ポツドール「愛の渦」パリ公演

◎饗宴の外側にあるもの
 堀切克洋

 ポツドールの作品が、フランスで初めて上演された。上演作品は、2006年に岸田國士戯曲賞を受賞した三浦大輔の出世作、『愛の渦』(2005年)だ。

 ポツドールが、2010年に初めて海外公演(ベルリン)を行った際に選んだ作品は『夢の城』(2006年)であり、2011年夏にブリュッセル、ウィーン、モントリオールで、同年冬にミュンヘンで公演が行われた際にも同様であった。それは端的に、狭小かつ乱雑なアパートの一室で繰り広げられる若者たちの生態が「無言劇」というスタイルによって描かれているからであろう。

 同様の(無言劇的な)スタイルは部分的に見られるとしても、基本的に役者たちの台詞と演技によって構成される『愛の渦』が海外で上演されたのは、去年のベルリン公演が初めてのことだった。今回のフランス上演は、その流れにつづくものである。連日満員の客席には、日本とはやや様子が違って、比較的年齢の高いインテリ層の観客が座席を占めていたようである。
 さて、『愛の渦』の概要については、2014年3月に公開されるという映画版の予告を見てもらうのが早いかもしれない。ちなみに、映画版で「ヒロイン」をつとめるのは、2011年にデビューしたばかりの門脇麦である。2012年にザ・スズナリで上演されたデイヴィッド・グレッグの『黄色い月』(制作=オフィス・コットーネ)でレイラ役を演じたのが記憶に新しい、気鋭の女優だ。

 『愛の渦』は、乱交を専門とする裏風俗店(作品内では「サークル」と呼ばれるが、つまるところ警察に営業を届け出ていない風営法違反店)に集う男女たちの姿を描く。指定時刻にマンションの一室に集まったのは、そのほとんどが「普通の人」ばかり。単独男性20000円、単独女性1000円、カップル5000円という料金設定だ。

 この作品には、劇作家・演出家の三浦大輔自身の「実体験」が少なからず反映されているそうで、何よりもまずその「取材力」に讃辞を送らねばならない。一体、観客のうち何人が「裏風俗」に足を運んだことがあるだろうか(ちなみにフランスでは、規制の動きは強まっているものの売春はいまだ「合法」であり、乱交クラブの数も充実している)。

 とはいえ、銘記しておかなければならないのは、『夢の城』のようなハイパーリアリズムの劇とはむしろ対照的に、『愛の渦』は、舞台空間も台詞も役者の演技も、劇作家の手によって緻密に計算された「劇的虚構」が際立つ作品だということである。本稿では、この作品がもっている「演劇性」(=映画ではおそらく表現できないであろうこと)について少し考えてみたい。

『愛の渦』の隠喩性、あるいはもうひとつのスキャンダル

 今更ながら、岸田國士賞の選考過程において、戯曲のテクニカルな側面を的確に指摘していたのは、岩松了と宮沢章夫(と坂手洋二)であった。

 岩松は、三浦の作品が「微細にして冷静な人間の描写」において群を抜いていると指摘し、宮沢は「『乱交パーティー』というきわめてスキャンダラスな素材を扱うことで、その側面ばかりに目をとられてしまうが、その書き方の、緻密さや、ひとつひとつの行為をていねいに表現してゆく筆致が、素材と奇妙な対照をなして興味深かった」と述べている。

 おそらく、なかでも『愛の渦』の舞台に特徴的なのは、「一見すると楽しそうにはまったく見えないのに、実は楽しいと感じている」という人間の描写であろう。

 たとえば、参加女性の一人である無口でおとなしい女子大生(宮嶋美子)は、嬉しい素振りをまったく見せずに、パーティのおかげで精神的に充実していることを告白する。また、パーティが終わる頃になって、化粧品関係のOLをしている派手目な女(遠藤留奈)は、こんなにも楽しい時間がもう終わってしまうのだと、涙を見せながら語る。

 彼らは、同じメンバーでまた集まろうと意気投合するものの、お互いの連絡先を誰も訊くことのないまま、別離してしまう。作品も、パーティが朝の5時にお開きとなり、彼らが再び「日常」へと戻っていくところまでしか描かれていない。

