バック・トゥ・バック・シアター「ガネーシャVS. 第三帝国」

◎問われる境界と私たちの慣性―演劇、障害、好奇、当事者性を架橋するメタシアター
 水谷みつる

 アイディアは、そして作品は、誰のものか? 誰が意見を言い、誰が決定を下すのか? そこにあるのは支配と搾取なのか? 彼らは演じさせられているのか? 演じているのか? そもそも演じるとは何か? リアルとは? フィクションとは? 稽古場で起こる本気のぶつかり合いが台本に組み込まれ、繰り返し演じられる時、その演技は「リアル」なのか? 「障害者」「健常者」とどちらも一括りにされがちな人々のなかに否応なく存在する多様性/差異は、グループの関係性に何をもたらすのか? 「できる」「できない」が両極とそのあいだのリニアなグラデーションではなく、複雑に絡み合い、時に反転さえするものだとしたら、互いの役割もまた揺らぎ、交換され、共有されるものではないのか? そして、それら一部始終をあちら側で見ている観客こそが、好奇の目で覗き見し、果実を掠め取っていく簒奪者ではないのか? いや、それとも…?

 昨年12月6日から8日まで、F/T13主催プログラムの一環として、オーストラリアの劇団バック・トゥ・バック・シアターによる『ガネーシャVS. 第三帝国』が東京芸術劇場プレイハウスで上演された。その初日を見て興奮して帰宅した私は、何かに急きたてられるようにして上記のように書きつけ、SNSに投稿した。複雑な構成をもちつつ、非常に際どいところにまで踏み込んだこの挑戦的な作品は、観客に劇場を出たあとも考えることを要請していた。馴染みの概念を組み合わせて、何かしら「境界」といったものを設定し、線引きして、舞台上の出来事をその向こうに属するものと片づけることは、誰にもできないように思われた。実際、そこで問われていたことは、私にとって何一つ他人事ではなかった。その後、縁があって劇評を引き受けることになったが、他人事ではないがゆえに、簡単には行かなかった。そのため、申し訳ないことに上演から1年近くもの時間が経ってしまった。

 まずは読者とそして私自身の記憶を掘り起こすため、どのような作品だったのか、順を追って丁寧に振り返ることからこの評を始めたい。舞台に登場するのは、ブライアン、サイモン、マーク、ディビット、スコットの5人である。

メタシアター的構造―ガネーシャの旅とリハーサル

 幕が開くと稽古場なのか、「劇団員」たちが配役の話をしている。新作を執筆中であるらしい大柄なブライアンが、「俺がガネーシャ、障害を克服する神をやる」と言い、ひときわ小柄なサイモンと寡黙なマークにナチスに追われるユダヤ人の役を提案する。会話はそこで途切れ、舞台上にビニール製のカーテンが引かれて場面が変わる。すると「劇」が始まり、スキンヘッドに引き締まった体つきのディビットならぬヴィシュヌ神が現われて、まるで狂言回しのように滔々とそもそもの「物語」の起こりを語り出す。

 古来より幸福のシンボルであったスヴァスティカ、すなわち万字(卍)がナチスによって盗まれ、憤ったシヴァ神は世界を破壊することにした。事態を憂えた妻パールバティが人間に最後のチャンスを与えようとシヴァ神に嘆願し、息子ガネーシャが万字を取り戻すために第三帝国に遣わされることになった。時は1943年、ドイツとポーランドの国境近くにある強制収容所から物語は始まる…。

 ビニールのカーテンが開けられ、また場面が変わる。ガネーシャに扮しているのは先程のブライアンで、大きな象の頭の被りものを被り、でっぷり肥ったお腹を見せて、神話に描かれた通りの姿をしている。ここはアウシュヴィッツなのか、彼は医師メンゲレ(ディビット)にドイツ語で尋問を受けている。汽車で収容所に着く囚人たちを選別し、数々の残虐な人体実験を繰り返した、あのメンゲレである。象の頭に人間の身体をもった「奇形」のガネーシャに興味をそそられたらしい。だが、神であるガネーシャはその力を使って、メンゲレの実験台の一人であったユダヤ人少年リーヴァイ(サイモン)とともに収容所を脱け出す。

 彼らはこれからどうなるのか?

