結末に対する私自身の疑問をどう解消するか、で悩んだ作品だった。重いテーマではありつつも、人間の存在の不思議さについて沈思させた。布石の打ち方が巧妙な戯曲と、被害者の父親を演じた山路誠の演技を評価したい。
できるものなら、現実を直視するのは避けたい。偶然なのか、あるいは必然なのか、その瞬間は不意に訪れる。
後輩夫婦に預けていた娘が、交通事故に遭遇(そうぐう)する。娘は帰らぬ人になった。ある日、突然、被害者となった両親の生き地獄は、この瞬間から始まる。
娘が目の前からいなくなった、という現実をどう受け止めればよいのか。思考はその現実の前で立ち止まる。感情は行き場を失う。罪のない被害者が苦しむという不条理が、現実味を帯びて展開する。
自責の念が突如、襲う。あの時、こうしていたら、という想い。妻が、結婚は間違いだったと言い出して、思いやるはずの夫婦にも気持ちのズレ、が生じる。この、重いことばのやりとりを2人の俳優はリアルに演じた。顔の表情、声の調子、しぐさ。感情の起伏と機微が活写されて、やり切れない想いが私の中で何度もこみ上げてきた。
今、自分はなぜ存在しているのか。突き詰めた思考の果てに訪れる疑問。運命、のひと言では何も解決しない。ここでも行き詰まってしまう。
考えても考えても、出口にはたどり着けない。突然、感情が重みに耐え切れなくなる。現実への直視が再開される―。周到な布石と精緻な描写による、終わることのない日常が的確に構築されている。
唯一、物語の結末に良い意味での疑問が募った。
最後の場面で、間接的に娘の死に関わった後輩夫婦が、引越してしまった先輩の家に移り住む。この行動が不自然に映った。むしろ、先輩との関わりを避けたいと願うのが、後輩の心情だと察するからだ。
妻が強く望むので、後輩はやむを得ず引越に同意したという理由が、その後に明らかにされる。なぜ、彼女は強硬だったのか。その背景には、ぬいぐるみを使って、先輩の娘が道路に飛び出すように仕組んだという事情があった。妻が3度、流産しているというのが、その動機である。
舞台では明示されなかったので、ここからは推測になるが、妻に後悔の念が生じて、罪悪感を背負って生きていく、という意味で、引越を決意したようだった。
この仮定が正しいとしたなら、妻が罪悪感を持って生き続ける、という行為が、果たして現代的で現実的であるかどうか、疑問に想えるが、流産をくり返した妻のトラウマが事故につながった、というだけの結末より、魔が差すといった人間の予期せぬ行為を盛り込んだ結末のほうが好ましいように実感した。
(敬称略) 【観劇日:14日(初日)、座席:2列目中央】
(山関英人 記者)
《公演情報》
◇ユニークポイント
・作/演出:山田裕幸
・下北沢OFF・OFFシアター(東京・下北沢)
・上演時間:約1時間40分
・公演期間:2005年9月14日-19日
まだ上演中の作品ですので、ラストシーンまで紹介するならネタバレの表記をすべきだと思います。オンライン劇評としての配慮が必要だと思います。このラストシーンに触れなければ劇評が成立しないというのであれば、公演終了後の掲載でよいのではないでしょうか。
ユニークポイント『脈拍のリズム』
下北沢OFFOFFシアターにて、ユニークポイントの「脈拍のリズム」の千秋楽を見に行ってきました。 TOKYOSCAPEという東京発京都終着の小劇場劇団の交流フェスティバルに参加することになっているということで、それだったら是非とも事前に観賞しようと考えていましたので、…
こんな質問をすると、二度とコメントを寄せてくれる人がいなくなるのではないかと危惧しながらも、疑問は解消したい、という誘惑に勝てませんので、質問します。
・「オンライン劇評としての配慮」とは具体的に何を指すのでしょうか。
・「ネタバレ」がない場合、「ネタバレなし」の表記は必要なのでしょうか。