 『愛の渦』のスキャンダラス性を語るときにいつも持ち出されるのは、乱交パーティという主題=空間や、それに伴って彼らが終始裸で演技をしなければならないこと、そして実際にセックスシーン(ロフトにある「プレイルーム」で繰り広げられる)が繰り返し行われるという点と相場が決まっている。

 しかし、上演に立ち会ってみると、彼らが最後に戻っていく「日常」のほうが、はるかにグロテスクで恐ろしく、この作品の「核」になっているように思われてならない。

 とくに男性陣は、金髪のフリーター、妻子もちの食品関係のサラリーマン、ケータイの枠を製作する工場労働者、そして一度も働いたことがないという無職で無口な青年というラインナップ。彼らはそれぞれの生活世界のなかで「終わりなき日常」の閉塞性に苦しんでいることが容易に想像される者たちだ。まどろっこしい言い方を避けるなら、それを「貧困」と言い換えてみてもよい。

 しかも、この「貧困」は二重の意味を帯びている。ひとつは文字通りの意味で「資本」(=資産)がないということ。もうひとつは、豊かな人間関係を築けるだけの環境・能力がないということ、すなわち社会的資本(ソーシャル・キャピタル)の欠如である。

 参加者のひとりである工場労働者の青年(古澤裕介)は、最初の性交渉のあとで「童貞」であることを疑われ、やがて乱交の輪のなから外されてしまう。化粧品販売のOLは、全員が一通り性交渉を終えたあとで、性器から異臭がすることを男性陣に暴露され、陰口を叩かれる。無職の青年は、女子大生の体を気遣うがゆえに、他の男性客の不満を買い、口論のきっかけをつくってしまう。

 こうして物語が進行するにつれて、次第にメンバー内で「弱者/強者」の振り分けが行われてゆく。そのときの基準が、「ソーシャル・キャピタル」の多寡なのである。コミュニケーション上の何らかの落ち度(童貞であること、性器から異臭がすること、そして臆病でユーモアがないこと)は、彼らを相対的弱者へと分類してしまうのだ。

 グループのなかで権力的にふるまっていたフリーターの青年(米村亮太朗)でさえ、散会の間際になって「射精のあとの30分」(=欲望の抑制)が持続していれば、今頃フェラーリに乗っていたかもしれない、と自罰的に語っている。彼とて社会に戻れば、非正規雇用という不安定な労働形態で不安を抱えて生きざるをえない人物なのだ。

 しかしそれでもなお、彼らがみな「充足感」を感じているとすれば、どうだろうか?『愛の渦』における舞台上の「過激」な描写は、このように舞台の外側にある「悲惨」な現実の隠喩となっているのである。それを思うとき、参加者たちがパーティにおいて感じているえもいわれぬ充足感は痛々しく、どこまでも切ない。

 こうした心理的な要素は、カメラによって俳優の表情を捉えることができる映画版において、いっそう強調されることになるだろう。言い換えれば、登場人物たちの表情がクロースアップされることで、観客は人物たちの心情にみずからを想像的に重ね合わせ、彼らがどういう気持ちなのかを考えようとする。その意味で、『愛の渦』はもともと映画的な作品であったと言うことさえできるかもしれない。

 だが、演劇版『愛の渦』では、観客が登場人物たちに同一化することは最初から求められていない。彼らはどこまでも「自分とは違う」人物であり、ただただ「痛い」人物たちなのである。観客は冷ややかな目でパーティの様子を終始眺めているが、物語の進行にしたがって、自分たちがいる現実がパーティに参加している人物たちのそれと無縁ではないことに気づく。このとき、彼らの充足感はどこまでも痛々しいのである。

「現実の時間」の闖入

 『愛の渦』という演劇作品は、こうしたメタフォリカルな社会批評に加えて、映画では少し困難であろう操作をもうひとつ加えている。それは、通常の台詞劇の時間―空間に「現実の時間」を入り込ませようとするというものだ。

 開演前の客席には大音量のクラブミュージック(岡村康幸の『セックス』、1999年)が流されつづけ、開演時には耳を塞ぎたくなるほどまでボリュームが引き上げられる。そして冒頭の、マンションの一室に徐々に参加者が集まってくる場面でも、ユーロビートのダンスミュージック(MAXの『TORA TORA TORA』、1996年)がエンドレスで10分ほどの間、ずっとかかりつづけ、台詞はまったく聞こえない。

