平田オリザの『S高原から』という戯曲(とその上演)を原作として、4人の若手演劇作家がそれぞれに上演を行うという企画だった『ニセS高原から』について。
2005年の8/28から9/27の間連続上演された、というわけで、今更書くのはずいぶん遅れてしまったのけど、個人的な覚書をここにちょっと書いておこうと思います。
『ニセS高原から』を見て改めて思ったのは、「脚色」と「演出」との微妙な関係です。
「脚色」と言うと、本来、事実や小説を戯曲化するといった意味ですが、既にある物語やドラマ、戯曲を、舞台にのせるため、つまり、演出されるものとして、加工する作業を、広い意味で脚色と言ってしまうことにします。
結論としては、三条会以外の劇団は、平田戯曲に様々に手を加えたものを上演テクストに用いていたわけですが、その「脚色」作業が「演出」作業と連続したものになっている。当たり前のことのようですが、それが当たり前になっている点に、日本の演劇の現状もまたあらわれているだろうな、と思います。
今回の企画の特徴として、舞台美術は同一でありながら、上演される作品はそれぞれ違う、そういう連続上演だった、という点が上げられると思います。
私はこの文章を書いている時点で平田オリジナル版は結局見ていないのですが皆川知子さんの指摘http://www.clp.natsu.gs/20051001000649.htmlによると、ニセS連続上演で使われた舞台美術は平田版と同じものだったようです。
アゴラ劇場の手すりを一部分だけ白く塗りわけたりしつつ、劇場そのものの空間や劇場に備え付けの階段などの設備が、舞台上の装置と連続して、空間そのものが舞台となるサナトリウムの建物であるかのように見せる、巧みな空間構成でした。
そこには、梢の葉が陽光を透かせて輝く様子を大きく引き伸ばした写真が飾られています。
この写真は、サナトリウムの空間に飾られているものでもあり、かつ、「S高原」周辺のイメージを表す装置にもなっており、どこかの現実を切り取った「写真」が虚構の空間再現と、その虚構のイメージの裏支えという二重の仕方で虚構の舞台を枠付けていることになります。
そもそも、現実感を醸しだすような装置でありながら、ある程度の抽象化もなされている。そういう卓抜な舞台美術の設計があったからこそ、複数の舞台作品が同一の空間で上演できたのだ、と言えるでしょう。
これは、複数の舞台作品を日替わりで(場合によっては別作品2ステージを同じ日に)上演するというタイトなスケジュールの企画を成功させる上で大きな前提条件となっていたはずです。
今回の「ニセS」も、アゴラ劇場が文化庁から潤沢な資金援助を得ているからこそ可能だった、という点もあるでしょうが、それにしても、一ヶ月間に公演期間を収めなければ、ペイしなかったというわけでしょう。なるべく多くの観客が4公演見られるような配慮もあったかもしれません。ともかく、「ニセS」が一ヶ月の上演期間で日替わり入れ替わりのスケジュールだったというところに、今の東京の演劇シーンの豊かさも貧しさも反映されていると言えそうです。
話を戻すと、あの舞台美術だったからこそ、基本的にリアリスティックだった蜻蛉玉、五反田団、ポツドールの三劇団と、日常的な空間のリアリティとは無縁な、ある意味抽象的な演劇空間を現出させた三条会とが同じステージで上演されるという企画が成立したのだ、といえるでしょう。
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舞台芸術というと思い出す本があります。梅本洋一の『視線と劇場』なんですが、これは、舞台の視覚的な演出というか造形の面を捉えるセノグラフィーという言葉を日本に紹介しようとヨーロッパの舞台造形理論の歴史なんかをまとめてくれている本です。そこで梅本氏は、日本では作・演出を同じ人がかねるのが当たり前で、演出固有の芸術性みたいなものが十分理解されていない、と不満をぶちまけていました。刊行されたのは1987年とずいぶん前です。
今回のニセSの上演を見た後で思ったのは、梅本洋一的な不満というのは、今の演劇状況にたいしても基本的に変わらずにわきおこるものなのかなあということでした(今の梅本氏がどう思ってるかということとは別の、かつての問題設定が、問題として生きているかどうか、ということですが)。
今回の企画は、同じ戯曲を元にしているとは言っても、結局「演出」そのものが対比される仕方にはなっていませんでした。
三条会以外の舞台は、演出家自身が脚本に大きく手を加えていたからです。いわば原作戯曲を「脚色」した戯曲が、上演台本として作られていた、ということです。
