SPAC「マハーバーラタ」

◎儀礼と演劇、近代を再考する手つきについて―SPAC『マハーバーラタ』ステートメント批判
 川口典成

「これは儀礼ではありません。儀礼についてのダンスなのです」
ピナ・バウシュ i

 2014年の日本演劇界の大きな話題のひとつであったSPACの『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』。アヴィニョン演劇祭に公式プログラムとして招聘され、7月にブルボン石切場にて上演。9月には、KAAT神奈川芸術劇場にて日本凱旋公演が行われた。アヴィニョンでは好評だったとNHKなど大メディアでも喧伝され、また9月の凱旋公演も大いに盛り上がり、ネット上にも賛辞があふれた。そうした言説の中に「祝祭的」「祝祭感」という言葉がよく見られたのは、SPAC自体がこの作品を「祝祭劇」と銘打っていることからも頷ける。だが、ここで問いたいのは、「祝祭」とはなんだろうか、ということである。演出家・宮城聡がアヴィニョンで発表したステートメントは、まさに「祝祭」をめぐってのものだった。

 2014年のアヴィニョン演劇祭に関しては、アンテルミッタン(舞台芸術・視聴覚産業に携わるフリー労働者)の失業補償制度の改変に反対するストライキによって、演劇祭のいくつかの公演が上演中止になるのではと伝えられていた。SPACの『マハーバーラタ』は、7月12日土曜日の公演がストライキによって中止となり、代わりに法王庁前広場で抜粋版の無料パフォーマンスが行われた。その際に、ステートメントが読み上げられた。私は現地に足を運んでいたわけではない。だが、すぐにSPACのウェブに掲載されたため、そこで読むことができた。宮城のこのステートメントを目にしたとき、私は同じ演劇の創り手として重大な危険性を感じた。宮城のステートメントにおいて、問題の部分を引用したい。

 私たちは、演劇の上演が、単に観客に向けて行われる行為にとどまるものではなく、人間をとりまく自然界、人間を生かしてくれている宇宙に対して、感謝と慰撫を表現するものだと考えています。従って、上演を行うという約束は、観客に対して結んだ約束にとどまらず、「天」に対しての約束です。つまり演劇の上演は、収穫祭と同種のものであり、たやすくキャンセルできるものではないというのが私たちの感覚です。
(SPACのウェブ「『マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~』7月12日(土)の公演中止に関して」より引用)

 この宮城の発言は、儀礼と演劇との親近性・同質性について述べたものだ。「収穫祭と同種」、特に「『天』に対しての約束」という言葉は、極めて直接的であり、演劇と宗教的なるものとの繋がりを重要視し、演劇がもつ宇宙的な祭事性、つまり「祝祭」性を訴えている。だが、このステートメントには儀礼と演劇との関係について重大な欠落があり、それは多大なる危険性をはらんでいる。以下の文章は、その「危険性」の正体を明らかにしようと書き綴ったものである。

 「欠落」ということを考えたのは、神話学者のジェーン・エレン・ハリソンによって書かれた『古代芸術と祭式(Ancient art and ritual)』を思い出したからである。この著作は、演劇の起源が「春祭り」としての祭式(ritual)にあることを理論的に跡付けた古典として知られている。ハリソンは祭式と芸術に共通する衝動は、胸中に強く感じられている感動や願望を行為として表現することであるとするが、彼女の主張は宗教的祭式・儀礼と芸術との親近性にとどまらない。重要な論点は、祭式(ritual)と芸術との分離にあるのだ。ハリソンは次のように書く。「祭式はいわば実人生と芸術とのあいだの一つの橋をなすのである。それは原始時代に人がどうしてもわたらなくてはならぬ橋と言えよう」。祭式(ritual)は芸術への「橋」である。祭式(ritual)から脱却・離脱することによって芸術が生まれる。このハリソンの論を、『古代芸術と祭式』においてもたびたび言及されるフレイザー『金枝篇』と比較してみると、芸術とは、儀式(ritual)からの「脱呪術化」と関連付けられることがわかる。たとえば、「春祭り」で踊るという呪術的行為の意味は、春(生命力、食糧)を招き入れることにある。だが、天候の不順が続くことがある。すると、呪術の効力に対する信仰は衰退する。集団の一人がこうつぶやく。「なぜ私はこの踊りを踊っているのか」。このつぶやきこそが、演劇の誕生を決定づける。ひとつの集団で信仰されているある価値体系からの脱呪術化、それによる芸術あるいは演劇の誕生。つまり、演劇とは、儀式(ritual)から生まれ、しかしそこから分離したものであるのだ。

