#6 内野儀(舞台芸術批評)

遊園地再生事業団の「モーターサイクル・ドン・キホーテ」公演(2006年5月23日-29日、横浜赤レンガ倉庫1号館ホール)は、成り立ちがこれまでと違っていたようです。アメリカの財団が後押しする国際的企画で、シェークスピアの失われた戯曲を基に、各国の劇作家が作品を舞台に上げる「文化の流動性」プロジェクトの一環でした。日本側プロデューサーを務めたのが、東京大学大学院助教授の内野儀さんです。内野さんは日米現代演劇、パフォーマンス研究が専門で、活発な演劇評論、批評活動で知られています。プロデューサーを引き受けた理由や今回の企画をめぐるいきさつなどについてお話をうかがいました。(北嶋孝@ワンダーランド)【写真は、内野儀さん】

世界、いま、身体に開く演劇の試み-遊園地再生事業団「モーターサイクル・ドン・キホーテ」をめぐって

◇雲をつかむようなプロジェクト

-遊園地再生事業団(注)「モーターサイクル・ドン・キホーテ」公演は、光の当て方によって微妙に輝きを変える不思議な舞台だったような気がします。プロデューサーの内野先生からいくつかの補助線を引いてもらったり別の角度から光を当ててもらうと舞台の「貌」がまたさまざまに浮かび上がるのではないかと思い、お話をうかがうことにしました。今回の企画はハーバード大学のスティーブン・グリーンブラット教授(注1)の立案だと聞いていますが、どういう経路やいきさつで内野先生がプロデューサーを引き受けたのでしょうか。

内野儀さん内野 グリーンブラットさんご自身は若いときから「新歴史主義」という批評理論の新しい方法を作られたということで、文学、広い意味では文化研究のリーダーとして知られていて、「ルネサンスの自己成型」「シェークスピア的交渉」など多数の著書があります。新歴史主義については後に触れますが、要するにシェークスピアに対する新しい見方を示したということになると思います。1980年代は新しい批評理論が生まれてきた時期で、フーコーやデリダなどのいわゆるポスト構造主義哲学の影響下で多様な理論が出てきました。グリーンブラットさんはこれまで何度か来日していて、日本で開かれたシェークスピア学会世界大会でも、重要なゲストとして出席したりしました。

なぜこのプロジェクトの話が私に来たのかということで言うと、まず同僚の東京大学の高田康成先生にこの話があったということがあります。

私の恩師は高橋康也先生です。シェークスピア研究とベケット研究の大家で、大学院時代にお世話になりました。先生が数年前に亡くなられて、その後「高橋康也メモリアル・レクチャー」という企画を始めました。英文学関係の著名な学者に講演をしていただくという企画です。高田先生はその企画でグリーンブラットさんにレクチャーをしてくれないか交渉していたらしい。その過程でグリーンブラットさんから「こっちにも企画がある」と持ち出されたのがこのプロジェクトだったという経緯のようです。2年前ぐらいだったと思います。高田先生のほか、私の同僚にはシェークスピア研究で知られる河合祥一郎さんがいらっしゃるのですが、日本の現代演劇ということなら私のほうが現場に近いかもしれないということで、話が降りて来たんだと思います。

正直言って、最初どういうプロジェクトなのかよく分かりませんでした。雲をつかむような話で具体性がないですからね。カルデーニオというセルバンテスの作品である「ドン・キホーテ」に登場する人物について、シェークスピアとジョン・フレッチャーが共同執筆したという戯曲があるけれども、その上演記録だけあってテキストは残っていないわけで、どういう内容かはわからない。シェークスピアが書いた戯曲の復刻版だと称する上演があったり、最近ではあるシェークスピア学者がこれこそオリジナルな本物だという戯曲を出したりしていますが、研究者の間で合意に至ることができるこれがオリジナルな戯曲と言えるようなテキストは見つかっていません。だから、カルデーニオの話を上演してくれと言われて、最初は「えっ?」ですよね(笑)。何をしていいかわからないから。

