鵺の会 『場景』

 BeSeTo演劇祭の中でも注目劇団の一つである鵺の会を都立戸山公園につくられた特設会場で観た。作品はジョルジュ・バタイユ『松毬の眼』と太宰治『燈籠』を原作に編まれた『場景』。構成・演出をつとめる久世直之の実験精神が満々と浸した舞台はまさに、「前衛」と云う名で呼んでも決して遜色のない精練された知的冒険の世界だった。


 二部構成。畳六畳の舞台には白い衝立が三枚。前半『松毬の眼』は人間のからだの動きを視座に、まずメトロノームによって一定のテンポを与えられた俳優は単純な動作を繰り広げる。途中BPMに合わせた照明、音響の微妙な変化は劇時間に揺らぎを与え、メトロノームと単調なピアノ曲に示唆されるビートの音間をたゆたうような舞踊めいた運動への変換を促す。一人で全編を演じきる藤間叟之助は、久世直之の観念を舞台上に表現してみせたと云える。

 一方、後半の『燈籠』は前半で確認された身体試論を言葉(台詞)に置き換えた。卓袱台が持ち込まれ真白の衝立は襖に変わると、一気にそこは親しみ深い空間になる。太宰治という男性作家が女性の独白体で書いた小説の言葉を男優が語る。そこに一つの趣向があったがしかし、言語を主体として描く『燈籠』では振付の一つとして言葉は機能していた。藤間が一枚きものを羽織って現れる。女性的な仕草と独特の発声はそれだけで有効な武器になり得るけれど、たとえ太宰の小説を素材にしたとはいえ、淡々と何の処理もされずに語られる言葉は起伏に乏しい。『松毬の眼』に比べて一定のパルスが舞台に流れつづけ、緊張を強いられたままの観客の身体は、寒さも相まって舞台を心から楽しめはしなかった。

 知的ゲームや実験は時に退屈なものになる。ストイックな場の提示は創造という過程においてよしと見るべきだけれど、如何せん観客は「楽しい」気持にならないだろう。実験性は評価するものにしても、果たしてそのままのかたちで提出された場合に「芸術作品」という呼称を与えられるかどうか。芸術観なぞそれこそ十人十色、人により相違はあるし、何を以て楽しみとするか、演劇に何を求めるのかは各々の勝手自由だと思う。しかし、とあえて私見を云えば、やはり理屈抜きに楽しみたいのが本音ではないかしら。「芸術」とは「注」を振らずとも楽しめるモノ。いや、こんなことは愚言に違いない。発展の途上をゆく確かな知性は、万事承知の上で或る仮定の実践を試みたのだろうから。(後藤隆基/2004.11.20)


「鵺の会 『場景』」への1件のフィードバック

  1. 鵺の会 『場景』

     『場景』というタイトルは、確かに言い得て妙である。 BeSeTo演劇祭の演目として、都立戸山公園特設会場で上演された鵺の会による『場景』は、11月の野外という条件から来る冷ややかさに妙に調和した舞台で、季節感はずれるものの、音声を消してTVの野球中継を…

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