかをしているようだ。母親の夫が帰ってくるが、やがて、この3人の関係が崩壊していることが察せられる。権威的な態度を取る警察官の夫タケフミ、精神を病んだ妻キリコ、そして、養女として迎えられ、養父母との会話を拒否し、家出を繰り返す娘アイカ。再び家を飛び出したアイカは、電脳空間の存在であるマネキンとの交流を始める。夫婦は娘として暮らしてきたアイカを取り戻すために、突然闖入する桃太郎と名乗る男に先導され、「越境」をするための努力の旅に出る。桃太郎は次のように宣言する。

桃太郎「一線を越える男です。…それでもいいですか?」

 一線を越える旅の中で、タケフミは女になってゆき、キリコは犬になってゆく。入口があって出口がある。大抵のものはそんな風にできている。男から女へ、女から犬へ、入口から出口へ。彼と彼女にとっての「越境」を努力する旅が、電気自動車に乗って続く。

 観劇のあとの巣鴨のカフェ、気がつくと、両脇に双子の女の子がいた。208と209と呼ぶことにした二人に、西巣鴨の舞台で観た2つの家族について解説をした。ひとつめの家族は、ギリシャ古典の『オイディプス王』を踏まえているであろうこと。息子ノブオは、母親であるチヨコと関係を結んでしまい、そこから生まれた娘がもうひとつの家族で養女となったアイカであること。そして、アイカを巡って、精神の不安定を来したタケフミとキリコは、「努力」という近代的な手法でそれを乗り越えようとしたが、結局のところそれは不思議な方向に向かってしまっていること。二人は驚くほど何も理解していなかった。『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』[注8]の区別さえつかなかった。尊属殺人罪[注9]と近親相姦罪[注10]の刑法における取扱の変遷を説明するのに1時間かかり、近代の美徳であった努力なるものが往々にして悲劇を招く[注11]ということを説明するのにあと2時間かかった。

「あなたは認めているの?」と208が訊ねた。
「認めている?」
「つまり、近親相姦をよ」と209。
「さあね、どうかな?わかんないね」
「どうして?」
「僕は母親にそんな感情をもったりした経験がないからさ」
二人とも僕の説明には納得しなかった。僕だって、納得できなかった。
「否定するわけでもない?」と208が追及した。
「そうとも言える」
「つまりいろんな考え方があるってわけね?」と208。
「そうだ、でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない」
「すべては相対的ってこと?」と209。
「多分ね」と僕。「少なくとも、絶対的な答えなんてない」
それが僕の、2010年代のいまに至るまでのライフ・スタイルであった。浅田彰[注12]の教えを受けて、僕が固めた。

 ノブオが、父親から逃れて押入れの中で母親チヨコと関係してしまい、死の山たる鉄骨山に父親を送り込んでしまうこの作品は、たしかに『オイディプス王』を下敷きにしてはいる。舞台では、最後に、ノブオが自らの両目をつぶしてしまうのだが、そのエピソードも、また有名なギリシャ悲劇に依拠しているようにみえる。しかし、ノブオの悲劇を取り巻く状況は、当然のことながら、数十世紀前のギリシャのそれとは異なっている。父親との敵対や母親との関係に悩んだ末のオイディプスの悲劇とノブオの悲劇はもちろん重なるところはあるとしても、相対主義的な受容度の高い現代に生きるノブオの悩みの重心は、もう少しズラされている。

 それは、劇中でマネキンが説明する「暗黒ウィルス」。あるいは、ノブオ自身が解明に取り組んでいた、命令もなしにさまざまなものを動かし世を支配する「暗黒物質」。実体のつかみきれない不安と苦悩。ソポクレスが『オイディプス王』の物語を劇化した時期は、ポリス社会の栄華を極めたアテネが、未曾有の生き地獄を経験した時代だったとされている。紀元前430年頃のアテネは、ペロポネソスの戦役で打ちのめされた後に、さらにひどい疫病が蔓延していた[注13]。ノブオの懊悩とは、むしろ、そんなアテネの悲劇的状況そのものが、時空を超えて2013年の東京の状況[注14]とシンクロしてしまったことではないのか。