・ご存じの通り、『YOMIURI ONLINE』では劇評を載せていますが、こちらは「ネタバレ」にならないのでしょうか。
・そもそも、「ネタバレ」の「ネタ」とは一体、何を意味するのでしょうか。
ご質問にお答えいたします。
> 「オンライン劇評としての配慮」とは具体的に何を指すのでしょうか。
オンライン劇評の特徴として、速報性があると思います。「Wonderland」は北嶋孝氏の方針で速報性は重視されていないそうですが、この記事は公演期間中に掲載されましたので、速報性を活かされていると思います。その場合、これから観劇する観客に対して演出上伏せるべき物語の展開などがある作品については、詳細に触れないのが配慮だと考えます。今回の公演期間は短いものでしたので、この内容ならあと1日待って掲載すればよいのにと感じました。
> 「ネタバレ」がない場合、「ネタバレなし」の表記は必要なのでしょうか。
不要だと思います。
> ご存じの通り、『YOMIURI ONLINE』では劇評を載せていますが、こちらは「ネタバレ」にならないのでしょうか。
これは具体的にどの記事を指されていますでしょうか。URLを教えてください。
> そもそも、「ネタバレ」の「ネタ」とは一体、何を意味するのでしょうか。
最初の回答と重複しますが、「演出上伏せるべき物語の展開」だと思います。どこまでを伏せるかは主観の問題ですので、今回の内容について議論すると平行線になってしまうかも知れませんが、私は「その背景には、ぬいぐるみを使って、先輩の娘が道路に飛び出すように仕組んだという事情があった」は伏せるべきだと感じました。
ご質問にお応えいただき、ありがとうございました。
私自身、オンラインの劇評を、必要に迫られなければ読みませんので(つまり、事情に精通していませんので)、お尋ねしました。また、「常識」を疑う私の悪い癖が出たのかもしれません。
さて、「オンライン劇評としての配慮」とは、「これから観劇する観客に対して演出上伏せるべき物語の展開などがある作品については、詳細に触れない」というお応えでした。
要するに、作品の詳細に触れることは、これから観劇する読者に対して、デメリットになるということでしょうか。
(たびたび質問する形になるのは、勝手な想像をして論を進めないための確認です)
それから、劇評について、若干、触れたいと想います。
劇評は批評ですので、「演出上伏せるべき物語の展開」まで含めて記述される、というのが私の認識です。舞台表現に対して、詳細に触れるのが批評であり、劇評である、ということです。
ですので、私の書く劇評に「ネタバレ」と表記するのには抵抗があります。
むしろ、「ネタバレ」のない劇評こそ、「ネタバレなし」と表記するのが、劇評の意味合いからすると、ふさわしい気がします。
(そもそも、「ネタバレ」のない劇評というのは、果たして、劇評なのでしょうか)
ただ、理想論ばかり語っても、独り善がりになることもありますから、現実的な判断として、Wonderlandのサイトの左上にある「◇このサイトについて」に「舞台の内容について詳細に言及している場合もある」と記述していただくようお願いしました(むしろ、山関英人の劇評は、としたほうが適切かもしれません)。あとは、北嶋さんがどう判断するかです。
〈追記①〉
「ネタバレ」の「ネタ」について、お訊ねしたのは、舞台表現に対して「ネタ」と呼ぶのに抵抗があるからです。私にとっては、語感に対する感性と、嗜好性の問題になります。
〈追記②〉
『YOMIURI ONLINE』は以下のページにあります。[評]が目印です。
http://www.yomiuri.co.jp/en…
> 要するに、作品の詳細に触れることは、これから観劇する読者に対して、デメリットになるということでしょうか。
「これから観劇する観客に対して演出上伏せるべき物語の展開などがある作品については」の前提条件を省かないでください。この前提条件がある場合に限り、デメリットだと思います。