 この場面では、ほとんど「現実と同じスピード」で時間が流れている。それは、永遠にリピートされるダンスミュージックが、きわめて「均質な時間」を舞台に生み出すからである。参加者の集まるスピードも「ほぼ一定」であり、ここに出来事性は微塵のかけらも感じられない。なかには、これを「苦痛」に感じる観客も少なからずいたことだろう。

 しかし冒頭でも触れたように、作品は全体を通じて緻密な仕方で構成されている。ドラマトゥルギーに不要な要素は削ぎ落されており、岸田戯曲賞の選評における坂手洋二の指摘を受けてのことなのか、単に予算の問題なのかはわからないが、2009年の再演まで登場していたカップルは、今回登場していない。初演で2時間20分だった上演時間も、今回は1時間50分まで短くなっている。

 そのうち、冒頭の10分と同じように「現実の時間」が流れるのが、最後の15分間だ。参加者たちは疲れきって、あちこちで転寝をしているなか、店員が閉店時間を告げ、テレビの電源を入れる。そこには女性キャスター3名による朝の情報番組が流れはじめる。画面の左上に表示される時刻は、ちょうど「5:00」を差している。そこから、現実のテレビ番組が15分間も流されつづけるのである。

 これらの場面に対して、冒頭と終盤以外の店内の描写は、よそよそしかった人物たちが少しずつ打ち解け合い、次第に一部の参加者が他の参加者の陰口を叩くようになり、その不和が爆発し、静かにパーティの終了を迎える、というドラマ的展開が簡潔に(鍵となる場面が抜粋されつつ)描かれている。パーティの最中には、誰かがケータイに触れることもなく、「現実の時間」とは別の時間が流れていると言ってもよい。

 パーティの参加者たちにとっての「乱交」とは、時計が刻む日常的な時間を宙づりにする「演劇的な時間」なのであって、時間によって分割された映像イメージが淡々と進んでゆく「映画的な時間」ではない、とも言えるだろうか。つまり、『愛の渦』というテクストには、このような時間の詐術が巧みに書き込まれているのである。それゆえに、パーティの終了は観客にとっての「演劇の時間」の終わりでもある。

 観客は、場面ごとに(シューベルトの荘厳な歌曲とボッティチェリの絵画によって「理想の愛」の古典的表象を確認させられるのと同時に)スクリーンに映し出される時刻を通じて、上演されている場面の時刻を知ることができる。しかし、舞台上の登場人物たちは、そのような時計が教えてくれる時間からはもはや遠いところに位置している。まるで、日常生活を規定している「24時間」というシステムから逃れるようにして。

 だからこそ最後の場面で、店員がテレビに電源を入れる前に、巨大なカーテンを勢い良く開けるシーンは、「現実の時間」が登場人物たちに戻されたという点で、きわめて象徴的な意味合いをもっているのだろう。このとき、舞台上手にある大きな窓からは「朝の光」がまぶしく差し込み、登場人物たちも観客も、一瞬にして「現実」へと引き戻されることになるのだ。

「常連」の存在、あるいはドラマの否定

 この群像劇をドラマトゥルギー(=登場人物たちの行為と出来事の連続)という観点から見ていくと、「女子大生」と「無職の青年」がその中心にいると見てとることも可能であるだろう。実際に、映画版ではそのようになっている。

 登場人物のなかでもっとも無口で内気なふたりは、ちょうどパーティが盛り上ってきた頃にロフトで性交渉を行い、下のフロアへと降りていく。すると、金髪のフリーターは、すでに「次はオレが女子大生」と他の参加者たちに「合意」を取り付けている。心優しい無職の青年はフリーターに小声で「少し休ませてあげたらどうか」と提案する。

 それは、パーティがはじまる前に、参加者たちは強面の店長(榊原毅)から「女の子が嫌がることはやめて、女性の意志を尊重して下さい」と注意されていたからだ。多少の嫉妬もあったのかもしれない。だが、これがきっかけとなって「事件」が起こる。フリーターの青年が、この件に関する店員(ギャル男である)の対応にキレたのである。

 フリーターの青年は4人いる女性のうち、女子大生をのぞく2人(OL、保母)とすでにセックスをしている。だから「次は女子大生だ」という。なぜなら、残る一人の女は、売春婦のような身なりの「常連」で、とても相手にできたものではないからだ。挙句の果てには、「おメェとは誰もヤリたくねーんだ」と本音をぶちまけてしまう。

