#1 岡田利規(チェルフィッチュ)

演劇論の「インプット」と「アウトプット」

柳澤 いまイメージという言葉がでていましたが、チェルフィッチュのホームページで掲載している「演劇論」は主に2004年6月に書かれていて、それから止まってますね(注14)。あの「演劇論」はこの先書き継がれる、書き継がれうるものでしょうか。

岡田 いま止まっていますけど、書き継ぐつもりです。書き直さなければいけない個所もあるけど、そこは消さないで、「ここで書いているのは舌足らずで…」という書き方で、直したのが分かるようにしていきたい。

柳澤 あの「演劇論」のプログラムは生き続けているわけですね。

岡田 ええ。ただ言葉と身体の関係に関する基本的なことはある程度書いている。それに匹敵するようなことが浮かんでないですね、最近。

柳澤 「演劇論」序文の中で、方法論を手放すためにこそ書きたいと語ってますよね。

岡田 確かに。でも全部を手放すというより、今獲得しているものを総動員してさらに先に方法自体を展開させていきたい、ころがしていきたいみたいな気持だと言うほうがより正確ですね。

柳澤 「演劇論」というタイトルですが、あの文章は演技論、演出論のレベルに終始していますね。演出家と役者が、既にあるテキストをめぐって何かを立ち上げていく方法論が演劇の本質だという考え方があるのではないですか。

岡田 では柳澤さんは、演技論、演出論以外に、演劇論として何があると思いますか。

柳澤 いま言葉があって演出家と役者が立ち上げると言いましたが、そのあとには舞台空間があり、美術や照明がある。そこで結果として出てくる空間がどういうものになるかを、アウトプットと言うとすれば、入り口のインプットの部分には、ドラマトゥルギーをめぐる理念とかがあるだろうし、戯曲は要らないという考えも成り立つ。ただチェルフィッチュの場合は、上演台本がきっちりあって、それは動かさない。そこから演出家と役者の共同作業で舞台の要素を空間にうまく収めていくやり方ですね。つまり戯曲があるということが自明の前提になっていて、その前提には「演劇論」の議論は触れていない。インプットとアウトプットが省かれて、その中間部分、プロセスが考察されているという気がします。

岡田 いまのところその辺りはうまく書けないんですよ。なんでこういう戯曲を書くのか、なんで舞台装置を組まないのか、何かしらあるんだけどまだ書けない。

柳澤 自分でその理由は分かっているけれど、いまの段階ではまだ対象化する必要がないということですか。

岡田 端的に言うと、舞台装置とか衣装とかは不要なんです。

台本が必要な理由

柳澤 台本に関しては、あらかじめ書いておくことを疑う理由はないとお考えですか。

岡田 作品の中でノイズを意識的に出したいと僕は考えるんだけど、その場合僕が書いたテキストというものがあったほうがいいんですよね。演劇を作る際には、リハーサルにしろ本番の上演にしろ、繰り返す必要があるわけですけど、即興的だったりその場で観客の参加を組み込んでいない限り、テキストという形で仕込んでおかないと、そのノイズは繰り返しのプロセスの中で消えていくんです。役者に何か即興でしゃべってもらうとしますよね。その話し方にはノイズがあふれています。突っかかったり、うまく言えなかったり、無駄な、頭の悪い話し方をしたりするわけで、そういうのが僕は好きなんです。でもその話を何度も繰り返していくと、その中で当然、話し方に整理が付くし、無駄を端折って上手に、スマートになってくる。で、ぼくにはそれが面白くないわけです。というのがノイジーな脚本を書いている理由の、まあ一つですね。

あとはまあ、それよりもっと根本的な理由が当然あって、ぼくには書くことへの欲求ってものがそもそもあるわけで、それを満たしたいから書いてるんですけどね、なんか当たり前の話ですけど。

柳澤 無駄なことやノイズが整理されて消えていくことを避けたい。だからこそ、あらかじめ冗長だったり繰り返したりする戯曲が必要なのだ。その中にノイズが消えない、消えさせない装置がきっちり組み込まれている。こういう仕組みを自覚的に作っているからこそ、出発点に役者自身のものでない言葉が、戯曲の中にあらかじめなければいけない。そういうことですか。

岡田 役者にとって必ずしも、あて書きだから言いやすいとか動きやすいわけではない。稽古で彼らが何気なく発した動きがおもしろいと思って、もう一度やってもらおうとしても別の動きになってしまう。これって、答になってるかなあ。なってないような気がする(笑い)。

柳澤 役者本人から無意識に出た動きは、意識的に繰り返せないということですよね。だからこそ、動きの基になるものを外から投げ入れる。戯曲を繰り返し読む中で立ち上がってきたことは、舞台に出すことができる形で表れるということでしょうか。

岡田 それはぼくがピックアップすることで意識させて、それをやろうと言って初めて可能になる。そう動くことがそこで決まる。動きを決めない役者ももちろんいますが、基本的には稽古場で動きは決まります。

柳澤 稽古で生み出されてきたものをピックアップし、さらにフィードバックして繰り返し上演可能なものに変わっていくプロセスがあって、それを見越して上演台本が書かれている。

岡田 これだけノイジーに書いておけばなんか出てくるだろう、というようなことは当て込んで書いてますよね。>>


(注 14) 演劇論(2004年6月、チェルフィッチュのWebサイト「Chelfitsch」)