> 劇評は批評ですので、「演出上伏せるべき物語の展開」まで含めて記述される、というのが私の認識です。舞台表現に対して、詳細に触れるのが批評であり、劇評である、ということです。
劇評が批評であるというのは当然ですが、公演期間中に掲載する場合は配慮が必要だというのが私の考えです。公演期間中に「演出上伏せるべき物語の展開」まで書いてしまうのは、これから観劇する観客のサプライズを奪うことになります。これは作品への批評とは別に、これからの観客に対してアンフェアではないでしょうか。ラストシーンの詳細を書かずとも、批評は可能なはずです。詳細を書くのが必須とお考えなら、わずか1日待てば公演は終了したのですから、それが待てなかったのかというのが私の主張です。
サプライズを伏せるというのは非常に重要なことです。顕著な例ですが、ミステリーの書評なら犯人やトリックは絶対に伏せるはずです。書評は批評ですが、必ずしも細部を書いていいというわけではないでしょう。それと同じだと思います。
> (そもそも、「ネタバレ」のない劇評というのは、果たして、劇評なのでしょうか)
特別なサプライズがない作品も多数あります。その場合は、詳細を伝えることになんの問題もないでしょう。今回の『脈拍のリズム』は、ラストシーンに大きなサプライズがあったために、配慮が必要だと考えたわけです。作品内容によって接し方は異なるべきで、一般論では語れないと思います。
繰り返しになりますが、山関さんが「舞台の内容について詳細に言及している場合もある」こと自体を批判しているのではありません。(1)サプライズがある作品の劇評を、(2)公演期間中に掲載した行為を批判しているのです。(1)と(2)が重なった場合に問題だと言っているのです。たった1日をなぜ待てなかったのかと批判しているのです。逆に、公演終了後に詳細に言及しない劇評があったとしたら、そのほうがおかしいと思います。
> 「ネタバレ」の「ネタ」について、お訊ねしたのは、舞台表現に対して「ネタ」と呼ぶのに抵抗があるからです。私にとっては、語感に対する感性と、嗜好性の問題になります。
「ネタバレ」は一般的に使われる言葉なので用いましたが、「演出上伏せるべき物語の展開」の意味で使ったのはご理解いただけたと思います。
「YOMIURI ONLINE」の劇評については、「演出上伏せるべき物語の展開」まで書いているものがあればご指摘ください。
オンライン劇評におけるネタバレ
なにがネタバレかという議論は先月も「えんげきのぺーじ」でありましたが、ユニークポイント『脈拍のリズム』について、山関英人氏が公演期間中に「Wonderland」に書かれた劇評に対し、私もコメントを重ねている最中です。実際に対象作品をご覧になっていないとわかりにく…
オンライン劇評におけるネタバレ
オンライン劇評におけるネタバレとユニークポイント 『脈拍のリズム』を拝見しました。
>むしろ、「ネタバレ」のない劇評こそ、「ネタバレなし」と表記すべき
このご意見、逆説的ですが、個人的にたいへん納得いきました。
ですが、芝居を見終わってから書く劇評…
ご意見、ありがとうございます。
> 劇評が批評であるというのは当然ですが、公演期間中に掲載する場合は配慮が必要だというのが私の考えです。公演期間中に「演出上伏せるべき物語の展開」まで書いてしまうのは、これから観劇する観客のサプライズを奪うことになります。これは作品への批評とは別に、これからの観客に対してアンフェアではないでしょうか。ラストシーンの詳細を書かずとも、批評は可能なはずです。詳細を書くのが必須とお考えなら、わずか1日待てば公演は終了したのですから、それが待てなかったのかというのが私の主張です。
この場合も、劇評に対する認識と同じです。