「ガネーシャVS. 第三帝国」公演から
【写真は「ガネーシャVS. 第三帝国」公演から。撮影=(C)Jun Ishikawa 提供=フェスティバル/トーキョー 禁無断転載】

 しかし、「物語」は続かない。また場面が転換し、稽古場らしきところに戻って、「劇団員」たちが再び配役や台本についてあれこれと話し始める。ブライアンは象の頭の被りものを外し、ディビットはランニングウェアと、それぞれ「素」の姿に戻っている。

 このあたりまで来ると予備知識のない観客にも、この『ガネーシャVS. 第三帝国』という作品が、ガネーシャが第三帝国に旅する物語を上演しつつ、その創作(リハーサル)過程も同時に見せていくという、メタシアター的構造をもっていることがわかってくる。また、役者たちがそれぞれに異なる障害を抱えているらしいことも見えてくる。どうやら、一人だけ傑出してマッチョな風貌のディビットが「演出家」で、ブライアンの台本のもつ可能性に創作意欲を駆られ、アツくなっているらしい。彼はとりたてて障害をもっているようにも見えないが、よくわからないと言えばわからない(と、少なくとも私は保留にした。が、直感的に彼を健常者だと思った観客も多いかもしれない)。

軋む役者たちの関係―役とその内実をめぐって

 作品はさらに進行する。ガネーシャはナチスの中心、ベルリンへと向かい、それとともにリハーサルもまた核心部分へと入り込んでいく。

 ガネーシャの旅とリハーサルという、交互に展開される二つの場面を区切るのは、舞台袖に吊り下げられ、役者たちによって閉められてはまた開けられる幾層ものビニール・カーテンだ。

 引き出されたカーテンが舞台全体を覆うガネーシャの旅の場面では、照明の効果によって草木や列車などが影絵のように浮かび上がる。古から20世紀へと時空を超えていく、奇想天外な「物語」にふさわしいファンタジックで美しいシーンだ。

「ガネーシャVS. 第三帝国」公演から
【写真は「ガネーシャVS. 第三帝国」公演から。撮影=(C)Jun Ishikawa 提供=フェスティバル/トーキョー 禁無断転載】

 一方、稽古場の場面は机が一つある程度の簡素な装置のなかで演じられる。舞台には地明かりが均質に落ち、空間にドラマチックなところは何もない。だが、互いを本名で呼び合う5人の「劇団員」たちのやりとりは、次第に緊迫していく。そこで交わされるのは、非常にシビアでリアルな議論だ。彼らの演劇が直面しているいくつもの難しい問題が次々と提起され、すれ違いと対立が重なるなかで5人の関係は軋んでいく。

 たとえば、さまざまなことが逐一、気になって仕方のないスコットは、「劇作家」のブライアンと「演出家」のディビットに問う。

 「サイモンはユダヤ人を演じているけど、ユダヤ教の事は全然分かってない。これって間違っていると思わない?」
 「僕らがヒンドゥーの神を利用しているって。ヒンドゥー教徒の人に思われないかな?」(注)

 他者の歴史や文化を表象できるかという、演劇のみならずあらゆる分野で繰り返し問われてきた問いである。それに対し、ブライアンは「サイモンはユダヤ人っぽいけど」と答え、ディビットは「誰もがあらゆる役を演じられるんだ」と応じる。確かに、演劇においては誰もがどんな役も―それが自分自身であれ、自分以外であれ―演じられる。そしてそれは、どんなに似ていても―あるいは本人自身でも―演技である。ならば、本人あるいは当事者であることは、演技/表象の正統性を一義的に担保するものではあり得ないだろう。

 だがそうだとしても、「役者全員が演じている役の重みを理解していない」「問題なのは(中略)自分の役の内実と関係がないって事だよ」というスコットの問題提起に対し、いかに答えることが可能だろうか? この問いは、作品後半のリアリティとフィクションをめぐるやりとりのなかで再び繰り返されることになる。

覆される観客の先入見―障害という条件がもたらす「豊かさ」

 あるいは、作品の所有権をめぐる劇作家と演出家、役者の争いがある。「演出家」としてのディビットは、ブライアンの台本を尊重するように見せかけながら、自分自身の裁量であちこちを変え、流れを支配したがっている。彼は饒舌で熱中しやすいキャラクターのようで、仲間同士の連帯と協働を盛んに強調しながらも、どこか独りよがりで押しつけがましい。