 もちろん、演劇は必ずしも儀式・呪術と無関係になったわけではない。20世紀においても、たとえば、アルトーはバリ島の舞踏に影響を受け、西洋的なロジックの構築による演劇とは別の呪術的演劇を志向したし、寺山修司も「劇はまた呪術であり、俳優は霊媒である」(『盲人書簡(上海篇)』)としてアングラ演劇のひとつの潮流を牽引した。なぜ彼らは演劇における呪術性を主張したのだろうか。呪術からの分離こそが演劇の誕生を決定づけたのではなかったのか。彼らはこう考えたのだ。演劇が演劇としての自立性を確保したことで、実人生と演劇との結びつきが失われてしまった。実人生と演劇との間にもう一度「橋」をかけなければならない。演劇は現実に積極的に介入しなければならない。そして実人生・現実へと至る手段として彼らは「呪術」を求めたのではなかったか。だが、ここで重要なのは、それが超自然的なものを信仰することへの回帰ではないということだ。「なぜ私はこの踊りを踊っているのか」と繰り返し自らに問いかけ、共同体を批評する作業だった。つまり、演劇が儀礼(呪術)から離脱したものであることに踏みとどまりながら、演劇は「儀礼であり儀礼ではない」という二重性を意識し続けていた。アルトーの場合は、西欧的なクラシカルな演劇を常に敵対視し、ロジカルな言語的演劇と呪術的な演劇とを両睨みにしながら、演劇は「運命に挑む戦争だったのだ」(「運命に抗する人間」)と言い放つ。また、寺山のさきほどの文章の全体は次のようである。「劇は工事であり、演技は労働である。しかし劇はまた呪術であり、俳優は霊媒でもあることを忘れてはならない」。儀礼と演劇、運命と抵抗、ロジックと呪術……。彼らは演劇と儀礼(呪術)との関係について反省を促したのだ。演劇は共同体に関わるものであるという意味において儀礼である。だが、その共同体への批評であるという意味において、儀礼ではない。現代演劇は、つねにその二重性のなかにあると考えられる。

 宮城氏の発言に戻ろう。宮城聰の発言における欠落とは、演劇と儀礼をめぐる「二重性」の欠落である。このステートメントでは、演劇は儀礼そのものであり、宗教的な行事であるということになる。もう少し正確に書こう。たしかに宮城も「単に観客に向けて行われる行為にとどまるものではなく」また「観客に対して結んだ約束にとどまらず」という言い方をしている。この「観客」という言葉に演劇と儀礼との「二重性」が意図されていると読むことが可能である、という主張もあるかもしれない。だが、これは「二重性」ではない。ハリソンは儀礼から脱却した人々を「観客」と呼び、儀礼の衰退化と脱呪術化が「観客」の誕生を促したと捉えている。ハリソンがいう「観客」という言葉遣いには儀礼と演劇との緊張関係がある。だが、宮城のステートメントには、そのようなせめぎ合いが感じられない。儀礼と演劇に緊張関係がなければ、「観客」という言葉は単に儀礼の集団性を指すものと等しくなってしまう。もう一度繰り返す。この宮城のステートメントは、演劇は儀礼そのものであり、宗教的な行事であるという表明に他ならない。