普段から、劇評は舞台の内容について詳細に言及している場合もある、「サプライズ」で云えば、詳細な内容の記述がない場合でも興ざめする可能性が捨て切れないので、公演期間中で観劇前は、その点を承知の上で、読むのか読まないのかを選択するだけというのが、劇評との接し方ではないか、と(無意識に)考えていました。
「ネタバレ」の表記が必要かどうかは、想定外でした。
> サプライズを伏せるというのは非常に重要なことです。顕著な例ですが、ミステリーの書評なら犯人やトリックは絶対に伏せるはずです。書評は批評ですが、必ずしも細部を書いていいというわけではないでしょう。それと同じだと思います。
「顕著な例」を引き合いに出して、同列に論じるのは疑問です。
> 特別なサプライズがない作品も多数あります。その場合は、詳細を伝えることになんの問題もないでしょう。今回の『脈拍のリズム』は、ラストシーンに大きなサプライズがあったために、配慮が必要だと考えたわけです。作品内容によって接し方は異なるべきで、一般論では語れないと思います。
一般論かどうか、という話からは逸脱しますが、言及したい点があります。
私自身、今回の場合は、「ラストシーンに大きなサプライズがあった」とは考えませんでした。突如、被害者になった人間の、感情を持て余す姿に圧倒され続けたからです。
最後の場面では、物語の展開上、表現された通りでよかったのかどうか、その点に疑問が残りました。それを解消するには、あり得たかもしれない結末を創出することでした。ところが、これはうまくいきませんでした。このままでは劇評を書き終えられないのではないか、と悩んだ末に閃いたのは、物語の筋道に合わせて、頭の中にある思考の断片を押し出すようにして先に進むことでした。そうすれば、何かが立ち現れるだろう、という予測でした。最近、念頭にあるのは、分析のある批評でしたので、この方向性にも合っていました。
ここまで詳述したのは、「ラストシーンの詳細を書かずとも、批評は可能」という次元とは違う発想から、批評を展開したということを明らかにしたかったからです。
話を戻します。
今回、「ラストシーンに大きなサプライズがあった」というふうに受け取りませんでしたので、「ネタバレ」の表記は不要、と結論づけることも可能だと思います。
ただ、それでは(当初の予想通り)議論は平行線になるだけですから、今後の対応として(荻野さんのご指摘は真摯に受け止める想いでいますが)、公演期間中で観劇前はどのように劇評に接するのか(そもそも観客は劇評をどう受容しているのか)について、他の方の意見をひとりでも多く、積極的に訊いてみるつもりでいます。その上で(確信が得られれば)善後策を取る予定です。不確定要素が多い、というのが(これまでの議論を踏まえての)劇評の接し方に対する私の現状認識です。
あの、なにか話が非常にまどろっこしく感じるんですが。
要は公演が終了してからアップロードすれば何の問題も無かったと思うんですが、そこはどうなんですか?
すみません、少々読み込み不足でしたが
荻野さんの「公演終了まで待てなかったのか」という問いに対しては
「(読み手の方が)読むか読まないかの選択をするだけ」
というのが山関さんのお答えのようですね。
これはおそらく習慣の問題だと思うのですが、公開中の映画や上演中の演劇等については「ネタバレしないよう配慮すべき」というのが暗黙の了解(それが正しいかどうかは別にして)になっているように思います。
少なくとも、それを「暗黙の了解」として期待している読者は多いだろうと思います。
現実には新聞の映画評、演劇評などでも重要なシーンやプロットを必要以上に具体的に記述してあったりして、不快に思うことも多々ありますが。
山関さんの
>「ネタバレ」の表記が必要かどうかは、想定外でした。
における「想定外」というのが単に「思いつかなかった」という意味なら今後は留意してくだされば問題ないと思いますが、