 そんな彼にスコットも不満を抱き、「彼が僕達全員を操っているんだ」と糾弾する。5人の関係性を考えると、これは緊張感を孕んだ問いかけである。すでに私は、それぞれに何らかの障害をもっている役者たちのなかで、ディビットだけがとりたてて障害がないように見える、と書いた。彼を「健常者」と呼ぶことはとりあえず差し控えよう。なぜなら、外見ではそれとわからない「見えない障害」は数多くあるから。

 しかし、「健常者」と呼ぼうと呼ぶまいと、その言葉巧みな弁舌(ただし空回りしがちであるが)、アスリートのような体躯、無駄のない身のこなしなどを見れば、彼と他の4人の役者たちのあいだに力の不均衡があるのは明らかだ。しかも彼は、「演出家」というとりわけ優位なポジションにいる。力関係による支配や搾取が生じていないかというスコットの問いかけは、だから極めて正当なものである。ディビットは同僚の「劇団員」たちを「仲間」と呼ぶが、それがきれいごとに陥る危険性はつねにある。稽古場も舞台の上も決して平場ではないのだ。

 実は、知的障害をもった役者たちから構成されるバック・トゥ・バック・シアターのなかで、ディビットだけがこの作品のために招かれたゲスト・パフォーマーである(ただし、劇団のスタッフはとりたてて障害をもたない者たちによって構成されているようだ。また、ディビットは舞台上では演出家を演じているが、作品を実際に演出しているのは劇団のアーティスティック・ディレクター、ブルース・グラッドウィンである)。

 作品上演後、12月11日に開かれたシンポジウムで、共同創作者の一人であるスタッフのケイト・スーランが語ったところによると、ディビットが客演に加わることで稽古場に大きな変化が生じたという。それで、休憩も含めてリハーサル中に起こることをすべて録画し、作品に素材として組み込んでいったというのだ。

 たとえば、先程のスコットの批判のあとにはこんなやりとりが続く。おそらくこの全部あるいは一部は、録画記録から採用された台詞だろう。

スコット 彼が僕達全員を操っているんだ。
サイモン ディビットはいい演出家だよ。
スコット 黙っててくれないかな。
ディビット 個人攻撃はやめよう。
マーク くたばれ、スコット。
ディビット 「くたばれ、スコット」って言ったのか?

 ここで思わず悪態をついたマークは、5人のなかで最も言葉の少ない存在である。同僚たちが二役、三役と演じるなかで、彼だけは本人の役以外、演じない。動作もゆっくりで、おそらく最も重い障害をもっているのだろう。スコットは、そんなマークについても一言、口を差し挟まずにはいられない。

 「マークは降板させないと。何が虚構で、何がそうでないかの、区別がついていない」

 またしても、いくつものシビアな問いが凝縮された鋭い投げかけである。マークはこれが演技だとわかっているのか? 彼は演じているのか、本気なのか? そもそも演じるとは何か? 演技が「リアル」になるとはどんな時か? もし、マークが「演じ」ているとして、それは自覚的で主体的な行為なのか? あるいは行為の意味を理解せず、ただ与えられた台詞を繰り返しているだけなのか? もし後者であれば、そこにあるのは、より力ある者による力なき者の支配であり虐待ではないのか? しかし、力ある者とはいったい誰か? マークとスコット、あるいは他の役者たちとのあいだに差異があるとして、それは果たして何なのか?

 ディビットは言う。

 「何が本当か、本当じゃないか、分からないで怒る役者がいたら、それって刺激的な瞬間じゃないか? 劇的な瞬間だと思わないか?」
 「マークは刺激的な材料を作り上げたんだ。『くたばれ、スコット』と言った時に」

 しかし、「刺激的」とはいったい誰にとってのことなのだろう? 稽古場のディビットは、いまだ誰もいないはずの客席に向き直り、やがてそこを埋め尽くすだろう未来の観客を糾弾する。

 「これらの席には誰もいない。でも、幕が開いたら観客が座る」
 「ここに座っている人、あなたは変態です。あなたが劇場に来たのは、フリークポルノを見たかったからです」