 母親と関係してしまった…その程度の物語なら、TSUTAYAのカーテン[注15]の向こうに何百本ものタイトルが並んでいる。仮に、この先に娘と父親がさらに関係してしまったところで、そんな物語は、いまの東京では、直木賞を受賞[注16]する程度には受容されてしまっているのだから。

 主体を取り巻く名状しがたい「暗黒」なる世界への対抗方法は、これまでにも様々なものが提示されてきた。そして、なぜか、いつもネズミがいた。世界のわけのわからなさに抗うために、わかりやすく集団で徒党を組み、わけのわからない熱と暴力に訴えるという呪術的方法は、歴史上何度も経験されたことである。万延元年[注17]に四国の山奥で炸裂した、教科書にも載らないような小さな一揆は、100年後の別の激動の時代に『万延元年のフットボール』[注18]のテーマとなり、とりわけ有名なものとなった。四国の山奥でフットボールチームを組成してスーパーを襲撃させようとする首謀者の兄で、「おまえは、ネズミそっくりだ!」と指摘される「僕」は、この高揚感あふれる対抗策の中で傍観者であった。そして、こうつぶやく。

「ネズミにはネズミのidentityがあるのだ」

 一方、ノーベル文学賞をもたらしたこの作品のパスティーシュとして、後年、商業的にはさらに成功を収めた作品となった『1973年のピンボール』[注19]では、逆に、まわりの人間たちが怒りにこぶしを振り上げ、割腹自殺のようなパフォーマンス[注20]さえ展開してみせる時期に、もっと軽やかな対抗策を示してみせた。それは、ほとんど無意味と思われるものに全精力を傾けてみせること。そのことで、意味を剥奪し、自己を肯定するという離れ業の台頭が捉えられた。ピンボールという意味のない形象でつながる「僕」の友人の鼠は、バーでビールのグラスを傾けながら、静かにこう語る。

「それでも人は変わりつづける。変わることにどんな意味があるのか俺にはずっとわからなかった。(…中略…)そして、こう思った。どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程に過ぎないんじゃないかってね。違うかい?」

 ノーベル賞作家の作品と、ノーベル賞候補作家の作品では、暗黒の世界への対抗策は、手法も熱量も異なっている。ただ、それは、時代の苦しみの中で、どちらも、変わろうとする抗いであり、変わってゆくものへの抗いであった。

 岸田戯曲賞受賞作家である松井周も、今回の作品の中で、こうした「暗黒ウィルス」、あるいは現代版の「ぼんやりとした不安」[注21]に対抗する試みをあふれさせている。桃太郎という分かりやすい啓蒙者を見出して、そのわけのわからない「努力」によって「越境」をすることを目指したタケフミとキリコ。この2人の取り組みは、養女アイカを取り戻すという表面的な目的とは別に、なによりも近代が求める<主体>[注22]である自分たち自身を取り戻す旅であった。奇妙な3人組が頼りとした乗り物は、多くの成長戦略で柱として期待されてきた次世代自動車であり、すべての不安や苦難七難を隠す近代経済学の常套手段たる<成長>[注23]がそのメタファーとして刷り込まれている。アイカが電脳空間の友としてきたマネキンとの「つながり」もまた、そうしたわけのわからない不安から脱出するための、刹那的ではあるものの、現代的な有効性が確信されている手法だろう。そして、なんといっても、ピーターという人間ネズミの存在は、科学者たるノブオにとって、最も信頼すべき脱出口であったに違いないのだ。近代という時代の出口は、まさに、合理性と科学[注24]の到達点にこそあるハズであった。

 しかし、松井周は、名状しがたい「暗黒」世界に抗うこうしたすべての近代的な試みを舞台の上で屈折させる。電気自動車で、努力の旅を続けた養父母の努力は、それぞれを女と犬という倒錯した世界に還元させてしまう[注25]。電脳空間を自在に旅してきたマネキンは電池切れで動けなくなる。そして、ノブオの最大の希望であったハズのピーターは、電気の刺激[注26]を越えて、人間のもはやコントロールできない世界へと、別の王国へと旅立ってしまう。