もし「そういうことを考える必要があるとは思わなかった」という意味なら、そもそも何のために批評を書いて発表するのか、という根本的な動機の部分に疑問を感じます。
山関さんは、この作品のラストシーンに特別なサプライズはなかったとのお立場ですので、私とは平行線のままだと思います。私は明確なサプライズがあったとの立場で述べています。「顕著な例」もわざわざ引き合いに出したのではなく、『脈拍のリズム』はそれに匹敵するサプライズがあったと感じたので書きました。
私は、公演期間中の劇評はレビューであると同時にプレビューを兼ねると考えます。徳永さんも指摘されていますが、「読むのか読まないのかを選択するだけというのが、劇評との接し方ではないか」というのは、プレビューとしての役割を放棄しているように感じます。公演期間中の劇評がレビューに徹するだけでいいのでしょうか。演劇ジャーナリズムの役割を改めて考えます。
ご意見、ありがとうございました。
書き込みがあってから、毎日、読んでいましたが、そのたびに腑に落ちない感覚を抱きます。
〈公開中の映画や上演中の演劇等については「ネタバレしないよう配慮すべき」というのが暗黙の了解(それが正しいかどうかは別にして)になっているように思います。少なくとも、それを「暗黙の了解」として期待している読者は多いだろうと思います〉
にもかかわらず、
〈現実には新聞の映画評、演劇評などでも重要なシーンやプロットを必要以上に具体的に記述してあったりして、不快に思うことも多々あります>
「暗黙の了解」があるのに「不快に思うことも多々」あるのは、結局、「暗黙の了解」になっていないからではないか、という気がしています。
もう一度、話を戻します。
なぜ、「ネタバレしないよう配慮すべき」というのが「暗黙の了解」になっているのか。
なぜ、「それを暗黙の了解として期待している読者は多い」と云えるのか。
これらが明確ではありません。
ただ、以上の疑問について、例えば、具体的に数字を上げて説明するのは不可能ではないでしょうか(可能だったら、すでにそうされていたと想うからです)。
ですので、私は、前回の書き込みで、「公演期間中で観劇前はどのように劇評に接するのか(そもそも観客は劇評をどう受容しているのか)について、他の方の意見をひとりでも多く、積極的に訊いてみるつもりでいます」と記述しました。
公演中で観劇前に劇評を読むことについては、疑問があります。その点は(先週から来週にかけて自由になる時間がほとんどありませんので)次回以降に書きたいと想っています。
わざわざ新聞の例を挙げたのは、いくらなんでも新聞でネタバレはまずい、というのは共通認識だろうと思ったからです。
新聞は買ったor届いたその日のうちに読むことが前提ですよね。「ネタバレが嫌な人は読まなきゃいい」みたいな理屈は成り立たないでしょう。ネタバレへの配慮が「暗黙の了解」になってくれていないと困るのです。
対してネットの場合は、新聞と違って読むタイミングを自由に選択できますから、「暗黙の了解」が新聞ほど明確でないというのはわかります。
ただ、数字による裏づけをしなかったのは、そこはあまり議論の余地がないだろうと思ったからで、やろうと思えばそれほど難しくはないと思いますよ。「ネタバレあり」「ネタバレ注意」といった表記の具体例はたくさん挙げられますし、一定の条件で検索して統計的に示すことも可能でしょう。
もっともいくら数字を挙げたところで、解釈の仕方次第で否定したり反証したりすることも可能かもしれませんし、僕としてはそこを突き詰めて議論したい気持ちはありません。
繰り返しになりますが、
ちょっとした配慮で読み手にとってより受け入れられやすいものになることがほぼ確実なのに、敢えてそれをしないという選択が、書き手のどういう意志によるものなのかがわからないのです。「配慮しない」ことのメリットが何かあるんでしょうか?