 もしも観客が、「障害者」の演劇という珍しい見世物に群がる窃視者たちなら、彼らにとって舞台裏のリアルな葛藤こそ最高の撒き餌だろう。だから我々は、「今の話全部を台本に加え」る。そして、「同じ感情を込めて」繰り返し演じ続ける。「我々全員は、みなフリをしている事が分かっているけど。今、実際に感じたのだから…芝居がもっと豊かになる」

 だが、この「豊かになる」という言葉には、単に「刺激的」という以上に積極的な意味が込められているだろう。「刺激的」であり煽情的でさえあるかもしれないものが、そのまま「豊かさ」につながるという価値の転換がここでは目論まれているように思われる。言い換えれば、「刺激的」な見世物、すなわち観客の窃視症的な視線の餌食になり兼ねないぎりぎりのパフォーマンスを、「豊か」な芝居に変える強い意志と自負を、この一言に読み込むことが可能だろう。

 5人の役者たちが本名で舞台に登場し、それぞれの困難や障害をも含む生々しい個性を曝しつつ、稽古場で交わされた「リアル」なやりとりを「再現」していることの意味を改めて考えてみなくてはなるまい。ディビットは、「観客は、俺達の芝居を見て、現実だか虚構だか、区別がつかなくなってしまう。知的障害のある人が集まった劇団だから」と言う。しかし、この台詞が露わにしているのは何より観客の側の先入見であって、そのような先入見こそ、この作品が覆そうと企むものなのである。

 その点で、一連のやりとりは実に巧みに構成されている。際どい台詞に引き込まれて舞台を注視しているうち、観客は自らの先入見の誤りを否応なく突きつけられることになる。すなわち、役者たちに知的障害があるから、現実と虚構の境界が曖昧になるのではない。そうではなくて逆に、役者たちの知的障害という特異な条件こそが、現実と虚構の共存とせめぎ合い、そして二つの峻別の困難という、演劇の特質を浮き彫りにするのだ。そう、つい看過されがちだが、それは演劇に内在する特質であり、知的障害はそれを他ではできない仕方で鮮やかに可視化する、稀有な力をもった触媒なのである。

 つまり、ここでは「障害(ディサビリティ)」がそのまま「能力(アビリティ)」へと転換されている。障害とそして演劇をめぐるこのような価値の撹乱が、ディビットの言う「豊かさ」の一つの内実であることは間違いがないだろう。すなわち、既存の価値観を追認するのではなく、それを問い直し、揺るがし、そして大胆に組み換えていく革新性が、この作品の「豊かさ」を形成する重要な柱の一つなのである。

幾重にも反転する力関係―創造と協働を産むダイナミズム

 さて、そうこうするうちに「物語」は進み、ガネーシャはいよいよベルリンに到達する。ベルリンは陥落し、すでに破壊し尽くされている。終わりを知ったナチスの医者メンゲレ(ディビット)は、親衛隊員(スコット)を見限り、銃を突きつけて引き金を引く。

 ところが、スコットは弾丸とはまるで異なる方向に「プロペラ三回転」して倒れてしまう。滑稽で笑いを誘う場面、とはじめは見える。しかし、二人のやりとりはたちまちのうちに緊迫し、舞台は只ならぬ雰囲気に包まれる。ディビットの頭のなかには、後頭部を打たれた人はこう倒れるはずだというイメージがある。だが、何回、稽古を繰り返しても、スコットはその通りに倒れることができない。代役として呼ばれたマークは、いとも簡単に弾丸の方向に倒れてみせて、ディビットを満足させるのに、スコットにはどうしてもできない。苛立ちを募らせたディビットは、スコットの頭に繰り返し銃を突きつけ、指示に従うよう強要を重ねる。エスカレートしていくその行為はまるで、というより、まさに虐待そのものである。そして笑って見ていた観客は、いつのまにか虐待の目撃者どころか、幇助者の位置に立たせられていることに気づいて、背筋が凍る思いをするのである。

 この場面には、幾重にも折り重なる力関係の逆転が見られる。先程、その「できないこと」によってスコットに糾弾されたばかりのマークは、ここでは課題を楽々と達成して一抜けを果たす。一方、スコットは自分のやり方を曲げられないという「できなさ」のために、ディビットから執拗な指導という名の暴力を受ける。だが、そのスコットの「できなさ」を前に、誰よりも追い詰められ、我を失っていくのは、強者であり加害者であるはずのディビットなのだ。スコットの変われなさ、変わらなさは(そしておそらくマークのそれもまた)、ディビットにとっては脅威なのである。なぜなら、彼の働きかけがことごとく無効に終わり、彼の存在意義そのものが否定されるから。そして、彼の理想が容赦なく叩き壊されるから。

 しかし、ここで改めて問いたいのだが、なぜ、撃たれた人は弾丸の方向に倒れなければならないのだろう? よい演技とは、そのような「リアル」さを体現することだけなのだろうか? ディビットの抱く理想は、あまりに狭い価値観に基づいた根拠のないものではないだろうか?

