劇団無限蒸気社は「質の高い芸術表現を目指し地域性を生かした特色溢れる自作台本を上演し続ける事を目的に1996年愛媛県において創立」したそうです。
今年の東京芸術祭リージョナルシアター・シリーズのトップを切って、東京・池袋の東京芸術劇場小ホールで「BARBER OHCHESTRA」公演を開きました(3月2日-3日)。
この公演に関して、葛西李奈さんからレビューをいただきました。以下、全文です。
◎日常のリアリティと非日常の訴え それぞれの言葉の意図は?
劇場に入り、目前に広がるセットに思わず小さく声をあげる。豪華なセットに溜め息、というよりは、奥行きを出すために左右に置かれた数枚のつい立の配色の使い方によるものか、その厳粛な空気に瞬時に入り込んだ驚きを隠し切れなかった、と言ったほうが良いかもしれない。客入れ音楽も一切無し、である。
パンフレットから、今回の公演「BARBER ORCHESTRA」のあらすじを引用する。
『おばあちゃんです。もうすぐ生まれます』
歴史の封が開けられる。理容師たちのざわめきはオーケストラの響きに、黒髪の囁きはバイオリンの音色へ。「彼女」をめぐって闇の楽団が動き始める。高らかに鳴るは忘れられた交響曲。イースター(復活祭)の夜。最終楽章は成るや否や。
無限蒸気社は、1996年に愛媛県松山市他の有志により創立された「半抽象表現」をコンセプトとして掲げている劇団である。「半抽象表現」とは、日常と非日常のはざまを描き、そこから見える真実性を舞台に乗せる表現方法、つまりは「夢の具現化」を試みるような方法論であるとのこと。また、愛媛特有の神事や歴史を表現の中に取り入れており、他には無い、地域に根ざした芝居づくりを目指しているそうだ。コンテンポラリーダンスなど、言葉と表現の融合なども試みとして行っているとあって、今回はその在り方の難しさと奥深さを、観客そして表現者に投げかけた公演であったのではないだろうか。
物語は観客に背を向けた男の独白で始まる。早口で言葉を並べ立てると、すぐに別の男2人が現れる。2人は、舞台に背を向けていた男に新聞紙をかぶせる。3人の男の後ろからもう1人の男が現れ、男2人は呼吸を整え始める。が、瞬時にしてその空間は壊れる。男達は全員何かに引っ張られるようにして舞台から消える。次に現れるのは少年の匂いを漂わせる女。音に合わせて体をくねらせる。その動きは機械的であり、かつ操り人形のようだ。つい立ての脇からすっと現れる机に乗った人形の生首。女はゆっくりと、舞台奥の暗闇に消えていく。私は寺山修司の戯曲世界を思い出す。視覚的・聴覚的に訴える力が非常に大きい舞台だ。
ところが、この後理容室の場面が出てきて、生首がカット見習い練習用のものだと観客に知れたところから、舞台は「物語性」を持ち始める。あらすじは上に引用させていただいたものを記載したが、要するに過去と現在の繋がりが描かれるのである。
しかし、「物語性」は瞬時に観客の身に委ねられ、舞台では幻想世界が展開する。そしてまた、物語の展開は舞台上に返される。つい立てを利用し、左右自在に移動することによって空間を駆使しているのは興味を惹かれるが、私はこの抽象表現とリアリティの差がはっきりしないことで集中力が遮られてしまい、物語を追うことが出来なくなってしまった。途中で新聞紙が大量に落ちてくる演出があったが、「美しい」と感じられるばかりで、意図が読みきれず、ある種のもどかしさと悔しさを拭い去ることが出来ないまま、終演後、会場を後にした。
開演前、案内で「半抽象表現」を表現方法として用いていると知って「なるほど」と思ったが、だとすると私のように「物語性」を追ってしまう観客には厳しい一面があるのではないかと感じられた。その一番の問題はこちら側に「言葉を発する責任」の重さが投げられてしまっているように感じられることだ。放たれる言葉が、こちら側に思考を帯びさせてしまう言葉なのである。感覚の流れに放り出されることは心地良いが、それに思考が伴うと何がやりたいのかこちらに伝わらず、息苦しくなってしまい、舞台を見る目に素直になれなくなってしまう。もし、これが劇団側が確信犯でやっていることだとしたらまた違ってくるが、もしそうではないのだとしたらもっと「日常のリアリティ」を作り込み、提示して欲しいと思ってしまった。美術や音響のセンスが高い故に、このように感じる気持ちが強くなっているのかもしれない。どちらにせよ、非常に勿体無いと思った。
ただ、これから先、この劇団が「半抽象表現」を追求していくことには興味がある。このバランスの取り方は難しい。「日常のリアリティと非日常の訴え」を確立するまでの劇団の成長が、今後の課題となってくるところではないだろうか。
(葛西李奈 2005.3.3 観劇)