荻野さんの言うようにプレビューとしての役割を放棄していいのか、という問題もありますし、放棄するならするでなぜアップロードを公演期間終了まで待てない?という最初の疑問に戻ってしまいます。
ご意見、ありがとうございました。
書き込みが遅くなって、恐縮です。
>わざわざ新聞の例を挙げたのは、いくらなんでも新聞でネタバレはまずい、というのは共通認識だろうと思ったからです。
> 新聞は買ったor届いたその日のうちに読むことが前提ですよね。「ネタバレが嫌な人は読まなきゃいい」みたいな理屈は成り立たないでしょう。ネタバレへの配慮が「暗黙の了解」になってくれていないと困るのです。
> 対してネットの場合は、新聞と違って読むタイミングを自由に選択できますから、「暗黙の了解」が新聞ほど明確でないというのはわかります。
新聞も読むタイミングを自由に選択できないのでしょうか。私は普段からそうしてますが。。。
ですので、「ネタバレが嫌な人は読まなきゃいい」という発想がどうやったら、想い浮かぶのか、不思議です。
> ただ、数字による裏づけをしなかったのは、そこはあまり議論の余地がないだろうと思ったからで、やろうと思えばそれほど難しくはないと思いますよ。「ネタバレあり」「ネタバレ注意」といった表記の具体例はたくさん挙げられますし、一定の条件で検索して統計的に示すことも可能でしょう。
> もっともいくら数字を挙げたところで、解釈の仕方次第で否定したり反証したりすることも可能かもしれませんし、僕としてはそこを突き詰めて議論したい気持ちはありません。
結局のところ、「暗黙の了解」はあるのでしょうか。
「暗黙の了解」があって、「配慮」が必要になる、ようですから、その点をまず、具体的に明示してください。
数字による裏付けについて言及されていましたが、気になったのは総数についてです。どう確定されるのでしょうか。
つまり、「たくさん」というのは、総数がわからないとはっきりしません。
例えば、10,000という数字があって、12,000が総数であれば、「たくさん」と云えるでしょうが、12,000,000が総数であれば、「たくさん」とは云えません。
また、「暗黙の了解」があるのを調べるのに(徳永さんがおっしゃられる)「ネタバレあり」の表記がないものについても、その対象にする必要があります。表記がない「劇評」に、「ネタバレ」がないことがはっきりしてこそ、「暗黙の了解」を守っている、と考えられるからです。
そうなると、「ネタバレ」とは何か、ということの検討も必要になるでしょう。
果たして、数字による裏づけは可能なのでしょうか。
> 荻野さんの言うようにプレビューとしての役割を放棄していいのか、という問題もありま
すし、放棄するならするでなぜアップロードを公演期間終了まで待てない?という最初の
疑問に戻ってしまいます。
まず、プレビューの正確な意味を教えてください。広辞苑(第五版)に「映画・演劇の公開に先立つ試写・試演」とあって、私も普段、その意味でしか使っていません。
アップロード自体について、公演期間中ですでに観劇した人もいるわけですから、いつしようと問題はないと考えます。
くり返しますが、現時点での私自身の考えは、「公演期間中で観劇前はどのように劇評に接するのか(そもそも観客は劇評をどう受容しているのか)について、他の方の意見をひとりでも多く、積極的に訊いてみるつもりでいます」ということに尽きます。
それは、「暗黙の了解」があるのかないのか(現時点では)わからないということと、「ネタバレ」に対して表記上の問題があるからです。
前回の書き込みで、「公演中で観劇前に劇評を読むことについては、疑問があります」と書きました。今週も時間がありませんので、日を改めて記述します。
>新聞も読むタイミングを自由に選択できないのでしょうか。私は普段からそうしてますが。。。
読まずに取っておいて後日読むわけですか。それは想定外でした。まあそこは本題とはあまり関係ありませんので。
>ですので、「ネタバレが嫌な人は読まなきゃいい」という発想がどうやったら、想い浮かぶのか、不思議です。
ここはちょっと意味がわかりません。私自身はそういう発想が「成り立たないでしょう」と主張したのですから、自分では思い浮びませんよ。
山関さんの場合、読むタイミングを選択されるということですから、記事を目にした時点では読まないわけですよね?つまり「読まなきゃいい」ということを主張されたのだと解釈してました。
