Company SJ and Barabbas『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』

◎言葉と身体――路上からベケットへ
藤原麻優子

 アイルランドの劇団Company SJ and Barabbasによるサミュエル・ベケット『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』の公演が早稲田大学演劇博物館前で行われた。同博物館では『サミュエル・ベケット展―ドアはわからないくらいに開いている』が開催されており(註1)、今回の公演はこの展示の一環として企画された。Company SJ and Barabbasはベケットやウィリアム・B・イエイツの作品を屋外で上演する劇団で、アイルランドでは高い評価を得ているという。これまでにアイルランドのほかイギリス、アメリカでも上演を行い、今回の招聘公演が日本での初上演となる。演目は『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』の二作品であった。
この公演の特徴は、なんといってもベケットの演劇作品を野外で上演する点にある。ベケットの演劇作品のト書きは非常に緻密なもので、秒数まで指定しているものもある。また、常に自身の書くメディアについて先鋭な意識をもつ彼のテキストは、劇場という空間で上演されることに自覚的なものも多い。つまり「ベケットの野外上演」というのはそれだけで大胆な試みなのだ。次に、上演場所と取り結ぶ固有の関係もこの公演の特徴である。いわゆる「site-specific」(特定の場所で上演されるために制作される作品)とは少し異なるかもしれないが、単に屋外で上演するというだけでなく、上演される場所その一点から世界を何層にも照らしかえす批評性を探る点でも意欲的な試みだったといえる。さらに、演出家のサラ‐ジェーン・スケイフは二作品の登場人物をホームレスとして想像した。「不条理演劇」と称され難解さで知られるベケットの登場人物に現実と地続きの実在性を取りだしてみせる明確なビジョンもこの公演の大きな特徴であった。

【写真はCompany SJ and Barabbas『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』演劇博物館前舞台公演から。撮影=坂内太 提供=早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 禁転載】

◆街角のホームレス―『芝居 下書きI』

 『芝居 下書きI』は一幕の短いスケッチで初演は1979年。廃墟の街角で盲目の男Aと片足を失った男Bが出会う短い場面を描く。Aは街角に座ってヴァイオリンを弾いている。彼の前には小銭を求める皿が置いてあるが中身は空だ。そこに車椅子に乗った男が行き会い、会話が始まる。BはAをビリー、彼の息子の名前で呼ぶ。二人にはそれぞれ過去に女もいたらしい。BはAとの交流を求めているようだが、ステッキでAを叩いたり彼を強くおしのけたりするなど暴力的だ。劇はAがBのステッキを奪うところで終わる。

屋外での上演の意義は冒頭から鮮やかに示されていた。観客はまず演劇博物館の中に集められ、あらためて外に案内された。博物館を出るとAを演じる俳優はすでにT字路の角に座っていた。前には空のコーヒーのカップを置いて。ぼさぼさの頭、薄汚れた服、小さな椅子に座り何をなすでもなくいるというそのたたずまいは明らかにホームレスである。しかしここは大学の構内だ。ホームレスなどいるはずもない。だが、なぜいないのか?Company SJ and Barabbasはアイルランド、イギリス、アメリカにおいてホームレスやドラッグの常習者のいる場所で上演を行ってきたという。路地に転がるホームレスの脇を通って観客がSJの上演に向かうということもあったようだ。(註2)そのような場所で培われてきた上演が演劇博物館の前で行われるとき、スケイフの演出コンセプトはあらためて試されることになったのではないだろうか。公演期間中12日午後に行われたレクチャーでは、来日してからほとんどホームレスを見かけないことへの言及もあった。実際の上演はというと、むしろその場違いさによってホームレスやドラッグ常習者の日常性をめぐるギャップを浮き彫りにしていくものであった。ホームレスとして想像されたベケット劇の登場人物が東京の私立大学のキャンパス内に置かれるとき、ホームレスが異物である一方で、ホームレスのいない―排除された―状況もまた厳しく照らしかえされる。日本の清潔さへの強烈な違和感は、特に『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』を屋外で上演するという今回の公演の獲得した成果として特筆すべきものであり、上演に拭い去ることのできない批評性の層を生みだしていた。

ホームレスを街角に置くという演出コンセプトは、ベケットのテキストにも新たな光と広がりを与えていた。例えば劇における食べ物に関するやりとりだ。他人同士であるAとBの会話は、Bが持っているという食べ物の話にAが反応することで始まる。Bとの話がある程度進んだところでもAは「コーン・ビーフ、って言ったっけな?」(註3)と食べ物の話を蒸し返す。「あんた、何食って生きてきたんだい、ずっと?よく飢え死にしなかったもんだ」というBの台詞やAがある日道で拾ったというナッツの入った袋の話も、二人が路上に置かれることで非常に実際的な、彼らの生に直接的に関わる問題として立ちあがる。どうしていっそ飢え死にしてしまわないのかと問うBに対し「十分ふしあわせではないから」とAが答える印象的なやりとりもまた、胃袋の問題が切実に示されたあとでは劇場空間とは異なる響きをもつ。