 フリーターの怒りの矛先は、店員だけではなく、発端となった無職の青年の「優しさ」にも向かう。青年には、女の子が「嫌がってたように見えた」という。しかし、本当に「嫌がっていた」のかどうかは、今となってはもうわからない。

 ひとつだけ言えるのは、この場面で観客はみな、激昂するフリーターの男が何らかのかたちで諌められ、あるいは嗜められ、事態が収拾することを期待しているということだろう。

 だが、さっきまで無口で内気だったはずの女子大生は、まるで人格が豹変したかのように、青年の主張を退ける。自分は嫌がってなんかいなかったし、むしろ金髪のフリーターのほうが「巨根」だから嬉しいのだと、逆ギレしたように怒鳴り散らすのだ。

 それは、女子大生の「本心」であったのだろうか。わからない。ただし、あの場面で、参加者のなかでもっとも良識的だが弱々しい青年のフォローをすることなど、本当にできたのだろうか。それは、ボクシングの試合のなかで、対戦相手に「殴るのはよくないのではないか」と訴えるようなものではないのか。

 『愛の渦』の(とくに男の)登場人物は、日常生活のなかで「殴られつづけている」ことに嫌気のさしている人物たちである。「フリーター」「無職」「童貞」「工員」「空気が読めない」「面白くない」など。こうした記号の烙印を押され、十全な人的関係を築けずにいる者たちなのだ。

 だからこそ、この作品のなかで特権的な地位を占めているのは、「女子大生」でも「無職の青年」でもなく、実は「常連」(新田めぐみ)であるとも言うことができる。働いてはおらず、この店に「週5」というハイペースで来ているという派手な身なりのこの女こそが、『愛の渦』という作品の鍵を握っているのではないか。

 基本的にこの常連という登場人物は、パーティの参加者たちよりも店員と親しげに話し込んだりしていて、誰からも話しかけられることがなければ、セックスをすることもない(というか、誰もセックスをしようと思わない)ような人物である。部屋で何が起ころうとも傍観の態度を決め込んでいるようにも見える。

 しかし、自分が「場違い」であることを指摘されても、彼女は激昂することがない。もしかすると、ここで記述してきたような「事件」は、「常連」にとっては事件でも何でもなく、下手をすると日常茶飯事なのかもしれない。「週5」で店に来ているのだから、同じようなトラブルの光景に出くわさないと考えるほうが不自然だろう。

 逆に言えば、登場人物のなかで特異な位置を占めている「常連」は、マンションの一室で起こるドラマを「否定」する役割を担っているとも言える。童貞工員の「筆おろし」を手伝い、最終的には「テクニシャン」と言うほどまでに彼を成長させる玄人女は、自分が攻撃されても、誰かに対して攻撃的になることはない。実にクールな存在だ。

 終幕直前になって、この「常連」が強面の店長と同棲していることが判明する。二人が帰ったあと、店員は童貞工員に事情を説明する。店長は多額の借金を抱えていて、営業を助けるために女は毎日この店に入っているのだと。店員は一旦はこのように説明するのだが、すぐさまそれが冗談であると言い放つ。そんなドラマが、こんな場所にあるはずないじゃないですか、と。

 『曾根崎心中』における徳兵衛とお初のように、女郎屋で恋に落ちた二人が「逃避行」をするというようなドラマは、この作品に用意されていない。メンバーが散会する直前に、無職の青年はひょんなことから、女子大生の番号を知るチャンスを得てしまうが、それも店のルールによって消去を余儀なくされてしまう。おそらく、二人はもう二度と出会うことはない。観客もそのようなドラマは求めてはいないのだ。

 『愛の渦』に救いがあるとすれば、それは飄々としている「常連」の生きざまなのではないか。腫れ物のように扱われようとも自己卑下することも、過小評価することもなく、かといって社会を憎悪することも、他者に攻撃的になることもない。その代わり、他の参加者たちが感じている「充足感」を感じることもない。しかし、明日もまたこの店に来るのだという。

 常連役は『愛の渦』において、ボンドガールのように欠かすことのできない存在である。2005年の初演では、朝の連続テレビ小説『あまちゃん』の栗原ちゃんこと安藤玉恵(2007年にポツドールを退団)が初代「常連」を演じ、2009年の再演では毛皮族主宰の江本純子があのハスキーボイスで二代目「常連」を好演した。三代目の新田もなかなかのふてぶてしさをもっていて、公演のキーマンの役割をしっかり果していたと言える。

むすびに―ハイパーリアリズムの向こう側へ?