>「暗黙の了解」があって、「配慮」が必要になる、ようですから、
違います。「暗黙の了解」の存在が明確でなくても配慮はした方がいいだろう(もしくは「敢えてしない理由がよくわからない」)という意見です。
>つまり、「たくさん」というのは、総数がわからないとはっきりしません。
サンプル中の比率を調べればいいのであって、総数は必要ありません。これは統計学の初歩的な部分です。
>また、「暗黙の了解」があるのを調べるのに(徳永さんがおっしゃられる)「ネタバレあり」の表記がないものについても、その対象にする必要があります。表記がない「劇評」に、「ネタバレ」がないことがはっきりしてこそ、「暗黙の了解」を守っている、と考えられるからです。
>そうなると、「ネタバレ」とは何か、ということの検討も必要になるでしょう。
これはそうでしょうね。難しいとすればそういった部分です。逆に、一定の基準さえ決めてしまえば統計的な判断を下すことはさほど難しくないだろう、というのが前コメントで主張したことです。
>まず、プレビューの正確な意味を教えてください。広辞苑(第五版)に「映画・演劇の公開に先立つ試写・試演」とあって、私も普段、その意味でしか使っていません。
これは用語の使い方が適切でなかったようです。失礼しました。強いて言えば一種の「下見」でしょうか(previewにはそういう訳語がありました)。要は「まだ観てない人に向けた、主に興味を持たせ観ることを促すことを目的とするレビュー」ということです。
>アップロード自体について、公演期間中ですでに観劇した人もいるわけですから、いつしようと問題はないと考えます。
ですから、公演終了まで待っても問題ないですよね。
>くり返しますが、現時点での私自身の考えは、「公演期間中で観劇前はどのように劇評に接するのか(そもそも観客は劇評をどう受容しているのか)について、他の方の意見をひとりでも多く、積極的に訊いてみるつもりでいます」ということに尽きます。
それは繰り返さなくてもわかりますが。。。その部分は理解してますし否定しません。ですが、私の興味はそこにはないので別の話をしています。
私の疑問はもう繰り返しませんよ(さすがに3回目は失礼だと思いますので)。山関さんの方も、そこには興味がないということでしたら、「お互い様」ということですね。
どうも改行がうまく反映されませんね。読みにくくてすみません。
媒体の発行日と読者が読むタイミングですが、読者には読むタイミングを選択する自由があるというのはそのとおりでしょう。しかしそれは読者の側の自由であって、書き手の側がそうした読者ばかりだと考えるのは、いかがかと思います。当然ながら、発行日に目を通す読者もいるでしょう。書き手としては、発行日に読まれることを意識して記事を書くべきではないかというのが私の主張です。その中には、これからその作品を観ようとする読者も含まれているでしょう。
Webの場合はアップロードした日が発行日です。山関さんもジャーナリストとして、媒体の発行日を意識して仕事されていると思います。繰り返しになりますが、『脈拍のリズム』終演日を意識してアップロードすべきだったと思います。
他の方のご意見を訊かれたいとのことですが、当サイトを主宰されている共同通信ご出身の北嶋孝さんは、この件についてジャーナリストとしてどうお考えでしょうか。私もぜひ伺いたいと思います。
プレビューという言葉ですが、私は紹介記事の意味で用いました。雑誌などで一般的に使われる用法です。プレビューには予告編の意味がありますので、そこから転じて使われるようになったのだと思います。
続・オンライン劇評におけるネタバレ
昨年9月から始まった、「Wonderland」におけるユニークポイント『脈拍のリズム』での劇評のあり方に関するコメントは平行線のまま進み、11月19日に私が同サイトを主宰する北嶋孝氏への質問を投げたところでストップ…
小劇場演劇の支援サイトfringeに、ぼくの名前が出ていると知り合いから教えられました(http://fringe.jp/blog/archi…)。読んでみると、ユニークポイント公演評をめぐって交わされた、いわゆる「ネタバレ」に関連する問いかけでした。突然の指名で驚きましたが、あまり期待されているように答えられそうもありません。