 演劇批評家である高橋宏幸が、『テアトロ』(2014年11月号)においてこの宮城のステートメントを取り上げている。ルストム・バルーチャによるピーター・ブルック演出『マハーバーラタ』への批判(『舞台芸術03号』)を前提にしながら、宮城の作品をオリエンタリズムの観点から批判する高橋は、オリエンタリズムを売りにした宮城の態度が「如実に示された」例としてステートメントを引用する。そして宮城のステートメントに対して、「現在の日本の演劇の状況からしてもまったく距離感のあることだろう」と述べ、「少なくとも、SPACは毎年、新嘗祭を催して、その際に演劇作品を上演しているのだろうか」と皮肉交じりに批判している。宮城のステートメントに結果的に賛同するにしても批判するにしても、多くの人がこのステートメントを字義通り受け取ることに「距離感」があるのではないか。ii

 ではなぜこのような「距離感」のあるステートメントを宮城は発表したのだろうか。理由のひとつとして、このステートメントが発表された状況を考慮に入れなければならないだろう。つまり、アンテルミッタンはフランス政府による失業保険制度の変更に反対してストライキを決行していた。そのときに宮城は、上演そのものを取りやめないことを「敬意をもって認めてもらえるにはどうするべきか」を考えたと述べている。iii いったいどのように上演の正当性を確保するか。それが宮城にとっての問題であった。ステートメントの前半を引用したい。

 私たちは、演劇の普遍的な価値を世界の人々とともに確認できる場所がアヴィニョン演劇祭だと考えています。そしてその確認は上演するという行為によって実現すると考えています。私たちはその目的のために日本からアヴィニョンにやってきました。
 同時に私たちは、演劇をおこなううえでもっとも重要な基礎は、多様性の尊重であり、自分とは異なる価値観を尊重することだと考えています。
フランスの劇場で働く人々が、演劇創造を守るために、ストライキという手段を選んだことは、私たちの価値観からは遠いものですが、それは固有の歴史に育まれた固有の価値観に基づく判断として、尊重したいと思います。

 この文章に続いて、先に引用した「演劇を上演するということは……『天』に対しての約束なのです」の一節が続くこととなる。ここで宮城が強調しているのは、「多様性の尊重」「異なる価値観の尊重」という自身の多文化主義的態度である。このような前提を確認した後、宮城は「私たち」の演劇は「天」との約束であるという。つまり、このステートメントを通して、「われわれにとって上演とは、宗教的儀式なのだ」という価値観を態度表明することが宮城の戦略なのである。アンテルミッタンもこれには反対しにくい。たとえば教義に基づき労働中に礼拝を行う宗教信仰者たちを尊重するのと同じように、アンテルミッタンも宮城らの宗教的儀礼を尊重するだろう。そうして法王庁前での野外パフォーマンスが実施される。戦略は成功した。アヴィニョン演劇祭のフェスティヴァル・ディレクターのオリヴィエ・ピィは、(日本人の俳優たちにとって!)「演じることは神聖な行為」だと発表し、『マハーバーラタ』に関わっていたアンテルミッタンのスタッフ全員が最終的には協力した。だが、そのような宗教性の態度表明による戦略によって本当に「演劇の普遍的な価値の確認」ができるのだろうか。それは、『マハーバーラタ』上演のために、宗教性を盾にとり、さらに言えば、宗教性を騙る、非常に罪深い行動になるのではないだろうか。

 以下、問題を掘り下げるために、二つの場合を仮定して検討してみよう。一つ目は、宮城が演劇の宗教儀礼としての側面を真剣に信じている場合、二つ目は、宮城のステートメントが自らの演劇の上演のための方便である場合である。