松本和也さんによるポツドールのニセS高原からのレビューhttp://matsumoto.blog4.fc2.com/blog-entry-100.htmlでは、三浦大輔による原作の書き換えが平田オリザ作品が覆い隠しているものを露呈させると同時に、演出スタイルも書き換えられた戯曲に応じて平田演劇のスタイルとは別の位相において展開されている、と論評されています。
ここで疑問に思うのは、果たして元となる戯曲に手を加えずに別の仕方の演出をすることはできなかったのだろうか、できなかったとしたら、それはなぜなのだろうか、という点です。
おそらく、言葉の言い回しや語尾などのニュアンスと、演技を織り成す仕草とは、切り離せないのもとしてとらえられている。その点で、三浦大輔、前田司郎、島林愛という三人の演劇作家は共通しているのではないか、と思われます。
この、言葉の細部と演技の細部が結びついたものとして構想されていて、劇作と演出が、演劇作品の創作、人物の造形や場面の造形そのものとして一体のものとして考えられているような演劇の捉え方、それが今現在の日本でどのように成り立っているのか。こういう問いは、そもそも「演劇」がどのように理解されているのかについて、十分に考えておくべきポイントではないでしょうか。
この、言葉の振る舞いと身体の振る舞いが切り離せないものとして演劇創造の単位となり素材となっているという事態は、「戯曲=文学の優位」という言葉では語れない事柄ではないかとも思います。演出の構想が、台本の段階ですでに含まれているのであるならば、それは単なる文学的な営為とはいえなくなる。
三条会の上演を「戯曲優位」への挑戦として評価する松本和也さんは、ポツドールの上演における「戯曲の改変」を、島田雅彦による漱石の書き換えになぞらえながら、肯定的に評価していますが、戯曲の改変とは単なる戯曲優位的態度とは別の次元に成り立つものということになるでしょうか。
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戯曲優位の批判、という論点そのものが、西洋の演劇を輸入するという日本の演劇の状況において、批評言語そのものも輸入された、という事情のもとにあると言えるかもしれない。
(こういう問題設定をしてしまうと大岡淳さんが演劇の言葉について考えていることも気になってくる。)
なんだか当たり前のような、言葉と仕草が演劇表現の単位として切り離せないということが、欧米ではかならずしもそうでは無かったという事情と、それを輸入したはずの日本の演劇が、言葉と仕草の複合を単位とし続ける場所に収束していったという事実は、単に欧米に対して日本が遅れているという、輸入を前提にした見方で語っていてはもはや捉えられないのではないか、という気がする。
梅本洋一のかつての不満というのも、一面においては日本の演劇の制約を語っていただろうけれど、その反面、演劇の輸入を時代錯誤的に繰り返していただけとも言えなく無いように思うわけである。
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この点で、今回、三条会と他の三劇団が同じ企画に参加しているのは、興味深くもあり、慎重にその文脈の違いを踏まえておく必要もある事態ではないかと思われる。
三条会の舞台が成り立ってきた文脈は、「利賀演出家コンクール」など、劇作家=演出家、ではないような演劇のあり方をもっと日本に定着させようとした流れの中にあるようです。
演出そのものの創造性を模索する道と、演出と脚色が渾然と一体化している演劇とが、これからどのように展開していくのか、ダンスと演劇との間の観客の動きといった事柄も含めて、注目したいところです。
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さて、私自身の感想は、私が管理している「はてなダイアリー 白鳥のめがね」に書きました。
五反田団については松本和也さんのレビューがあって、そこでこんなふうに語られていた。
そこから松本さんは、平田戯曲に対して「対立」的な構図を描かない五反田団の上演の「微妙さ」にいらだつように議論を進めていきます。松本さんとは逆に、ポツドールよりも五反田団の舞台を興味深くみた私としては、このあたり、もっと丁寧に自分の見方を提示しなければならないところなのだろう。
丁寧な応答にはならないのを承知で、性急にコメントを付しておきたい。
たとえば、のっけからだらだらと寝そべるようにしている様子などは、平田オリザの舞台にはあまり見られないディテールだったのではないだろうか。
おそらく、失われた痕跡を発見するというモチーフが、サナトリウムの床にある小さな隙間をほじくりかえす姿勢や仕草と直結していて、その仕草が場面として空間に広がる一方でその姿が時間に対する姿勢としてもあるという演劇的造形そのものが、平田作品への応答となっているのだろう。
(06/03/06 加筆、06/09/22 一部削除の上訂正)