でも逆に、そこに興味を惹かれたということはあります。ある意味、単にコンセプチュアルな企画だと思いました。セルバンテスの「ドン・キホーテ」にカルデーニオの挿話が出てくる。それをシェークスピアが実際どう扱ったかわからないけれども、シェークスピア学者なら、シェークスピアがどう考えどういう主題で戯曲を書いたか、ある程度は想像ができる。さらにそこから一歩踏み出して、いま、演劇に取り組んでいる人たちが、具体的な戯曲はないけれど、だいたいの話やテーマは理解できるから、そしてシェークスピアの作品は他にたくさんあるわけだから、そこから何を取り出せるか。私は今回の話をそういうプロジェクトだと理解しました。実験的だし、アカデミックな研究プロジェクトでもあるんですね。だから当初、劇場で上演するような志向はそんなになかった。最初にプロジェクトの話をしたときには、グリーンブラットさんがアメリカの劇作家のチャールズ・ミー・ジュニアと共同で書き上げた戯曲はある、という話でした。ですから材料としては「ドン・キホーテ」は日本語訳で読める、シェークスピアが書いたと称するテキストが2つあり、グリーンブラットさんらが書いた戯曲がある、という具合で、上演を構想するにあたって、参照するものはかなりあるという段階で、さあどうぞ、という感じで渡されたわけです。

-作品作りに当たって、物語の軸や参照すべき資料などに関して特別の条件は付いていたのですか。

内野 特にありませんでした。条件かどうかはわかりませんが、額は言わない方がよいと思いますが、ある程度の研究費というか、資金が提供される、という話でした。アメリカ側は、その予算規模だと、ワークショップを開いて最後に発表会をするぐらいだと考えていたようです。

◇宮沢章夫さんに白羽の矢

内野 私はシェークスピアのことをよく知らないわけですが、このプロジェクトを日本側で受けられるのはだれか、と考えていました。そのときまず、宮沢章夫さん(注2)の名前が最初に浮かびました。前作の「トーキョー/不在/ハムレット」(2005.01)だけでなく、2003年に遊園地再生事業団の活動を再開してからの作品がとてもおもしろいと思っていたのでね。何がおもしろいかというと、彼の頭の開かれ方というか、彼ぐらい実績があり力があれば、「宮沢章夫」の名前で作品を作り続けていれば観客は入るわけですよ。それが世の中で起きていることに異様なほどに敏感に反応して、特に9・11のときなど、日本人が亡くなってはいるので関係ない事件だというと言いすぎですが、国内では多くの人がオウム真理教事件や阪神淡路大震災のようには重要な出来事であるとは思っていなくて、まあ大変だねぐらいだったわけですが、宮沢さんは自分のこととして考えていた。演劇の問題として考えていた。いままでやってきた芝居ではもうだめだ、と日記に書かれていたことなどを読んでいたので、宮沢さんの活動にはずっと関心を持っていたわけです。

「トーキョー・ボディー」(2003.01)でもそうなんですが、いや、そう言ってしまうと、ずっとさかのぼって、「ヒネミ」(1992.11)や「砂漠監視隊」シリーズでも、あるいは「知覚の庭」(95.11)や「14歳の国」(98.10)でも、現実に起きていることにコミットしながら演劇における身体の問題を考えてきた方だと思います。

また京都造形芸術大学で教えるようになってジョン・ジェスラン(注3)というアメリカの演出家と出会い、彼の演出方法がおもしろいとパッと取って来る。こう言うと宮沢さんは怒るかもしれませんが、自分なりに取り入れて、違ったものにして使ってしまう。いまの小劇場の人はそういう開かれ方をしていません。昔はというほど昔ではありませんが、たとえば、鈴木忠志さん(注4)なんかでも、ポーランドのタデウシュ・カントール(注5)が82年に来日したあと、新作を立ち上げるというので稽古を見に行ったら、みんなザッザッと歩いている。ほとんどカントールのようなことをやっている(笑)。最終的にはもちろんそのままということにはならないんですが、最初にとりあえずやってみる。そういうことを宮沢さんも割にあからさまにやるようになっていました。あと私が知っている例では、亡くなった岸田理生さん(注6)がよくやっていましたね。観客として見てみて、刺激的だったらワッと取り入れる。最終的に残すかどうかは別にして、ともかく自分の作品の中でやってみる。