 まずは一つ目である。宮城が演劇の宗教的儀礼としての側面を真剣に信じているのだとすれば、その内実が問われる。彼らが約束をし、「感謝と慰撫」を表現する対象である「天」とはなにか、ということである。これも高橋が指摘するように(あるいは指摘するまでもなく)、「収穫祭と同種」と書かれるとき、宮中行事である新嘗祭を想起するのは必然的だろう。宮城らは、新嘗祭と同じような演劇を行っているのだろうか。そうであるなら、すでにそれは演劇ではなく、宗教的儀礼そのものである。また、宮城は自らが「天」という言葉を出したことに対しての説明として、『悲劇喜劇』(2014年11月号)のインタビューのなかで次のようにも述べている。「芝居を自分たちのためだけにやるのは、あまりにも虚しく、目の前にいる人たちのためだけに行われるのであれば、一生をかける営みとしてどうにも虚しい。やっぱり芝居は巨大なものにいつかは奉納するという感覚でないと、僕はやり続けられない」。この発言からすると、宮城にとって「天」という言葉は、自らの不安を解消する手立てでもあるかのようだ。宗教・歴史研究学者の磯前順一は、現代日本社会の特徴として、自分の直面している不安から逃げ出したいために、「全体主義的なものへと自分を溶かし込むことで、複数性の声の響きあう緊張性の高い空間を放棄する」動向に歯止めがかからなくなっていると指摘し、宗教者だけではなく、宗教学者、芸術家たちの言動に注意を呼び掛けている(「沈黙の眼差しの前で」『宗教と公共空間』)。こうした「天」にすがって現実を否認するような宮城の態度と、現実へ積極的に介入しようとして演劇における呪術(儀礼)の重要性を主張したアルトーや寺山との違いは明白だろうし、アルトーが晩年に『神の裁きと訣別するために』というテキストを書いたことを思い起こせば、その差異は決定的だと言わざるを得ない。

 儀礼を論じる際に、権力の問題は避けては通れない。儀礼は一時的に社会集団に混乱をもたらすものであるが、最終的にはなにかしらの構造の安定をもたらすものであるからだ。儀礼が行われる前と同じ構造か、すこしずらされた構造か、それはさておき、その「安定」のためには、社会集団の均一性を保つことが必要とされ、そこには排除が、そしてそれを司る権力が存在するのである。だからこそ儀礼と演劇との「二重性」について述べ、集団的アイデンティティに必然的に伴う暴力性に視線を向けているわけだが、日本の場合に警戒が必要なのはその「安定」をもたらす構造として、そこに天皇制が横滑りしてくるという事態である。近代的主体であることに付きまとう不安や淋しさから逃れるために、安易に構造・権力に寄り添ってしまうことに警戒しなくてはならないだろう。儀礼と演劇との間にある緊張関係が放棄されたとき、演劇は、パフォーマンスの全体感に自らを投げ出し、惚けた・呆けた顔をした演者と観客がいるばかりのセレモニーとなる。

 次に二つ目。ステートメントが自らの上演を確保するための方便だとするならば、自らの演劇を上演するという目的のために宗教性を騙り利用したことになる。ステートメントを聞いた観客たちは『マハーバーラタ』という芝居を宗教的儀礼として目撃することになる。そして、その劇評に飛び交うのは「美しさ」や「崇高な時間」というようなイメージとなる。はたしてこのような欺瞞が宮城の言う「普遍的価値」の確認なのだろうか。長谷部浩は「嫌な言い方ですが、ものすごく計算された闘い方をしたと思う」と述べるが、果たしてなにとの「闘い」だったのか、そこに「闘い」はあったのだろうか。