 舞台に最後に残されたのは、ノブオとアイカ。悲劇『オイディプス王』の背景として、規範がゆるぎない存在であった時代であれば、ケガレにまみれた存在の二人。ノブオにとって、アイカは娘であると同時に妹でさえある自分の女。その二人に、松井周が用意したラストシーンは、悲劇というよりは、むしろノスタルジックな<赦し>の世界であった。「暗黒物質」への対抗策をすべて失った舞台で、アイカは、ノブオの自転車に乗る。人の力だけで走る自転車は、とても楽しそうだ。それは、電気ではない、ただの人力。人工物を排した、そして原罪をも排した、人間存在の喜びとしての原初の世界。舞台の上には、マネキンとピーターが、大きなチューブ状のスクリーンに囲まれて、大きな別の世界に旅立ってゆく。その輝かしい世界に背を向けて、ノブオは美しいアイカの姿を目に焼き付けて、両目をつぶすのである。それは、もはや『オイディプス王』の贖罪の所作ではなく、むしろ『春琴抄』[注27]の所作であった。あるがままの姿を受け入れあうための、希望としての行為。

【写真は「永い遠足」公演より。青木司撮影 提供=サンプル 禁無断転載】
【写真は「永い遠足」公演より。青木司撮影 提供=サンプル 禁無断転載】

 ノブオとアイカの行燈を持っての旅立ちは、徳兵衛とお初、いや紙屋治兵衛と小春か、はたまた忠兵衛と梅川か…と、歌舞伎か浄瑠璃の道行[注28]を彷彿とさせる。それは、道理に外れたことを理解しながら、あえて旅立つ道。ただし、それを見つめる者たちのまなざしは、非難や叱責ではなく、どこかやさしさにあふれている。観客の僕も、また、その<赦し>のシーンの共犯者にさせられていた。こんな<赦し>の世界は、たしかに、かつてはいたるところにあった。『オイディプス王』の入口から招きよせた物語の出口として、そうした<赦し>の雰囲気、あるいは「仕方ないじゃないか」という空気を、松井周は体育館の中に招来させた。その空気の中で、思わず「松嶋屋!」[注29]とかけ声をかけそうになった刹那、ノブオは、ピーターから届けられたiPS細胞技術[注30]による目玉を手にして戸惑う。

ノブオ:「ピーター、ありがとう。しかし、俺はこれをどうしたらいいんだ?」

 科学の最先端からの恩恵に対する戸惑い。そして、暗黒の中で、そうではない何ものかを求める気持ち。それは、結局のところ<赦し>ということなのかもしれない。歌舞伎や浄瑠璃の世界には存在していた「どうしようもないもの」をそのまま引き受けてしまう姿。人間としての、「弱さ」をさらけ出した、一種の開き直りである。ラストシーンに流れる戸川純の音楽『諦念プシガンガ』[注31]は、その気分を極めてよく表現していた。<万延元年>や<1973年>あたりに繰り出された方策とは、明らかにトーンが異なっているのだけれど、不思議と<幼稚>なイメージが貼り付けられていることでつながっている[注32]。一揆ではなくフットボール、闘争でも切腹でもなくピンボール。そうした子供じみた手法は、苦しい世界からの逃れ方の、ひとつの定番であるのかもしれない。松井周が提示したものも、「遠足」だった。艱難辛苦に立ち向かう旅ではない。自己の経験値を上げ、変革を目指す大いなる成長の旅でもない。ふと、踏み出し、「弱い」まま、うろうろとしてしまう「どうしようもない」徘徊。しかも、それは、「永い」。つまりは、どこまでいっても、もはや大人の世界に、すなわち<近代>[注33]の世界には戻ってこないというという、積極的な戸惑いの延長。

 そういえば、『1973年のピンボール』の最後の方で、「僕」に向かっても、<赦し>の声がこだましていた。

「あなたのせいじゃない、…あなたは悪くなんかないのよ、…」
「人にできることはとても限られたことなのよ…」

 それにしても、「暗黒物質」や「暗黒ウィルス」あふれる世界にあって、戸惑いながら、子どもに帰っての「遠足」を続けることが、出口だとは…。確たる指針にそって、主体としての成長をしながらの旅ではなく、<赦し>のまなざしの中で、「弱い」ままの、ただ「永い」、とりあえずの「遠足」[注34]。それが、いまの世界の脱出口だとは。日々ただ暗黒なものにまみれながらも、近代の成果としての主体をかたくなに守りつづけようとしている僕の頭では、到底納得しがたい出口だ。その僕が、終演後、呆けたように力強く拍手をしてしまったのは、舞台の最後の5分間に、松井周が演劇の本領を発揮して作り出した幻に、まんまと魅せられただけに過ぎなかった可能性は高い。ただ、この作品が、客席に座る傍観者としての僕に、大きな質問を残したことだけは、間違いない。

 このような、<赦し>のあふれた世界[注35]を、僕自身には、どのようにすれば招来できるのだろうか?