もちろん、盲目のAがBに周囲の様子を尋ねるやりとりも、上演空間と言葉、俳優と観客に特異な関係を結ばせることになった。今が昼か夜かを尋ねるAに、Bは「昼だ、どっちかといえば」と答える。のちにAはふたたび「もうじき夜じゃないのか?」と尋ねる。上演は18時30分に始まっており、Aの台詞が発せられたのはちょうど昼から夜へと日の暮れていく時間であった。A、Bと観客が同じ空の下にいるとき、これらの台詞は上演の「いま・ここ」性を強く意識づけ、劇場では舞台と客席という異なる位置にあるA、B、観客を同じ地平に配置していった。今回のSJの公演は、廃墟の街角の物乞いA、Bを現実の空間に放りだすことで、観念的と思われがちなベケットの登場人物と言葉に現実と地続きの実在性を与えた。さらに、盲目のAの言葉を屋外で語ることで、閉じた劇場空間では不可能なかたちで劇、上演空間、俳優、観客を接続していった。そして、こうして結ばれていく関係が、異物としてのホームレスとホームレスのいない異常さという上演固有の批評性へとさらに接続されていった。

【写真はCompany SJ and Barabbas『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』演劇博物館前舞台公演から。撮影=坂内太 提供=早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 禁転載】
【写真はCompany SJ and Barabbas『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』演劇博物館前舞台公演から。撮影=坂内太 提供=早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 禁転載】

◆劇場なき身体―『言葉なき行為II』

 『芝居 下書きI』がベケットの言葉の可能性を引きだす上演だったとすれば、『言葉なき行為II』の焦点はテキストの身体性にあった。『言葉なき行為II』は1950年代後半に書かれた台詞のないマイム劇で、登場人物はこちらもA、Bと名付けられた二人のみ。戯曲のト書きでは舞台奥に設置されるプラットフォームで演じることになっているが、今回の上演では演劇博物館を背後にした細長いスペースで演じられた。上演スペースには大きな袋が二つときれいに畳まれた服が一揃い。舞台脇から長い棒がでてきて袋をつつくと、中からAが出てきて一連の動作を行い、ふたたび袋に戻る。するとまた棒がでてきて隣の袋をつつく。中からBがでてきて一連の動作を行い、袋に戻る。次に棒はAの入った袋をつつく。袋からでてきたAがふたたび同じ動作を始める途中で終わりとなる。

AとBをホームレスとして想像するスケイフの演出は『言葉なき行為II』でも際立っていた。言ってみればホームレスの男が袋から出てきて何かをしてまた袋に戻っていくというだけのことながら、一連のマイムを目覚め、服を着て、食事をし、働き、服を脱いでまた眠りにつくという一日の行動ととらえることもできる。今回の上演のAにとってはそれすら非常に困難なのだ。Aは袋からつつき出されてわたしたちの目の前に現れるが、その手は震え、足元もおぼつかないありさまで、動作もしばしば止まりかける。震える手をなんとか自分の前であわせ、祈り、何だかわからないような薬を今にも落としそうな手つきで取りだし、飲みくだす。かたわらに置かれた洋服を着るのも一苦労だ。とにかくひとつひとつの動作に時間がかかる。戯曲にしてほんの見開き1ページのマイムは、震える身体によって緊張感とともにひきのばされ、動作のひとつひとつがあらためて呈示される。どれも特別な動作ではない。起き上がり、薬を飲み、着替える。ものを運ぶ。わたしたちが日常的に、おそらく無意識にこなしていける動作がAにはたいへんな労力を要する。Aは自分に逆らう身体にどうにか言うことをきかせなければならない。ただ生きるというだけのことにAは格闘しているのだ。