 違う角度から考えてみたい。宮城はクロード・レジやオリヴィエ・ピィに対して、「演劇は至高なものと人間が触れ合うための一つの儀式で奉納と考えていると確信が持てる人たち」と述べている。ではたとえば、彼らふたりがそのようなステートメントをしてストライキに立ち向かうということがありうるだろうか、あるいはそれをアンテルミッタンは受け入れるだろうか。おそらくどちらも否だろう。「何に対しての儀礼なのか」「『天』とはなにか」など、様々な疑問が提出され、交渉は紛糾したに違いない。では、なぜ宮城のステートメントは許されたのか。そこでは、アヴィニョン演劇祭・SPAC双方ともの、内面化されているオリエンタリズムが作動したとしか考えようがない。宮城が言う「天」や「収穫祭」という言葉の内実は問われず、その日本的なるものやアジア的なるものの宗教性が許容される。「フランスの劇場で働く人々が、演劇創造を守るために、ストライキという手段を選んだことは、私たちの価値観からは遠いもの」であるとためらいもなく述べる宮城の姿勢に驚くばかりだが、iv その「遠い」価値観が、結局のところ「遠い」ものとされたままであり、つまり、宮城のステートメントも、アンテルミッタンのストライキという戦略も、双方ともに何の対話も交流もなく「遠い」まま、温存される。

 問題を拡張しておきたい。
 これは儀礼と演劇という問題にとどまらず、近年活発に議論される「宗教と公共」という問題に重なる。3・11後における宗教団体の積極的な社会貢献、最近騒がれるイスラーム国の台頭など、社会的な事象と宗教的要因とが、現在複雑に絡まりあっている。このような事態は、じつは理念的には近代的な世俗社会という考え方には馴染みのないことである。つまり、世俗/宗教を二分法的に分け、社会・政治の領域を、宗教の力学ではなく、人知的で理知的な力学によって考えるのが世俗主義であるが、そのような近代的な価値体系だけでは現在のわれわれの社会は立ち行かなくなっているのである。この状況を「ポスト世俗社会」と名付けたのはドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスである。「宗教」との新たな付き合い方を模索しているハーバーマスは、いまわたしたちが置かれている時代を、社会・政治・宗教との関係を探る「学習期」だと呼んでいる。

 近年のハーバーマスの提言は、公共空間における宗教性を認めていくべきで、そのときには「適切な理性」の使用が求められるというものであるが、このようなハーバーマスの態度も、「理性」の価値を普遍化することで、結局のところ近代的な世俗主義を前提としているとの批判もある。それこそが、「学習期」における議論の難しさをあらわしている。社会哲学・宗教社会学者の藤本龍児は、世俗主義の見直し、いいかえれば「ポスト世俗主義」の考え方には二つの方針があると整理している(「二つの世俗主義 公共宗教論の更新」『宗教と公共空間』)。v 一つ目は世俗主義を前提にした上でどのように公共領域に宗教を参画させるかという問題設定である。ハーバーマスはこちらに入る。二つ目は近代の市民社会という前提自体を見直し、世俗主義という考え方自体を反省的に捉える問題設定である。二つ目の場合、「ある地点まで立ち戻ることが必要になってくるのではないか」と藤本が述べるように、その方法は近代化論や近代性を捉えなおすことである。

 だが、どちらの立場にしても(「立ち戻る」にしても)、「学習期」だからといって、現在までに続くさまざまな議論を踏まえずに一から、というわけではない。そこには当然ながら前提がある。たとえば、マックス・ウェーバーによる近代社会論を確認しておこう。マックス・ウェーバーは『職業としての学問』のなかで、近代的学問は「脱呪術化」「魔術からの解放」であるのだから、「真なる存在」への道は失われている、と述べた。学問に「生の意味」を求めることなどできない。「生の意味」を求める者は、キリスト教へと戻り、学問をあきらめるべきだと。これは、ドイツにおける第一次世界大戦末期の講演記録であり、敗戦の可能性が濃厚ななか、ドイツの若者たちが、頼るべき価値や存在を求め始めたことに危機感を覚え、学問の意味を、そして近代の意味をウェーバーが訴えたものである。「『われわれはいったいなにをするべきか、またいかにわれわれは生きるべきか』という問い……に答えるものはだれかとたずねたならば、……それはただ予言者か救世主だけである」。このウェーバーの態度は、「近代」という時代のひとつの「宿命」である。

