三条会が新作『若草物語』をひっさげて本拠地である千葉公演に臨んだ。所属俳優全員が顔を揃え、多彩なゲストを迎えた豪奢な華やかさ。また先達て関美能留が千葉市芸術文化新人賞を受賞したばかりということもあり、話題性は抜群、どうにも期待せざるを得ない。春も間近いホール椿。いざと心構え、不意打ちは重々覚悟ながらもやはりあれよの大展開に圧倒され、しかし気がつけばすっかり『若草物語』の世界に引きこまれてしまうのだった。
三条会のつくる演劇は場の性質を最大限活かす空間処理が特徴的であり、劇場や舞台構造など、空間そのものを劇的な武器として、そこに俳優を配する位置関係を含めた体系の創造に魅力のひとつがあると思う。『若草物語』の舞台は昨年の公演に見たような自在な立体感を脇にのけ、奥行きわずか六尺ほどの横長の舞台、しかも背後には真っ白な壁というあからさまに制限された場所。俳優は常に下手から現れ、舞台の中心を行き交い、下手に引っ込む。花道もある。プログラムには歌舞伎への意識が綴られていたけれど、舞台作法を見ていればたしかに歌舞伎である。恰も『青砥稿花紅彩画』の稲瀬川勢揃の場様に四人の男優が自分の本名を名乗り連ねてゆく場面や、冒頭の便所の場などに見える俳優の力強さは、相変わらず小空間を濃密な触感で浸した。
と、ふと思う。ともすれば当たり前のように観てしまうのだが、俳優は異形の存在としてわたしたちの前に現れていること。人間であって人間でない、舞台にいる役者は普通の人間ではないという一点が、強く響くのだ。かつて(現在でも)リアリズムという概念は多からず舞台を生活という現実世界の再現と捉えてきた。そこで演じられる役柄は或る人生の物語における各々登場人物であり、彼らがどんなに劇的な台詞を口にしたとしても、それは現実感を伴う「人間」であることに変わりないだろう。描かれる物語が日常的な断片でなくても然りである。役に扮するということ。役を生きるということ。そもそも「役」とは何ぞやという疑問を、三条会は笑いのうちに提示してくれる。開幕時に戻れば、男たちの剃りあげた頭にはりつけられた色鮮やかな三つ編み。すでに役者は単なる人間の再現ではない。歌舞伎だとて、たとえば『暫』の鎌倉権五郎のような衣裳は実際あり得ない。江戸時代にだってあんなものを着ていた人間はいなかったろう。隈取りもまた。にもかかわらず、様式という一面、また視覚的な美意識においても、誇張された人間の姿は心理劇に流されがちのわたしたちに、感覚的な演劇の楽しみ方を伝えてくれる。それは心情を、科と白の裏に暗示するのではなく、本来不可視である意識を色彩豊かに視聴覚化する手段である。「暫く」の一言を云うためにあれだけの時間を費やす不合理も、意識と時間感覚の関係性の表徴に他ならない。俳優の身体を、抽象を具象化するよりしろとして捉え、現実時間に拮抗する体感時間をつくりだす。まさに三条会の演劇そのものの姿なのだと再確認させられた。
『若草物語』の「世界」を味わうために、幕の効用というものも一考する価値があるだろう。舞台と客席が幕で仕切られることの少なくなった昨今の演劇事情は今更強調するまでもない。多くがはじめから舞台を見せ、開幕前の舞台に様々の仕掛けを施し劇世界を予め提示する。しかし、幕のあることは舞台とわたしたちのいる客席とが明らかに異質のものであり、その距離感覚は芝居を芝居として幻想の世界へとわたしたちを誘う効果がある。見えない幕の向こうの世界に期待は高まり、想像力も掻き立てられる。設えられた紅白の引幕が開く、文字通りの「幕開き」。トいきなり剃りあげた頭に色とりどりの三つ編みをぶらさげ、不敵な笑みを浮かべた四人の男が並んでいるという絵面の強烈なインパクト。そしてのっけからミュージカル。冒頭の衝撃は一気に劇の世界観を強制諒解させる。また上手袖では常に一人の女優が舞台の成り行きを見守っており、基本的には彼女が引幕を操るわけだが、三場構成の各場切れは舞台上で台詞が続けられるにもかかわらず、彼女の幕引きによって終点が定められる。いわば、「女」と役名を振られた彼女は『若草物語』の劇的時間を支配する役割を負っているとも云えるだろう。時に男たちを統括する教師、四人姉妹の伯母を演じることと併せてみても、物語を(それは人生と云うもまた)外的な力で以てその進行を指し示す、運命にも似た存在を思わせる。便所や学校、はたまたマーチ家のように閉塞した場に対し外界から統率するのである。最終場、白馬に乗った王子様(=ブルーク先生)がメグへ求婚する行を、またも強引とさえとれる幕引きで終わらせようとする。しかし、舞台半ばまで引かれた幕をローリイに扮する男優がその度に引き戻す。猛烈に結婚反対する伯母に、当初は「王子様」に対してけんもほろろだったメグは次第心を変えていく。まるで決められることを嫌うかのように、如何にブルークがよい人間か、そして貧しくとも彼との生活がすばらしいものになるかを熱心に語り聞かせる。幕を引こうとする伯母、伯母に反発するメグの意識を代行するように、ブルークを弁護しつつ引かせぬローリイ。幕はそれが芝居であることの印である。幕が開いて世界は動きだし、幕が引かれれば世界はわたしたちの目の前から姿を消す。たとえその間にも幕の向こうの物語はとめどなく流れていたとしてもだ。物語の進行途中に挟まれる幕引きは暴力的でさえあるが、それを妨害する行為はさらに挑発的である。芝居を芝居として見せる、ひとつの鍵言葉でもあった引き幕の使用。はじまれば開き、終われば閉まるという約束事の境界をさらにかき回し、虚構と現実を混沌とさせながらぎりぎりまで勿体ぶって終幕。幕で装う舞台の裸体をスカートめくりの如く露わにしようとする。歌舞伎という系譜を受け継ぎつつからかってしまう。三条会版『若草物語』の楽しさは、舞台構造の制限を逆手にとって、物語時間を、マーチ家の四人姉妹が味わう季節の推移といった出来事の並列から、俳優及び観客の体感時間に引き寄せたところにあったのではないだろうか。(後藤隆基/2005.2.28)
三条会『若草物語』
絢爛な饗宴、あるいは「現代演劇」の臨界 『幸福の王子・サロメ』以来1年ぶりに本拠地千葉に戻った三条会の新作公演『若草物語』は、アメリカ南北戦争を背景にした“貧しくとも明るくたくましく生きる4姉妹の物語”を、限られた場所・限られた時間のなか、(俳優個人と…