「良い質問だが答えがない。良い質問にはいつも答えがない」

 …そういえば、<1973年>の鼠は、たしかに、そのように言っていた。
[観劇日:2013年11月23日(土)14:00公演]

【永い注釈】
1.[パスティーシュ] 「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった」という出だしで始まる、村上春樹の小説『1973年のピンボール』のパスティーシュ(作風の模倣)。観劇後に、ネズミつながりで、今回の作品とこの小説とシンクロする妄想が止まらなくなってしまって、この劇評のほかの箇所でも、<遠足>気分で、パスティーシュを試みた。
2.[ヌードマウス] 免疫機能が欠損している実験用のマウス。体毛が欠如していることから、一般的に「ヌード」と称せられる。ヒト由来のがん細胞などを移植する際に、拒絶反応を起こさずスムーズに実験を進行させるために、欠くべからざる存在。
3.[GFP] Green Fluorescent Protein、緑色蛍光タンパク質。蛍光発光することで知られるオワンクラゲから抽出された物質。異種細胞への組込が成功してからは、現在広く医療実験・生物学実験で用いられている。2008年に、GFP発見・分離精製の功績により、日本人科学者の下村脩博士がノーベル化学賞を受賞した。
4.[ヒーラ細胞] HeLa細胞。がんの研究に欠かせない、実験用の子宮がん細胞。1951年に子宮がんで亡くなった女性Henrietta Lacksの腫瘍病変から分離され、不死化されて培養され続けている。本人の承諾なしに増殖され続けてきた経緯などその数奇な運命は、『不死細胞ヒーラ』(レベッカ・スクルート著/2011年)に詳しい。
5.[松井周の妄想] 松井周は、かねてより「ぼくの妄想の面白さには、はっきり言って自信があります」(『美術手帳』付録F/T14パンフレットでの発言など)ということを公言している。その彼の妄想の強度にシンクロして、今回の観劇では、観客自身の僕にも、経験と知識を総動員しての妄想世界が展開された。おそらく、松井周の妄想は、単に面白いのではなく、共振力がとても強いのだ。
6.[電気自動車] 舞台で実際に使われたのは、三菱自動車工業のi-MiEV(アイ・ミィーブ)。2009年に世界初の量産型リチウムイオン電池搭載車として市販が開始された。i-MiEVの軽自動車型の累計国内販売台数は8,575台。軽トラック型のものは、536台。(2013年11月28日「電気自動車ニュース」による)
7.[『世界に一つだけの花』] 2003年シングル発売のSMAPのヒット曲。作曲した槇原敬之にとっては、1999年に覚せい剤所持で逮捕されたあと、復活を象徴する作品となった。「ナンバーワンではなくオンリーワン」というメッセージの由来について、「天上天下唯我独尊」という仏教の教えが念頭にあったと、槇原は懐述している。(2009年12月10日付朝日新聞より)
8.[『コロノスのオイディプス』] 作家・ソポクレスの死後、紀元前401年にその孫によって上演されたとされる作品。オイディプスが娘アンティゴネ(=妹でもある)に手を引かれ、各地を彷徨い、もうひとりの娘イスメネと出会い、残る2人の息子たちと対峙しながら、最終的にコロノスの地で埋葬されるまでを描いた物語。先行作品の『オイディプス王』で描かれた父母とのいきさつについて、オイディプスは、「おれのほうが被害者なのだ」「正当防衛なのだ」と主張する。
9.[尊属殺人罪]旧刑法200条に規定されていた、父母などの直系尊属に対する殺人罪。無期懲役または死刑のみが刑罰として指定されていた。1973年に最高裁判決を受けた「尊属殺法刑違憲事件」以降各種の論争がなされ、1995年の刑法改正で削除された。
10.[近親相姦罪] 民法734条により、直径血族と三親等以内の傍系血族との近親婚は禁止されているが、罰則規定は設けられてない。さらに、厳密にいえば、近親婚自体は法律によって禁止されているが、近親者間の性行為そのものを近親相姦罪として罰する法律は、現在の日本には存在していない。刑事罰の対象としての近親相姦罪が存在しているオーストラリアでは、自らの父親との間に子供をもうけ、そのことの受容をアピールする父娘がメディアで話題となった。(2008年4月7日付AFPニュースより)
11.[努力] かつて成功するためのキーワードは努力であった。「がんばろう」がキーワードだった。しかし、ある時期から、努力をしても必ずしも成功するわけではないことが明らかになってしまっている。むしろ、ジタバタと努力だけをしているような人間は、常に格差社会の底辺から抜け出すことができない。時代は、いつからか、同じルールの下で一斉に「がんばる」のではなくて、変わってゆくルールをとらえ、時にはルールそのものをも自らの手で変えてしまって「うまくやる」のだという、実に見も蓋もない世界に変わってしまったからだ。
12.[浅田彰] 『構造と力』『逃走論』などの著書で、80年代に一世を風靡した思想家・批評家。相対主義を称揚した学者はほかにも数多存在するし、浅田氏自身は必ずしも相対主義の主張をされたわけではないのだろうが、「シラケつつノリ、ノリつつシラける」という当時の彼の主張は、僕自身を間違いなく相対主義者にした。