◇日本のいまの身体に関心

内野 宮沢さんはそういうことを意識的にやっていたし、そのために、作品が整合性を、よい意味で失っていったように思います。「トーキョー・ボディー」がよい例ですが、一応、「オイディプス王」の話がベースにあります。大学の授業で西洋古典に取り組んでいたことが関係しているように思いますが、ベースにギリシャ悲劇やシェークスピアなどのプロットが入り込むようになってきた。いままで自分の世界だけで作品を手掛けてきた人が「世界」や「歴史」に開かれていったように私には見えていた。それが2003年以降の宮沢さんだったと思います。何のためかというと、書くテーマを見失ったとか書けなくなったというさもしい話ではなくて、好奇心に満ちて、興味のあることに向き合って、取り込めることはどんどん取り込む。何も拒絶しない。でもコアには自分たち、いま、日本で生きている人の身体がどうなっているのかという関心があって、その関心を追及していくためにいろんなことに自分を開いていく。「トーキョー/不在/ハムレット」はまさにそういう作品で、多彩な実験をしていましたね。

最初は小説でした(「不在」2005年1月、文藝春秋刊)。小説家としても芥川賞候補になったくらいですが(「サーチエンジン・システムクラッシュ」、「文學界」平成11年10月号)、中上健次やフォークナーを発見していく。特にフォークナーはすごいと思ったようですね。あの小説「不在」はフォークナーを意識していて、作品の舞台となる埼玉県北埼玉郡北川辺町と、フォークナーが一連の小説の中で作り上げたヨクナパトーファというアメリカ南部の架空のコミュニティーは閉塞的な共同体という点で明らかに通底している。しかもフォークナー張りの文体を使っている。最後の上演に至る過程で映画を撮ったり、実況中継だけが見える映像を使った上演などもやりました。最終局面では、戯曲の台詞自体をシャッフルして、役者の慣れや固定化を排して新たな発見があるように仕掛けたり、という具合で、世田谷パブリックシアターのシアター・トラムにおける最終的な公演に至ったわけです。

作品のいわゆる「成果」としては、一般的にはあまり評判が芳しくなかったようです。というのはいまの演劇界で期待されていること、つまり完成度というか、力のある役者がいい演技をして、わかりやすい物語をわかりやすく語ってくれるとOKですが、それ以外のことをすると、逆ギレ的に怒ってしまうという意味で、期待を裏切ったからでしょう。宮沢さんはこうすれば一般受けするスタンダードな演劇をやろうと思えばできることはわかっているだろうけれど、そういうことに興味がなくなってしまったんじゃないでしょうか。私も同じように「そんなふつうの演劇、別に見たくはない」と思っていますけど(笑)。それは別にやぶにらみとか新しもの好きとかそういうことではなくって、時代の変化がこれだけ急速であるわけだから、演劇も変わるほかはないはずなのに、という気持ちが強いからです。そんなわけで、ずっと宮沢さんの仕事に注目していました。>>


内野儀(うちの・ただし)
1957年京都市生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(アメリカ文学)。現在東京大学大学院総合文化研究科助教授(表象文化論)。専門は日米現代演劇、パフォーマンス研究。主な著書に「メロドラマの逆襲――〈私演劇〉の80年代」(勁草書房、1996年)「メロドラマからパフォーマンスへ-20世紀アメリカ演劇論」(東京大学出版会、2001年)など。「図書新聞」「芸術新潮」などに劇評を掲載。米国を代表するパフォーマンス研究学術誌「TDR」(MIT Press)の編集委員。「かながわ戯曲賞&ドラマリーディング」審査員。
http://repre.c.u-tokyo.ac.jp/staff/(東京大学表象文化論研究室スタッフ紹介)