 あとで書くが、熱意あふれる支援者が、実は身勝手で根拠のない理想を相手に押しつけているにもかかわらず、その通りに変われぬ、変わらぬ被支援者を前に次第に被害感情を募らせ(自分はこんなに一生懸命、仕事をしているのになぜ相手は良くならないんだ? なぜ気持ちが通じない? 等々)、支配的、暴力的に振る舞い出すことは珍しくない。そうした支援/被支援関係の行き詰まりと暴力の発生のメカニズムが、この一シーンには見事に凝縮され描き出されている。

 ここに至ってディビットと他の役者たちの関係は破綻し、「劇」もまた終わりを迎える。ヒトラーは自殺し、ガネーシャは万字を取り戻して、ブライアン、スコット、サイモンの3人は舞台を去っていく。がらんとした空間に残されたのは、一人、ヒートアップして挫折したディビットと、最初から最後まで変わらぬ様子のマークだ。ディビットはマークに、「終わったんだよ、マーク。やりたかった事が、出来なかった」と話しかけ、もう自分の仕事はないから家に帰ると告げる。そして、かくれんぼをしているマークを置き去りにして、ゆっくりと舞台から遠ざかっていく。

 かくれんぼの終わりを知らぬまま、隠れ続けるマーク。そして観客もまた、多くの簡単には答えの出ない問いとともに取り残される。なかでもとりわけ、「障害者」と「健常者」の関係、そして作品の所有権をめぐる問いは、観客の頭に痛む棘のように残って抜けないだろう。役者たちに知的障害があるということが、バック・トゥ・バック・シアターという劇団の最も大きな特色であることは確かだからだ。作品は誰のものなのか? そこに搾取の構造はあるのか? 観客は搾取の共犯者なのか? 観客もまた問われているのだ。

 それはまた、能力も個性も立場も多様な者たちが、協働して作品を創るとは(ひいては、ともに生きるとは)どういうことか? という問いでもある。冒頭でこう書いた。

 「障害者」「健常者」とどちらも一括りにされがちな人々のなかに否応なく存在する多様性/差異は、グループの関係性に何をもたらすのか? 「できる」「できない」が両極とそのあいだのリニアなグラデーションではなく、複雑に絡み合い、時に反転さえするものだとしたら、互いの役割もまた揺らぎ、交換され、共有されるものではないのか?

 ともすれば私たちは、「できる」を一方の極に、「できない」をもう一方の極に置いて、人の能力をリニアな線上で比較し、それぞれの位置を固定的なものと見なしがちである。だが実際は、『ガネーシャVS. 第三帝国』中の5人の関係に見られるように、両者は複雑に絡み合い、瞬間瞬間に異なる布置をとって、時に入れ替わりさえするものである。それは、人と人とのあいだにその都度、違う傾きをもった力関係を発生させ、彼らの固定的な役割を揺るがし、場の安定を掻き乱す。

 もちろん、差異のありようによって、特定の布置が繰り返されることはよくあり、その場合、特定の力関係と役割分担が恒常化し、固定化することになるだろう。障害のある者ととりたててない者が同じ場でともに生きようとする時、そのような力関係と役割の固定化がとりわけ起こりやすいのは言うまでもない。そこに立場(たとえば「演出家」)が絡めば、いっそうその傾向は進む。場合によっては、それが支配や虐待、暴力につながることもあるだろう。

 しかし、そうした固定化や支配に向かうベクトルが働くなかでも、微細な瞬間に目を凝らせば、上に見てきたように、「できる」「できない」の関係は絶えず変動し、時に反転して、場に複雑なダイナミズムをもたらしている。そのダイナミズムは、一方でさらなるトラブルや暴力の発生を促すものであるが、もう一方では、予定調和を超えた創造や協働の可能性を拓くものでもあるだろう。