BはAとは対照的に身体のエネルギーを持て余しているようだ。マイムの指示もAより多く、時計を取りだして眺める、歯を磨く、地図を眺めるなどの動作が加わる。その動作は俊敏だ。スケイフはベケットがテキストで指定した動作のほかにBに腕立て伏せをさせている。Bは健康な身体の持ち主なのかもしれない。にもかかわらず、印象に残るのはBの身体の反乱だ。ここでも食べ物をめぐって演出コンセプトが活きてくる。AとBにはともにポケットから人参を取りだしてかじるという動作が与えられている。Aは人参を少しかじるが吐きだしてしまう。まるで身体が拒絶反応を示したかのようであり、Aの身体が不如意であることを重ねて示す。一方、Bは人参を一息に食べてしまう。彼の健康な身体に対してひとかけらの人参はいかにも少ない。Bもホームレスとして演出されている以上、彼の健康な身体もまた空腹というかたちでBに逆らっている。先に上演された『芝居 下書きI』での「よく飢え死にしなかったもんだ」という台詞の残響のもと、『言葉なき行為II』はホームレスとしてのA、Bという演出コンセプトから震える身体、言うことのきかない身体、持ち主に逆らう身体を実現し、言葉のないマイム劇の身体性を取りだしてみせていた。

しかも、これらの不如意な身体はコンクリートの路上に置かれている。劇場という制度に守られることのなく目の前に俳優がいる。家の屋根や壁に守られることのないホームレスとして。A/B/ホームレス/俳優は彼らを守るはずのものから何層にも引きはがされ、その身体は空の下にある。身ひとつで世界にさらされた身体はまた、同じく屋外に立つ観客の位置を照らしかえす。わたしたちは洋服に、人間関係に、さまざまな社会制度にくるまれているようでいて結局は身ひとつでこの世界に、空間に、他者にさらされている。この実感に、ベケットを屋外で上演することで獲得される第一の意義があったのではないだろうか。AとBをホームレスとして設定することで、この上演はベケットのテキストの身体性を特異なかたちで取りだした。これはまた、ただ一日を生きるという行為さえ困難であり、しかしこの困難と格闘して人は生きるのだということを力強く認めるものでもあった。彼らを路上に置くことで、彼らの身体性は文字通り広い世界と対峙することになる。同時に、彼らと同じ地平に立つ観客もまた、この上演によってのみ可能なプロセスによって立ち現われる自らの身体性を、日常の行為を、そして世界との関係を新たに経験するのだ。

【写真はCompany SJ and Barabbas『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』演劇博物館前舞台公演から。撮影=坂内太 提供=早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 禁転載】
【写真はCompany SJ and Barabbas『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』演劇博物館前舞台公演から。撮影=坂内太 提供=早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 禁転載】

◆上演と政治性―ベケットの野外上演

『言葉なき行為II』は、Aが祈るところで終わる。彼は何を祈るのだろうか。『芝居 下書きI』の「飢え死にしちまえばいいじゃないか?」という台詞がつきまとう。Aががっくりと首を後ろに倒し、劇が終わるところで大隈講堂の鐘が鳴った。屋外での上演と空間の固有性が奇跡のようにかみ合う美しい瞬間だった。しかし男は祈りのさなかに死んでしまったのかもしれないのだ。今回の上演は、ベケットのテキストの可能性を開いていく目覚ましいものであると同時に、演劇としての美しさと厳しい現実のギャップを浮かびあがらせていくものでもあった。イギリスのエリザベス朝の劇場を模した日本の演劇博物館の前でアイルランドの劇団がベケットを上演するということがすでに多重の政治性を孕む。ホームレスのいる日常の劇から逆照射されるホームレスのいない/不可視化された異常もまたスリリングなものだった。空の下に置かれ身ひとつで世界にさらされあがく身体は、わたしたちの生の見方を深く変えていく。おそらくその先に、上演と現実を架橋していく可能性があるのだろう。明確なコンセプトのもと、ベケットのテキストと俳優の身体、固有の上演に根差した力強い声をもつ、非常に優れた上演だった。
(2014年6月12日観劇)

(註1)展示は8月3日まで演劇博物館2階企画展示室にて開催。詳細は演劇博物館のサイトを参照のこと。
(註2)12日の午後に行われたCompany SJ and Barabbasを招いてのレクチャーに参加することができた。これらの情報はレクチャーでのスケイフらの発言による。
(註3)上演は英語。本劇評では『芝居 下書きI』の訳は高橋康也訳『ベケット戯曲全集3』(白水社、1986年)を用いる。

【著者略歴】
藤原麻優子(ふじわら・まゆこ)
1981年生。早稲田大学演劇博物館招聘研究員、早稲田大学ほか非常勤講師。専門はアメリカン・ミュージカル、宝塚歌劇。

【上演記録】
『サミュエル・ベケット展―ドアはわからないくらいに開いている』関連公演
Company SJ and Barabbas『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』
演劇博物館 前舞台(2014年6月11日―13日)

作:サミュエル・ベケット
演出:サラ‐ジェーン・スケイフ

出演:
『芝居 下書きI』:トレヴァー・ナイト、レイモンド・キーン
『言葉なき行為II』レイモンド・キーン、ブライアン・バロウズ

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