 「ポスト世俗主義」という考え方は、「近代」という理念へのひとつの捉えなおしである。だが、その議論はたとえば以上のようなウェーバーの危機意識を抜きに語られてはならない。捉えなおしや反省とは、立ち戻り、そこから歴史を検討することを求めるのであって、時計の針を戻すことではない。近代はわれわれにさまざまな恩恵を与えてくれた。しかし、いまその近代は窒息しかかっている。我々は現在、近代的価値観をどのように継続するのか、あるいはいかにオルタナティヴを志向するのかを「学習」しているのだ。

 私たちはいま演劇と儀礼という問題を考えることで、「近代とは何か」をもう一度吟味しなければならないのである。それは「ポスト世俗主義」という問題設定が、世俗主義は限界なのだから近代を諦めようということではないように、演劇が儀礼へと戻ってゆくことではない。演劇を「呪術」へと先祖返りさせる、あるいは新たに「再呪術化」することではない。宮城の発言も、SPAC『マハーバーラタ』をめぐるいくつかの批評も、演劇が儀礼(呪術)になってしまうことへの警戒が薄いように思われてならない。われわれは儀礼(呪術)から解放されるために多大な時間と犠牲を払ってきた。にもかかわらず、気を抜けば、あっという間に演劇は儀礼(呪術)に戻ってしまう。その警戒心の欠如が、私が宮城聡のステートメントを目にしたときに感じた「危機感」の正体に他ならない。

 演劇は、本来的に儀礼・呪術と芸術との緊張関係のただなかに存在する芸能であり、社会集団における価値体系(それによる構造的運命)を克明に分析する装置である。「なぜ私はこの踊りを踊っているのか」。演劇の誕生を決定づけるこのつぶやきは、踊りという儀礼を行う集団を分析するための批評的つぶやきである。そのつぶやきが、自己アイデンティティの不安としてつぶやかれ、そして、その不安を解消するために全体主義的なものが呼び出されたとき、演劇は、集団に必然的に伴う権力構造を正当化し、さらには助長する暴力装置となる。これは常に演劇につきまとう危険性なのだ。わたしは演劇の力を信じている。だからこそ演劇を恐れている。vi

i 鴻英良「ストラヴィンスキー作曲『春の祭典』――春を葬る祭り」、F/T14『春の祭典』(演出・振付=白神ももこ、美術=毛利悠子、音楽=宮内康乃)のパンフレットより。
 このピナ・バウシュの発言は『月刊イメージフォーラム』(1986年12月号)に掲載された鴻英良「ピナ・バウシュとヴッパタール舞踏団 イメージの演劇」に基づくと思われるが、そこではピナの発言は「『春の祭典』で重要なのは、ともあれこれが、儀礼についての舞踏だということです」と書かれている。

ii 「ワンダーランド」に掲載された片山幹生による「SPAC『マハーバーラタ』アヴィニョン演劇祭公演」「9.「詩的で政治的なフェスティヴァル」の実現:教皇庁前広場での無料特別公演の反響」のなかで、片山はこう書いている。「『演じることは神聖な行為』という言葉をフランスの新聞各紙は伝えた。労働争議によるストライキという緊迫した局面で、一緒に舞台を作っていくアンテルミタンたちに配慮した上で、自主的な公演を行うことを正当化する苦肉の策だ。しかし筆者はこの報道記事を読んだときにいささか不安を覚えた。「演じることは神聖な行為」という素朴で場違いに思える説明を、フランス人はどう受け取るだろうか。スト破りとみなされて現場のスタッフの信頼を失うことにならないだろうか。あるいはこうした形而上学的な理由をつけて公演を行うことで、神秘的で霊的な日本という通俗的な東洋趣味の次元でSPACの公演が捉えられてしまう危険性があるのではないか」。片山は最終的にはこのステートメントを評価しているが、最初に違和感あるいは距離感を感じたことは確かである。

iii このあたりの事情については『悲劇喜劇』(2014年11月号)の「『マハ―バーラタ~ナラ王の冒険~』アヴィニョン公演を終えて」に、演劇評論家・長谷部浩による宮城聡へのインタビューとして詳しく述べられている。