コメントの遣り取りはもちろん読んでいましたが、ぼくは「ネタバレ」の一般的な是非を問うよりも、個別具体的な劇評の中身に立ち入って議論する方に興味がありました。fringe主宰の荻野さんへの私信で「推移を見守っている」と書いたのは、「行司役として割ってはいる」つもりではなく、公演の中身に議論がカジを切り直したら参加するきっかけになるかもしれないと考えていたからです。ぼくなりの『脈拍のリズム』公演評は別にまとめました(http://www.wonderlands.jp/i…)。ご興味があれば目を通していただきたいと思いますが、結末のありようを問う形にはなっていません。そのかなり手前でとどまってしまいました。
荻野さんは先のfringe サイトで「プレビューとレビューに対するジャーナリズムの考え方をはっきりさせたい」と書かれていますが、ぼくは「マスメディア」から抜けてだいぶ経ちました。この小さなサイトを始めたからといって、自分が「ジャーナリスト」や「ジャーナリズム」に属しているとも考えていません。もともと「ジャーナリスト」「ジャーナリズム」という語感になじめなかったためか、「ジャーナリズムはどうあるべきなのか」という直球の問いかけには戸惑い気味です。その答えを用意するとしたら、ぼくよりも振りの鋭い現役の演劇記者の方々が適任ではないでしょうか。
このサイトは演劇情報を集約するつもりもありませんし、劇団交流の場を提供できるはずもありません。演劇体験を重ねている人たちと一緒に、舞台を手がかりに「いま」を考えるヒントを少しでも形に出来ないかと思って始めたからです。これからもご指摘、ご批判をいただきたいと思います。
Wonderlandの記事はよく拝見させていただいております。私の感想文もご紹介くださって感謝しております。
ネタバレを含む劇評が公演期間中にアップされる可能性があるのならば、Wonderlandのサイト方針としてそういう記述をされてはいかがでしょうか?「このサイトについて 」の中に「記事はネタバレしていることがあります」という意味のことが一言あれば、読者からのクレームもないのではないかと思います。
劇評にネタバレ表記があるべきかどうか、という議論に参加するつもりはありません。ウェブサイトとしてどういう姿勢をとっているかを明記することが大事だという意見です。
私は自分が観に行くと決めている作品の劇評は、観に行った後にしか読まないようにしています(たとえネタバレしていなくとも)。個人的には公演中のネタバレ表記は必ずして欲しいし、自分もしようと思っている人間です。なぜなら観に行こうかどうか迷っている作品については、先に観た方の感想を参考にするからです。その時は「ネタバレ」以降を読まないようにしています。ネタバレ表記がない劇評を最後まで読んで、それがネタバレしていた時は・・・がっかりします(苦笑)。
「しのぶ」さま
早々のコメント、恐れ入ります。
こちらこそいつもお世話になりっぱなしで、そのうち盛大にお返しをと願っています。
さて、「ネタバレ注意の一言が必要」とのご指摘、ありがとうございます。実はここでの遣り取りを読んで、次のような注意書きを「続・劇評サイトwonderland について」に載せています。目を通していただけた幸いです。
http://www.wonderlands.jp/i…
——-引用開始
(4)
書く内容や掲載のタイミングなどは、ほとんど書き手の自主性に任されています。編集の枠組みはできるだけゆるく、多様な見方が対象公演を多角的に照らし出せるようにしたいと考えています。ですから複数の書き手の、見方の異なるレビューが載る場合もあります。このサイトに載ったレビューを手がかりに、さまざまな「見方」「感じ方」「考え方」の筋道を見つけてもらえたら幸いです。従ってレビューの中で、筋書きを明かす場合もあり得ます。特に断りがなくとも、観劇前に読む方はご注意ください。
——-引用終了
このサイトは自動的に情報を届けるpushタイプとは違って、ユーザーが自分の意思でアクセスするpullタイプのページです。公演情報に最適化されているわけでもなく、直近の観劇材料を提供することを目的にもしていません。「さまざまな「見方」「感じ方」「考え方」の筋道を見つけてほしい」と願って運営を続けています。「しのぶ」さんの見方、考え方を紹介させていただいたのも、その趣旨に沿って努力したつもりです。ご理解いただけたら幸いです。