13.[紀元前430年頃のアテネ] 「ペロポネソス戦争が紀元前431年に勃発した翌年の前430年から、アテネにおそらく腺ペストだったと思われるひどい疫病がとつぜん猖獗し、市民たちがまさに生き地獄の苦しみを味わった有名な事件の記憶が、劇の内容に色濃く反映している可能性(がある)」(吉田敦彦『ギリシャ神話入門』(2006年)の『オイディプス王』の解説より)
14.[2013年の東京の状況] いまの東京には、アテネに対抗するスパルタのようなわかりやすい敵もいなければ、その市民を襲ったペストのようなハッキリとした原因も見えていない。それでも、どこか重苦しい空気を感じることがある。それを、松井周の作品では、「暗黒ウィルス」とか「暗黒物質」という言葉で指示しているのだけれども、まさにとらえどころのないものに支配されている感覚だけが広がっている。そんな状況。
15.[TSUTAYAのカーテン] その向こう側に、現在どのようなタイトルが並んでいるかは不詳。あくまで想像で語っており、実際に確認したわけではない。
16.[直木賞を受賞] 小説家・桜庭一樹は、父と娘の壮絶な関係を描いた『私の男』で2008年に直木賞を受賞した。「いや、動物さ…。俺とおまえは…」、なるほど。
17.[万延元年] 西暦1860年。江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために派遣した、万延元年遣米使節が訪米した年。1960年の日米安保闘争の年から、ちょうど100年前にあたる年でもある。
18.[『万延元年のフットボール』] 1967年に大江健三郎が発表した長編。1994年にノーベル文学賞を受賞した際にも、受賞理由において代表作として挙げられた。
19.[『1973年のピンボール』] 1980年に村上春樹が発表した中編。『風の歌を聴け』に続く「僕と鼠もの」シリーズの第2作。芥川賞の候補となるも、落選した。大江健三郎の『万延元年のフットボール』を意識して書かれたことが明白で、タイトルだけでなく、主人公が翻訳家であることや、ネズミが象徴的に描かれているなど、パスティーシュと呼ぶにふさわしい作品。
20.[割腹自殺のパフォーマンス] 1970年、小説家・三島由紀夫は、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問し、東部方面総監を監禁し、バルコニーでクーデターを促す演説をし、割腹自殺をした。
21.[ぼんやりとした不安] 1927年に、小説家・芥川龍之介が自殺した際に残した遺書に書き記されていたとされる言葉。芥川自身の精神衰弱を示す言葉と解される一方で、治安維持法が適用され、大正から昭和に移り、「東京渡辺銀行が破たん」という蔵相の失言をきっかけに昭和恐慌が始まった時代の世相をとらえた発言ともとらえうる。
22.[主体] ここでは、「自らの能力と意思により自由に生きる存在」という程度の意味。近代という時代以降想定されてきた人間の標準型ともいえるが、それが果たして本当に存在しているのかどうかというような疑義があちこちで呈されてもきている。例えば、映画『マトリックス』(ウォシャウスキー兄弟監督作品/1999年)は、カプセルの中に深く眠り、電脳世界の幻想に生きる人間を描き、この“主体”という人間のイメージに対してひとつのチャレンジを試みた。
23.[成長] 人口減少時代に突入し、いままでとは異なる成熟型の社会形成や政策展開の重要性が指摘されることも多くなってきても、近時の歴代内閣は、いずれも「成長戦略」を掲げている。2007年第一次安倍内閣「成長力加速プログラム」、2009年麻生内閣「未来戦略開拓プログラム」、2010年菅内閣「新成長戦略」、2012年野田内閣「日本再生戦略」、…と続いて、いずれもが「成長」をうたい、2013年第二次安倍内閣「日本再興戦略」でも“第三の矢”として「成長戦略」が掲げられている。翻ってみれば、これは、「成長」以外の方法をベースにする政策がいかに困難であるかを示唆しているともいえる。
24.[科学] キリスト教のような強い宗教的バックグラウンドもなく、社会主義のようなイデオロギー的な基盤ももたない戦後の日本においては、「科学」あるいはその派生形としての「技術」こそが、国としての精神的支柱となってきた側面がある。その「科学」と「技術」の成果の象徴としての原子力発電に対する2011年以降の惨事は、この精神的支柱を根底から覆し、まさに日本に対して暗黒を投げかけているという見方もできるだろう。
25.[倒錯した世界へ] 近代の世界が、“啓蒙”という努力の中で、意図せず変質してゆくさまをとらえたホルクハイマーとアドルノの名著『啓蒙の弁証法』(1947年)の中で、次のような疑問が呈されている。「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか」と。今回の作品のタケフミとキリコが、そのような近代における、啓蒙の結果の“踏み外し”の象徴として描かれているという視点もあるのかもしれない。