iv 宮城は、アンテルミッタンが選んだストライキという方法が、戦略として有効でないと考えている可能性も十分ある。その場合には、それがどのように有効でないのか、その意見こそ聞いてみたい。今回の事例において、ストライキが有効であるのか、私には判断が難しいことも書き添えておく。

v 「一つは、世俗化論と政教分離を見直し、公的領域に宗教を参画させる、という方法である。もう一つは、公的領域の基盤とされる世俗的理性やリベラルな政治文化そのものまでを宗教との関係で問い直す、という方針である」(藤本龍児「二つの世俗主義 公共宗教論の更新」『宗教と公共空間』)

vi この原稿はWebマガジン「シアターアーツ」(2014年12月末更新)に掲載予定であったものを「ワンダーランド」用に一部書き直したものである。「シアターアーツ」編集部からは、原稿が掲載される直前になって掲載不可との連絡を受けた。その経緯と理由には非常に問題があると考えている。「シアターアーツ」編集部の対応については、ピーチャム・カンパニーのWeb上(http://peachum.com/)にて公開する形をとる。「シアターアーツ」編集部に送った最終原稿もそこに掲載する。「ワンダーランド」の特別な措置に感謝する。

【筆者略歴】
川口典成(かわぐち・のりしげ)
1984年、広島県生まれ。演出家。ピーチャム・カンパニー代表。東京大学思想文化学科宗教学宗教史学専修課程卒業。同大学院宗教学宗教史学修士課程修了。2009年にピーチャム・カンパニーを旗揚げ。

 

「SPAC「マハーバーラタ」」への1件のフィードバック

  1. (個人的なメッセージめきますけど)

    川口典成の作物で初めて「おもしろく」読んだ。卑近な言い方で苛立たせるだろうが、噛み付く、ってスリリングだね。。

    特に今の宮城さんの立場を切り崩そうとは考えないけど、問い直しって重要だよね。
    この秋にやっと初めて「マハーバーラタ」を観た。頑張って率直に言ってみるけど、空間造形などなどは素晴らしいと思ったものの、本丸の中身である芝居の大半の小ネタは実のところせせこましいもんだなあと見た。ところが、それが「伝統」や「マハーバーラタ」(あと「アヴィニョン」とかもか)という言葉と結び付くと、たやすく「美しさ」や称賛へ横滑りしてくんじゃないかと見えて忸怩たる思いがして、(不勉強で全部分かるわけじゃないが)それもオリエンタリズムという問題なのかなあ、と読みながら。川口の批判は、俺の個人的な芝居の感想とはあさっての方向でありながらきっと裏表で、そのステートメント批判は、宮城演劇そのものへの本質的な問いになってると考える。
    というところを、自分としては諸手で評価したいよ。(川口へ向けて。)

    またまた卑近な言い方しか出来ないが、要は、ひょっとして「宗教」逆手にとって演劇より「商売」しちゃってませんか?とざっくり読んだけども(や、川口の問題意識は「拡張」されてるようだけども、すまん、さしあたりこう理解しておく)、宮城さんがさらっと天とか神とか持ち出してくる人だっていうのは俺たちは知っていて、それはきっと「芸術家の名の下に」なんだけど、今や公的な立場にもありながらそういう危険な?発言を自らに禁じていないということは普通勇気も必要だろうはずで、そこを批判するのは実は簡単でもあり(川口の批判は正当だと思うが、そこに殺到するとヤだなと思うわけ)、むしろ宮城聡の有り様も分からなくはないとも思いたく、なにか擁護しうる回路ってあるのかなあ、とも個人的なテーマをもらって、考えてみたいなと。

    問いかけは重要だ。ここに出てくることは俺にとってなんかデメリットあったっけな?とか一瞬逡巡しかかったが笑、川口が「演劇してる」って思うので、それを読んだ興奮のまま、声を上げることにする。

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