注1スティーブン・グリーンブラット(Stephen J. Greenblatt)
1943年米国マサチューセッツ州生まれ。イェール大、ケンブリッジ大で学び、カリフォルニア大アービン校を経て、現在ハーバード大教授。専門は英国ルネサンス文学、近代文学。
著書は「ルネサンスの自己成型―モアからシェイクスピアまで 」「寓意と表象・再現」「 シェイクスピアにおける交渉」など。
http://www.bedfordstmartins.com/litlinks/critical/greenblatt.htm (LitLinks)

注2宮沢章夫+遊園地再生事業団
1956年静岡県生まれ。劇作家、演出家、作家。多摩美大中退。80年代に「ラジカル・ガジベリンバ・システム」で新しい笑いに挑戦し、90年代は演劇ユニット「遊園地再生事業団」の活動を始める。「ヒネミ」で岸田國士戯曲賞を受賞。2000年から3年間活動休止。03年「トーキョー・ボディー」で活動再開。京都造形芸術大学助教授を経て、05年から早稲田大学客員教授。主な著書に戯曲集のほか、「チェーホフの戦争」「『資本論」も読む」「演劇は道具だ」などがある。
http://u-ench.com/
(遊園地再生事業団)
http://u-ench.com/fuji2/index.html (富士日記2)

注3ジョン・ジェスラン(John Jesurun)
劇作家、演出家、映像作家。アメリカ・ミシガン州出身。フィラデルフィア芸術大学、イェール大学大学院で学ぶ。映像作品を取り入れて独特の空間を造形する舞台作品を次々に発表してニューヨーク・ダンス&パフォーマンス賞、オビー賞などを受賞。表現形式の斬新さと、詩的表現の美しさを融合させた劇作家・演出家として80年以降のアメリカ現代演劇を代表する一人。日本とも縁が深く、99年東京大学客員教授、02年-03年京都造形芸術大学教授。

注4鈴木忠志
1939年静岡県生まれ。1966年、別役実、斎藤郁子、蔦森皓祐らとともに早稲田小劇場(現・SCOT)を創立。1976年富山県利賀村に本拠地を移した。世界各地での上演活動や共同作業など国際的に活躍するとともに、俳優訓練法スズキ・メソッドは世界各国に広がった。ギリシャ悲劇など古典に対する現代的視点と、独自の俳優訓練法から作られるその舞台は世界の多くの演劇人に影響を与えている。岩波ホール芸術監督、水戸芸術館芸術総監督を経て、1995年から静岡県舞台芸術センター芸術総監督。演劇人の全国組織・舞台芸術財団演劇人会議理事長。主な演出作品に「劇的なるものをめぐって」、「トロイアの女」、「ディオニュソス」、「リア王」など。1995年に静岡県舞台芸術センター芸術総監督に就任。著書に「内角の和」(而立書房)、「劇的なるものをめぐって」(工作舎)「劇的言語」(白水社)などがある。
http://www.spac.or.jp/spac02.html(静岡県舞台芸術センター)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%BF%A0%E5%BF%97
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注5タデウシュ・カントール (Tadeusz Kantor)
ポーランド現代演劇を代表するする演出家の一人。劇団クリコット2を率いて1982年に来日、第1回利賀フェスティバル(世界演劇祭)に参加。「死の教室」公演は評判となった。著書は「死の演劇」「芸術家よ、くたばれ! 」など。

注6岸田理生
1974年に寺山修司が主宰する天井桟敷に参加。寺山との共作で戯曲「身毒丸」や映画「草迷宮」「ボクサー」などを手掛ける。84年からは岸田事務所+楽天団を主宰し、同年に上演した「糸地獄」で第29回岸田國士戯曲賞を受賞。88年には作・演出を務めた「終の栖 仮の宿」で第23回紀伊國屋演劇賞・個人賞を受賞した。「水妖記」「幻想遊戯」など著書も多い。2003年6月、死去。翌2004年から岸田作品の連続上演会が開かれている。
http://www.lepton.jp/rio-kishida/ (岸田理生のページ)