 その時、協働とは、各々の固定的な役割からの解放のみならず、相互乗り入れや交換、そして共有をも意味するだろう。『ガネーシャVS. 第三帝国』の役者たちとスタッフが、それぞれにそれぞれのできることで作品創りに貢献し、ともに創作者となったように。「障害(ディサビリティ)」がそのまま「能力(アビリティ)」に転換され、障害をめぐる先入見を覆すと同時に、演劇というものの特質を他にはできない仕方で露わにしたように。暗闇に安穏と潜む窃視者であったはずの観客が、共犯者として巻き込まれ、糾弾され、自らの立つ位置とその根底にある価値観を厳しく問い直されたように。

 そして、役割が絶対でなくなった時、役割を剥いだ「その人」がもう一度、くっきりと浮かび上がってくる。その点で、最後に残ったマークの存在は示唆的である。思い出してみよう。連帯を強調し、他者に合わせようと一人で奮闘して、もがき、空回りして、挙句、他者を自分の側に合わせようと支配的、暴力的になったディビットが挫折して去っていったあとに、変わらない、そしておそらく変われないマークが取り残された。いや、そこに居続けた。その姿に観客は、彼が彼のままでいることのかけがえのなさ、その強さと弱さを同時に突きつけられ、胸を射抜かれたのではないだろうか。

問われる「境界」と私たちの「慣性」―当事者性をめぐって

 最後に、この拙い評をここまで読んできてくれた読者に感謝しつつ、演劇の専門家でもない私がなぜこの評を書くことになったかの背景に触れ、併せてこの作品が観客に突きつける当事者性について考察して、締めくくりとしたい。

 私は元々、美術館の学芸員をしていたが、ある種の仕事は誰よりもできるのに、別の種の仕事は上司や周囲が驚くほどできないというアンバランスによって不適応を起こし、うつ病を発症して仕事を辞めた。それからさまざまな紆余曲折があって、現在は、発達障害をもつ当事者を中心としたある当事者研究会を主な活動の場として、仲間とともに「当事者研究」に取り組む日々を過ごしている(ただし、私自身は正式な発達障害の診断を受けているわけではない)。

 一括りに発達障害と言っても、一人ひとりのできること、できないこと、困っていることは実に多様で、互いのあいだの差異も大きい。できること、あるいはでき過ぎることが、本人にとっては困りごとにつながっている場合も多い。そのような仲間たちが集う場では、差異がつねに何らかの力関係を発生させる一方、その力関係がちょっとした条件の変化でいともたやすく逆転するということを日常的に経験する。力関係の無自覚な行使が、支配や暴力(と言っても直接的な暴力ではなく、力の不均衡のあるところに必ず発生し得るような目に見えない暴力のことであるが)につながることも珍しくない。変動し、反転する力関係のなかで支配や暴力に陥らず、いかにともに生きていくかは、まさに「私たち」(これは狭い意味での私たちのことではない)が日々、直面している課題なのである。

 また、「当事者研究」とは耳慣れない言葉かもしれないが、一言で言えば、これまで専ら研究の対象と見なされてきた障害や疾患の当事者が、自ら研究の主体となって、自分たちの抱える困難の構造を解き明かそうとする試みである。それは当事者が、語られる側から語る側になることでもある。だから、アプローチの仕方は同じではないかもしれないが、『ガネーシャVS. 第三帝国』で問われたような行為の主体や所有権をめぐる問いは、私にとって非常に身近で切実なものである。また、誰もが人生の途上において何らかの困難を抱えた当事者となる可能性がある以上(というより、困難を抱えない人などいないのだから、誰もがすでになっているのだが)、それは広い意味での「私たち」にとっても身近で切実な問題であるはずだろう。

 さらに、熱血漢の支援者が、なかなか変われない私を前に気持ちが通じないと追い詰められ、次第に虐待的になっていったのも私自身が実際に経験したことである。細かいことがいちいち気になり、自分にとっての「正しさ」へのこだわりが捨てられないという点でも、私はスコットに深く共感する。こうした問題は、変化や周囲に柔軟に対応することが難しい私や、狭い意味での私の仲間たちだけにかかわることだと思われるかもしれない。だが、想像してみて欲しい。高齢になって介護を受ける身になったら、あるいは何らかの理由で馴染みの世界がどんどん変わっていくのを目の当たりにすることになったら、あるいは逆に高齢の人や障害のある人、困っている人を介護、介助、援助する立場になったら…。誰もがスコットにも、またディビットにもなり得ることに気づいて、はっとするのではないだろうか。

