「お花畑でつかまえて」は、漫画大好き少年が、自分の漫画を舞台に描きたいと作、一作努力してきて、ついに完成!――最後のシーンになぞらえて言えば、ついに卒業!――した舞台だったといえよう。これまでの野鳩の最高の到達であった。
天王州アイルのスフィアメックス。ラクの客を送りだす出口に恥ずかしそうな顔して立っていた藤子不二雄が、オットット、作・演出の水谷圭一が、これまた恥ずかしそうな小さな声で「こんどはごく単純に創りました」と言っていたが、そのとおり、ストーリーはいたってシンプル。お祖父ちゃん子だった腰巡不二雄(畑田晋事)が同じ中学の美少女小豆畑つぼみ(佐伯さち子)に初恋。が、しかし徹底的に嫌われて終わるという、たったそれだけ。途中不二雄は、仏壇から現われたお祖父ちゃん(鳥打帽に眼鏡の水谷圭一。藤子不二雄にそっくり)の助けで男子から女子に変身、つぼみに近づく。が、不二雄が女子でいる間は、つぼみも、幼いとき太っていていじめられっ子だったと打ち明けてくれたり追っかけてきてくれたり、仲良くしてくれたのに、実は男子と解ったとたんに、いや! ――ひとことで言えばつまりこれは、好きな女子に友だちとしてならつきあってもらえるけど、異性として意識されたことがない、問題外だったという、コンプレックス少年の哀愁物語であった。
男子中学生のコンプレックス。それが前作「きみとならんで空の下」では目の下にホクロがあるから、となっていて、それはそれで些細なところ、悪くなかった。が、今回はそういう設定いっさいなし。初めのほうで小柄な不二雄と背の高い親友宮野(堀口聡)とをただ並んで舞台に立たせただけ。見るものの想像にまかせたところがなお良かったように思う。他の人にはなんでもないことが気になる。それが人であり思春期であろう。 先に言ったストーリーがただ単線で描かれていくだけなく、つぼみや宮野の、美少年や不二子(腰巡不二雄が変身した女子中学生)への一目惚れと追っかけ、その挫折がそれぞれ挿入されていたのも、全体の厚みとなっていて、よかった。“好き”“嫌い”に理由なく、それが日々のすべてであった昔がほんのりと浮かんでくる。
いちばん最後、不二雄がつぼみにふられてしまったあとだが、それまでお祖父ちゃんの仏壇が出現してきた以外、あまり使われず、惜しいなあと思っていた後方の石垣から舞台ばなにかけてが、一瞬にして美しい美しいi一面の菜の花畑へと変わる。溜めに溜めた、みごとな使い方であった。そして、そのお花畑に立ったつぼみと、客席まんなかに設けられていた花道、その後方に立っていた不二雄とが、あろうことか、手をあげ声をあげ、懐かしく懐かしく手を振り合っているではないか! それぞれ卒業証書の入った筒を持って――。冒頭、「ついに完成!」「ついに卒業!」と感じたのはこのときだった。 「お花畑でつかまえて」は、腰巡不二雄のつぼみへの憧れ、オマージュであったと同時に、水谷圭一の藤子不二雄へのまぎれもない憧れ、賛歌であった。もちろん見てきたとおり、つぼみが不二雄に手をふる必然は物語のなかにない。にもかかわらず、つぼみ――藤子不二雄はなんと、水谷圭一に手をふってくれたのだった……。おそらく水谷が、コンプレックスあるいは欠落、持っていないということを表現の根拠とし独特の魅力へと逆転させた力技を、それこそが漫画であり野鳩の芝居だと喜んでくれたから、にちがいない。
嘘かほんとか、野鳩の大切な役者のひとりがこの公演を最後に劇団を去るかも?という噂を小耳に挟んだ。ここまで到達して、さあ卒業と去っていったらあまりに惜しい。一つ宿題を出すことにしよう。果たさなければ卒業させないわよの脅かしである。次回の提出を待っている。卒業がまた新たなる出発となりますように……。 (2005.03.04)
宿題:つぼみが、不二子実は不二雄と気がつくところ。つぼみが引っ張っていた手を離すと不二子がいったん左袖に入り、入れ替わりに不二雄が出てくるが、これは、あまりに曲のないやりかた。漫画ならもっと上手に描く。これを藤子不二雄ならどう処理するだろうか、考えてきなさい。
野鳩『お花畑でつかまえて…』
反復としての「スタイル」野鳩を観るのは昨年の『きみとならんで空の下』@タイニイ・アリス以来2度目で、初見の際には、その統一感という言葉のきっちりした感じを捨象したニュアンスでの「統一感らしきもの」が物語・装置・音楽・演技などなど舞台を彩る様々な要素に見…