ニブロールの矢内原美邦によるプロデュース公演「3年2組」に関して、「中西理の大阪日記」サイトが鋭い指摘をしています。身体と言葉の関係が取り上げられる舞台がこれから多くなりそうですが、中西さんの指摘はこの問題を考えるひとつの勘所をとらえているように思われます。
ダンス系の舞台でダンサーが言葉を話すという設定になったとき、動いている身体と馴染まずに言葉だけ浮き上がったり、逆に言葉が明瞭でも身体が弛緩したりする(つまり時間が淀む)場面に出くわすことが少なくありません。中西さんはそのアポリアを「矢内原は『3年2組』では、会話体としての台詞を温存しながら、その台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、あるいは場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせることによって、言語テキストにまるでダンスのようなドライブ感を持たせることに成功し、それが音楽や映像とシンクロしていくことで、高揚感が持続する舞台を作りあげた」とみています。
少し長い引用になりますが、矢内原の「振付」の特長を絡めて、この点をさらに次のように展開しています。
ダンスの振付と一応、書いたけれども、これは通常「振付」と考えられているある特定の振り(ムーブメント)をダンサーの身体を通じて具現化していくというのとは逆のベクトルを持っているのが矢内原の方法の面白さで、もちろん彼女の場合にも最初の段階としてはある振りをダンサーに指示して、それを具現化する段階はあるのだけれど、普通の振付ではイメージ通りの振りを踊るために訓練によってメソッドのようなものが習得されていく*1のに対して、ここではその「振り」を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出すわけだが、こういう迂回的な回路を通じて生まれたノイズを舞台上で示現させることに狙いがあるのじゃないかと思う。
この「ノイズ的身体」というキーワードは、これから重要になるのではないでしょうか。中西さんはここから、チェルフィッチュ=岡田利規の方法論などに言及していきます。これ以降は、中西さんの原文をご覧ください。