26.[電気の刺激] ネズミ人間ピーターは、終始、電気刺激を与える携帯型の電気マッサージ器を持ち歩いていた。
27.[『春琴抄』] 1933年に谷崎純一郎が発表した中編。道修町の大店の盲目の次女・春琴と、丁稚の佐助とのねじれた恋愛関係の物語。春琴が暴漢に襲われ、顔面にひどい火傷を負った後、佐助は自らの目を針で刺し、春琴の美しかった頃の姿を永遠のものとする。
28.[道行] 歌舞伎や浄瑠璃で、悲恋の2人が最後に死出の旅に出るラストシーンが、「道行(みちゆき)」と呼ばれる。近松門左衛門の『曽根崎心中』(徳兵衛とお初)や『心中天網島』(紙屋治兵衛と小春)などが有名。僕が何度も繰り返し観てしまっていて、つい今回のラストシーンにも重なってしまったのは、二人の決意というよりは「どうしようもない」感じがあふれている『冥途の飛脚』(歌舞伎では『恋飛脚大和往来/封印切』)(忠兵衛と梅川)の道行。
29.[松嶋屋] 片岡仁左衛門らを筆頭とする、関西の歌舞伎一門の屋号。当代の仁左衛門がまだ孝夫であった頃に観た『封印切』の忠兵衛の「どうしようもない」感じが、今回の舞台のラストシーンとも重なった。ちなみに、最近テレビドラマでよく見かける片岡愛之助も松嶋屋。
30.[iPS細胞] Induced Pluripotent Stem Cells、人工多能性幹細胞。体細胞を初期化する技術により作られ、体を構成するどんな細胞をも人工的に作り出しうる万能細胞をさす。2012年に山中伸弥博士が英国ジョン・ガードン博士と共同でノーベル生理学医学賞を受賞。ヒトへの最初の応用例として、加齢黄斑変性という目の病気の治療が、理化学研究所などのプロジェクトに対して2013年に承認され始動している。目玉が最初の治療ターゲットとなったという事実は、今回の作品で、ピーターが人工的に作られた目玉を届けるシーンと符合している。
31.[『諦念プシガンガ』] 歌手・戸川純の1989年の作品。「我一塊の肉塊なり」と歌われる歌詞に、人間のどうしようもない欲望と開き直りを感じる。ちなみに、「諦念」とは、「あきらめ」あるいは「あるがままの受容」というような含意であるが、かつて、森鴎外も自らの態度表明に使っている。現実社会と自我との矛盾とそこから生じる苦悩を冷静に見据えた鴎外が達した境地も、また「諦念」と呼ばれたのだった。
32.[幼稚] 1967年11月6日付『週刊読書人』で、文芸評論家・白井健三郎は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』について、「フットボールチームという暴動組織という発想は、幼稚で現代神話上としてもリアリティがな(い)」と指摘している。
33.[近代] 国際政治学者・田中明彦は、『新しい中世』(1996年)の論考で、王国や教会やギルドなどの複数の権威が領域横断的に併存する「中世」の時代のあと、主権国家が唯一の権威として確立される時代として「近代」の成立を論じた。そして、その近代の中で、自らの能力と意志により自由生きる存在として勃興してきた“主体”がその国家を相対化して、国家を超えた所属を選び取り始める新しい時代の流れを「新しい中世」の到来であると指摘した。本作品で、ノブオとアイカは、近代の国家戦略の象徴としての電気の世界には向かわず、さらには主体としての努力の道をも諦念のかなたに追いやったようだ。とすれば、このノブオとアイカのラストシーンは、単に「近代」からの離脱ではなく、田中が指摘したものより、さらに新しい時代を招来しようとしているようにも見える。
34.[永い/遠足] 松井周は、この作品のタイトルに「永い」と「遠足」という言葉を取り込んでいるのだけれども、その文字の並び方がどうにも「永遠」と読めてしまうのは、偶然だろうか。
35.[<赦し>のあふれた世界] 宗教学者・山折哲雄は、2011年の東日本大震災の直後に発表した『二つの神話と無常戦略』という論考で、危機に遭遇した世界が取りうる戦略として、「生き残り戦略」と「無常戦略」があるという指摘をしている。前者は、西洋文明の原理的な考え方で、『ノアの方舟』の物語に典型的にみられる犠牲を是とし、選ばれた者だけが脱出して生き残ることが目指される。一方、「無常戦略」においては、全てを救い出すか、全てが滅びるかという無常の世界観がベースになっているという。それは、仏教の大乗という考え方につながる。そこには、見捨てられるような人、衆生をも、あるがままとして受け入れる<赦し>という思想原理が背景にあるのであろう。松井周の妄想劇につきあっているうちに、僕自身の妄想は、結局、かつて歌舞伎や浄瑠璃の世界にあふれていた、<赦し>のまなざしという陳腐な出口にたどり着いたようだ。しかし考えてみると、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』もそれにつながる『コロノスのオイディプス』も、このみじめな男への<赦し>の視線があふれている。グルグルめぐって、結局、入口まで戻ってくる。つまりは、観劇後の僕のこの妄想そのものも、結局は、「永い遠足」であったということか。なるほど、松井周、恐るべし。