 三浦大輔の想像力は、ディテールから発想されている。それは人間の感情の機微についてもそうだし、舞台美術についてもそうだ。しかし、それらを突き進めていくと、両者はある地点において、両立不可能となるのではないか。

 2013年7月に東京芸術劇場で上演された『ストリッパー物語』(つかこうへい作、三浦大輔演出)を思い出してみてほしい。つかこうへいは、演出において舞台装置や衣裳をほとんど用いなかったが、三浦は、舞台となるストリップ小屋を細部にわたるまで再現して、つかこうへいの戯曲に新しい息を吹き込んだ。何も知らなければ、三浦自身の作品かと思うほどまでに。

 だが、この作品において刮目に値したのは、場末のストリップ小屋のベテラン女優「明美」のヒモである「シゲ」役を演じたリリー・フランキーの演技である。その長台詞は、「語り芸」とでもいえるほどに、「舞台には描かれないこと」を言葉の力だけで、観客の脳裏にイメージさせることに成功した。つかこうへい流の、畳みかけるような台詞回しではなく、自分に言い聞かせるような、どこまでも虚しいモノローグによって。

 また、シゲの娘「美智子」を演じた門脇麦の演技についてもそうだ。バレエ留学のための書類に保護者印をもらうため、家に帰ってこない父を訪ねてきた美智子が、かつてダンサーを目指していた明美(渡辺真起子)の前で踊ってみせるシーンは、照明のみの舞台の上で、とても象徴的な意味を生み出すことに成功していたのである。

 この作品で客席にせりだしていた花道は、ストリップ小屋のそれを再現したというよりも、三浦大輔のハイパーリアリズム的な舞台装置からの「飛躍」のようにも映る。つまり、映画やテレビドラマのセットのような舞台装置ではなく、もっとシンプルな、あるいは抽象的な空間において、三浦の演劇的想像力が発揮されることを予感させる舞台だったように思えてならないのだ。

 もちろん、映画と演劇を明確に区別する必要はないのかもしれない。しかし、劇場に通う人々が求めているのは、乱交パーティのような時空の歪みと、その終わりを告げるために、突如として窓から差し込んでくる朝日のような衝撃なのではないか。もしかすると、わたしたちは『愛の渦』の「常連」のように、また今日も(映画館ではなく)劇場へと向かうのかもしれない。

【筆者略歴】
 堀切克洋
 1983年福島市生まれ。演劇研究・批評。東京大学大学院総合文化研究科博士課程(表象文化論)。早稲田大学演劇博物館(演劇映像学連携研究拠点)研究助手を経て、2013年9月よりパリ第7大学博士課程に留学。専門はアントナン・アルトー研究、現代舞台芸術論。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社)、分担執筆に『北欧の舞台芸術』(三元社)。2013年、第17回シアターアーツ大賞受賞。
・ワンダーランド寄稿一覧 http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/horikiri-katsuhiro/

【上演記録】
ポツドール『愛の渦』欧州公演2013
2013.11.20〜12.7
ノルマンディー・フェスティバル (11.20-22 Gare maritime-le Volcan ルアーブル)
Théâtre de Nîmes (11.27-28 ニーム)
フェスティバル・ドートンヌ (12.5-7 パリ日本文化会館)

脚本:演出:三浦大輔
出演:米村亮太朗、古澤裕介、岩瀬亮、鷲尾英彰、平原テツ、榊原毅、遠藤留奈、新田めぐみ、宮嶋美子、佐藤みゆき
舞台監督:松下清永
美術:田中敏恵
照明:伊藤孝
音響:中村嘉宏
映像:冨田中理
照明操作:櫛田晃代
小道具:河合路代
大道具:松川 卓
演出部:播間愛子、松田七美
翻訳:副島 綾
制作:木下京子
ツアーコーディネーター:戸田史子
ツアーマネージャー:横堀応彦
協力:ゴキブリコンビナート、ハイバイ、三条会、THE SHAMPOO HAT、スターダス・21、quinada、ダックスープ、オフィスPSC、フォセット・コンシェルジュ、マッシュ


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