未来社のPR誌『未来』の2005年9月号が、舞台芸術関連の記事を二本載せている。そこから、このあいだの『ユリイカ』「小劇場」特集、についても触れつつ、劇と劇場、の概念についてちょっと考えてみたい。
まずは、『未来』の2005年9月号から見てみよう(ちなみに、大きめの書店や人文書に力を入れている書店などでは、『未来』を無料で配布している場合もある。公立図書館などに所蔵している場合もある)。
ハンス=ティース・レーマン氏による著書『ポストドラマ演劇』への書評として書かれた横山義志氏の「演劇の低俗さについて」は、それ自身独立した論考としても読める。横山氏は、件の邦訳でも「演劇」と訳されている “theater” という語が「劇場」も意味するものであることに触れつつ、ギリシャ語の語源にも遡りながら、歌や踊りを排除した「演劇」が成立した系譜を解きほぐし、身体を見る経験の場としての「シアター」を捉えなおそうとしている。
もうひとつは、岩崎稔氏による、「コレオグラーフ、ウヴェ・ショルツの死」で、普通なら振付家と訳される“choreographer”という語を、ギリシャ語の語源にも遡りながら、コロスの配置によって創作する芸術家と捉えなおし、その演劇的力を原初へのまなざしにおいて再評価することから語り起こして、日本には十分に紹介されてはいない(私も不勉強ながら知らなかった)ウヴェ・ショルツという芸術家の生涯を簡潔に描いている。
ともかく、すでに日本に定着している、劇、演劇、劇場、といった語がそのような訳語として用いられ定着したいきさつを見直すところから始めないと、日本では「小劇場」とか「コンテンポラリーダンス」とかいった言葉で語られてもいる舞台芸術の今日性を捉えそこなうことになりかねないという問題設定が、ここから浮かび上がってくるようだ。
そこで思い起こすのは『ユリイカ』2005年7月号の「小劇場」特集のこと。
たとえば「この劇団がすごい’05 」としてまとめられているコーナーでは、ダンスカンパニーやダンサーも紹介されていたりした。この一見でたらめな「劇団」という言葉の乱用を見て、「劇団手塚夏子」とか言って笑ってすましているだけはもったいないだろう。
ちょっと立ち止まって考えてみれば、この誌面構成は、本来ならば「小劇場」とか「劇団」という言葉で括れなかったはずの事柄をそこに投げ込み、あえてカテゴリーを誤用し、概念をきしませてみせることで、舞台をめぐる言葉が、日本の舞台芸術の動向に追いついていない現状を、そのまま露呈するパフォーマンスになっていた、と言えるのかもしれない。
(05/11/20削除訂正,06/03/06一部訂正)
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