世田谷パブリックシアター『リア王の悲劇』

 シェイクスピアには「普遍性」があるのだという。すぐれた古典作品が漏れず有するものだという。時代によらず常に「いま」を生きる人びとの共感できる心情があって、多く人が「本質」と呼ぶのがそれだろうか。シェイクスピアは世界でお … “世田谷パブリックシアター『リア王の悲劇』” の続きを読む

 シェイクスピアには「普遍性」があるのだという。すぐれた古典作品が漏れず有するものだという。時代によらず常に「いま」を生きる人びとの共感できる心情があって、多く人が「本質」と呼ぶのがそれだろうか。シェイクスピアは世界でおそらく最も名の知られた劇作家。古今東西の劇場で、書斎で、学校で、「シェイクスピア」の読解が昼夜行われている。日本とて例外ではなく、上演、翻訳、研究は止まることを知らない。新解釈、新訳が次々と産み落とされ、また今日も「新しい」シェイクスピアが世田谷パブリックシアターに産声を上げた。母たるは四大悲劇の一『リア王』。彼女を孕ませた父親はこれも名高き佐藤信である。


 『リア王の悲劇』という劇がある。「古典作品の現代化」を眼目とした主演俳優と演出家に、リア王は居酒屋のオッサンにたとえられた。だからわたしたちにも彼の気持がわかるのだそうだ。リア王の苦悩が「俺の問題だ」と思えるのだそうだ。しかし果たして本当にリア王は居酒屋のオッサンなのか。いや、そういうことではないというのはわかるけれど、もしもリア王とオッサンを同じ位置に並べて古典の現代化を歌いあげるならば、これは喜劇である。リア王という大なるものを居酒屋でくだを巻く小なるオッサンにおとしめ、小さき中年男性を巨大な一国の王と比肩させる。従って『リア王』の「悲劇」はパロディとユーモアのきらめくべき「喜劇」となりうる。しかしならなかった。これは『リア王の悲劇』なのだ。実際、舞台には当然ながら居酒屋の風景などでてこない。くるはずもない。

 「共感」と「等身大」、二つの鍵言葉から導き出された「ぼく(わたし)にもできる」という誤解はプロフェッショナルとアマチュアの境界を曇らせる。誰もがはじめは素人、それは当り前だけれど、自らを「プロ」と誤認したアマチュアがプロフェッショナルとして成立してしまう昨今の情勢は憂慮して然るべきものがある。と、訳知り顔にくどくど遠回りして何を云いたいのか。つまり、物語を自分たちの「身の丈」に合せることで古典作品を「現代化」するという論理は一見理解しやすそうに見えて、その実、原寸のスケールを甚だしく縮小してしまう危険も孕んでいる。石橋蓮司のリア王とて然りである。決して古典を現代に引きつける方法論の模索を否定するものではないし、むしろ心情は逆なのだけれども、「わかりやすく」することがどこまで「古典」の風味を保ちうるかは疑問だ。その点に於いて、演出家の視線はどうもシェイクスピアを上演することそのものに釘打たれ、出来上がった『リア王の悲劇』は斯く云われる「普遍性」とやらの誤解によって積み上げられた舞台にしか見えなかった、とは言い過ぎだろうか。先達て静岡グランシップで上演された『夢の浮橋』を、一年がかりで『源氏物語』を通読した結果の新解釈と宣うた佐藤はここでまた同じ失敗を犯してはいないか。「古典」という力に満ちた物語がある。「現代」という間口の広がった表現方法がある。『源氏物語』にしても同様、シェイクスピアは都合のいい実験材料になるのかもしれない。しかし実験に付合される観客こそいい面の皮である。観客は完成された商品を求めるのであって、フラスコに揺れる怪しげな液体を買うのではないのだ。

 シェイクスピアには昼下りのテレビに映る「愛の劇場」がある。ゴシップがあり、遺産争いがあり、それらを包み込む目眩く台詞群がある。シェイクスピアのそうしたサーカスのような人間模様と佐藤信のアジア的な猥雑がどのように結びつくかに期待はあったが、幕切れ近い立ち回りにわずか横顔を覗かせたものの、あとはワダエミや東儀秀樹の趣向かと見紛う衣装と音楽がそれぞれにそれらしさを醸すに止まった。(後藤隆基/2004.10.01)

*『夢の浮橋』に関して、「『源氏物語』をひと月かけて読破」との記述は、佐藤氏ご本人の御指摘がありましたように、筆者の間違いでした。深くお詫びの上、訂正致します。以後はこのようなことのない様、十分に注意致します。


「世田谷パブリックシアター『リア王の悲劇』」への2件のフィードバック

  1. 確かに「古典、普遍性、現代化」をめぐる諸問題について考えさせられる舞台であったように思います。
    可能性としての「喜劇」というご指摘は、とても興味深く感じました。
    後藤氏のいう佐藤信の「アジア的な猥雑」言い得て妙ですね、4月に観た『三文オペラ』は、そんな雰囲気もありましたよ。

  2. 丁寧な劇評をありがとうございました。
    いったん作品として提出した以上、寄せられた批評について、つくり手の側からつけ加えるコメントはあり得ないと思っています。
    今後の作業の糧として、真摯に受け止めさせていただく所存です。
    ただ一点、

    >ひと月かけて『源氏物語』を読破した

    という一行についてだけ、是非、訂正をお願いします。
    『源氏』の読破は、いくらなんでもひと月は無理です。
    与謝野晶子版をかたわらに、一年がかりでどうにか通読(と言っても、どうにかひと通り目を通した程度のことですが)しました。
    「ひと月で読破」という発言はどこにもしておりませんので、たぶん何かの間違いだと思います。
    『夢の浮橋-人形たちとの源氏物語』は、来年、東京で再演を予定しています。
    今後とも、折にふれて、率直なご意見をよろしくお願いします。

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