 この舞台で提起された問いは、私にとって、そして「私たち」にとって、何一つ他人事ではない。

 もちろん、バック・トゥ・バック・シアターのメンバーと私や「私たち」が同じと言うつもりはない。だが、彼らのあいだで、あるいは彼らの周りで、起こっていることの構造に目を向ければ、それらが決して私や「私たち」と無縁でないことが見えてくるのではないだろうか。もしかしたら、同じ構造が身の周りで、あるいは社会のあちこちで、かたちを変えて反復されているかもしれない。

 『ガネーシャVS. 第三帝国』を観たあとで私たち観客にできることの一つは、そうした可能性を念頭に置きつつ、これは「私たち」の問題であるという自覚をもって、日常を省みることではないだろうか。そして、知らず知らずのうちに、身に沁みついた先入見や身勝手な理想を振りかざし、馴染みの力関係に寄りかかって、他者を支配し、暴力を振るってはいないか? あるいは逆に支配され、暴力を振るわれていないか? と、自らの思考や行動を再吟味することだろう。

 そう、何らかの「境界」を設定し、そのなかに安住しようとする「慣性」こそを、この作品は厳しく問い直している。その問いかけを受け取った私たちが次にすべきことは、慣性に抗して思考し、さらに行為していくことだろう。そこには不可避的に、極めて不安定な、痛みを伴う(なぜなら私たち自身を絶えず問い続けなければならないのだから)道程が待っているだろう。だが、そうした先にこそ、新たな関係性と創造の可能性は拓かれると、この稀有な作品は示しているのではないだろうか。

(注)台詞の引用は『シアターアーツ』57号(2014冬)掲載の上演台本(翻訳:エグリントンみか)より。舞台に登場する5人の名前の表記もそれにならった。

【筆者略歴】
水谷みつる(みずたに・みつる)
 1964年5月千葉県生まれ。大学時代に駒場小劇場に巣食う。その後、学芸員としてセゾン美術館、水戸芸術館などで働くが、健康上の理由で退職。大学院に在籍しつつ療養に専念する期間を経て、現在は当事者研究。論文に「受け取る名づけから生み出す名づけへ : 『額縁問題』の研究を例に」(http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/55487)、共訳書に『クレイジー・イン・ジャパン――べてるの家のエスノグラフィ』(医学書院)。

【上演記録】
フェスティバル/トーキョー13 バック・トゥ・バック・シアター「ガネーシャVS. 第三帝国
東京芸術劇場プレイハウス(2013年12月6日‐8日)

演出
ブルース・グラッドウィン

出演
マーク・ディーンズ、サイモン・ラフティ、スコット・プライス、ブライアン・ティリー、ディヴィット・ウッズ

協同創作:
ブルース・グラッドウィン、マーク・ディーンズ、マルシーア・ファーガソン、ニック・ホランド、サイモン・ラフティ、サラ・メインワリング、スコット・プライス、ケイト・スーラン、ブライアン・テリー、ディビット・ウッズ
照明デザイン:アンドリュー・リビングストーン
舞台美術:マーク・カフバートン
デザイン&アニメーション:リアン・ヒンキリー
作曲家:ヨハン・ヨハンソン
衣裳:大谷汐

東京公演スタッフ
技術監督:寅川英司+鴉屋
技術監督アシスタント:河野千鶴
舞台監督:渡部景介
演出部:櫻井健太郎
照明コーディネート:佐々木真喜子 (株式会社ファクター)
音響コーディネート:相川 晶 (有限会社サウンドウィーズ)
字幕:幕内 覚 (舞台字幕/映像 まくうち)
字幕・翻訳:エグリントンみか

助成:豪日交流基金
後援:オーストラリア大使館
協力:イソップ・ジャパン株式会社
主催:フェスティバル/トーキョー

チケット料金
一般前売 4,500円
学生 3,000円、U18(18歳以下)1,000円(前売・当日共通)

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