Ort-d.d 『こゝろ』

 たとい日常生活からそれらが失われ、またわたしたちが実感として「日本」を愛することが難しいにしろ、日本人であるという血の嗜好は決して拭い去れるものではない。おそらくは自然の衝動として、日本の風土や文物に云い知れぬなつかしさを覚える。年中行事はすでに習慣として暮しの中に根を張っており、イベント化の誹りを受けもしようが、やはり新年のはじまりには幾万の足が寺社仏閣に向かう。桜に携帯電話を向けるのも一つの愛し方であろうと思う。


 しかし、かつて起臥した畳はフローリングへ、寝室にはベッドが設けられる。日本家屋は軒並み洋装に姿を変えた。などと今更鹿爪らしく言い立てることでもないのだけれど、もう少し常套句を積み上げるなら、わたしたちの生活様式は目下西洋化、アメリカナイズの果てに混乱し「共通化」されている。挙げ句、もはや身辺から姿を消した文物は余りに多い。愛したものを昔と同様に愛する術を知らぬ人も多い。「日本はダメね」という声も聞える。あるがままにあるべきものがない状況に、わたしたちは何を己のものとし、正しく生活していけばいいのか。

 日本的なるモノへの憧憬、追求は時代の節目ごとに多く識者の間で行われてきた議論ではあるのだけれど、今日ではそれが広く世上全般に広がっている。アスリートの海外での活躍を例にとるまでもない日本人の通用性や観光業界を筆頭に「忘れかけていた」日本の魅力を再考する動きが高まっており、「日本とは何か」という題目につながる道を懸命に模索しているかに見える。

 無駄に長い枕を漸く爰に引きつけて云えば、Ort-d.d版『こゝろ』には、日本「的」なるモノから「日本」を抽出せんとする作業の一端があった。明治から大正期の、いわゆる「近代化」に伴う環境の変化と自意識のズレを鍵言葉として、夏目漱石『こゝろ』に立ち向った倉迫戦術はまさに、わたしたち日本人のからだに潜む「土」への無意識の愛着に訴えかけようとする。違い棚を拡大したような舞台装置。吊り洋燈が仄かに映す陰翳の風景。わたしたちの美意識はそれらを美しいと観るだろう。音楽は一切用いられない、攻撃的な、武器としての静寂に、言葉(声)や音(したたる水、軋む床など)の、また常にその間を支配しつづける無音の美しさを聴くだろう。作品の読解以上に、『こゝろ』の書かれた「時代」、そこに生きた「夏目漱石」、今なお読みつづける「わたしたち」という距離感そのものを舞台化して見せたように思う。そしてその疑問符自体が『こゝろ』の読み、解釈として提出されていた。

 「物語」にも目を向けてみれば、やはりその構成力、台詞処理の巧さは一言に価するだろう。云わずと知れた『こゝろ』の下巻「先生の遺書」から、「K」の恋の告白から自殺に至までの行を抜き出し、その死の地点から「なぜKさんは死んだの」という疑問を軸に一連の経緯を現在に向けて語り、時間の糸を一気にたぐり寄せるような「私」の死を以て幕を閉じる。読み手がどんな距離をとるとしても十分な魅力を発揮するこの箇所に、原作の「奥さん」と「御嬢さん」を姉妹に置換してさらに父親との近親相姦を盛り込んだ。「恋」や「青春」というものが普遍であるならば、「近代的自我の目覚め」などと読まれる原作へのイメージは当然あるにもせよ、「近代的自我」って何なのさ、という気持もないではないことを鑑みた上で、『こゝろ』が現代のわたしたちにまで届けられた疑問への一つの解ともなる。

 たとえば世界の中での日本文化の独自性や、身体的特質を叫ぶ前段階として、先ずは日本人が日本人であり、何をわたしたちが愛するのか、愛してきたのかという問いかけがなされているとは云えないだろうか。思想云々と大袈裟なことではない、直ぐ隣にあるはずの生活のためにである。漱石が感じたのであろう「近代」のズレと、わたしたちが感じる「現代」のズレの相似形が倉迫康史の『こゝろ』を形づくっている。そういった意味で、歌は世につれではないけれど、極めて今日的な問題提起を含む作品なのだ。(後藤隆基/2004.11.11)


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