【筆者略歴】
高橋英之(たかはし・ひでゆき)
 京都府出身。ビジネスパーソン。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takahashi-hideyuki/

【上演記録】
サンプル永い遠足
にしすがも創造舎(2013年11月17日‐25日)
作・演出/松井 周
出演/古屋隆太、奥田洋平(以上サンプル・青年団)、野津あおい(サンプル)、羽場睦子、稲継美保、坂口辰平(ハイバイ)、坂倉奈津子、久保井研(唐組)
舞台監督/鈴木康郎、浦本佳亮、谷澤拓巳
舞台美術/杉山至(+鴉屋)
照明/木藤歩
音響/牛川紀政
衣裳/小松陽佳留(une chrysantheme)
字幕/門田美和
演出助手/山内 晶
ドラマターグ/野村政之
WEBデザイン/斎藤 拓
宣伝写真/momoko matsumoto
フライヤーデザイン/京(kyo.designworks)
制作/三好佐智子(quinada)、冨永直子(quinada)
助成/公益財団法人セゾン文化財団
協賛/三菱自動車工業株式会社
協力/レトル、青年団、ハイバイ、唐組、至福団、シバイエンジン
製作/サンプル・quinada
共同製作・主催/フェスティバル/トーキョー
チケット料金:自由席(整理番号付)
一般前売 3,500円(当日 +500円)
学生 3,000円、U18(18歳以下)1,000円(前売・当日共通、当日受付にて要学生証提示)


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