青年団 『上野動物園再々々襲撃』

◎支え合いの青春群像劇 金杉忠男(97年死去)の『上野動物園再襲撃』を原作したこの舞台は、人を支え合うことの重要さを描いた希望溢れる作品であり、改めて群像劇の良さも示したものだった。 群像劇とはある問題に関係する人々の姿 … “青年団 『上野動物園再々々襲撃』” の続きを読む

◎支え合いの青春群像劇

金杉忠男(97年死去)の『上野動物園再襲撃』を原作したこの舞台は、人を支え合うことの重要さを描いた希望溢れる作品であり、改めて群像劇の良さも示したものだった。


群像劇とはある問題に関係する人々の姿を平等に描き出す人間模様の事である。むろん、現代口語演劇を標榜する平田オリザと青年団はこれまでにも同時多発的に発せられる台詞に代表される演劇スタイルは群像劇と呼ぶに相応しい舞台だったが、今回はそこに「青春物」の要素が付くことで、過去から現在に至る振幅の広さが個々の人間に備わり、人間同士の結束さがより強く表現されることになった。

喫茶店に集まる人達は葬義の帰りである。彼らは小学校の同級生であり、かつての仲間の葬義のために久しぶりに顔を合わせたのだ。昔の話に花を咲かせる内、思い出の『月の砂漠』と『とんとんともだち』を歌う。まず、この場面に私は強く惹かれた。一人が静かに、何気なく口ずさむと別の人間が後を引き継いでワンフレーズ歌う。その懐かしい歌は伝染するかのように人から人へと流れていき、最後は4人の同級生達が力強く、そして楽しそうに合唱する。歌は一挙に人をある時点に引き戻す不思議な効果をもたらす。一人で何気なく口ずさんでいる内はまだ「大人な自分」だが、人を巻き込んでいく内に次第に「子供だった自分」へと戻っていく。そのグラデーションは見事で、観客をかつてあっただろうそれぞれの懐かしの地点へと引き戻す。劇場全体が一つの親和空間に満たされた瞬間である。

平田の戯曲を読む限りにおいてはそのまま流し読みしてしまう、淡々とした台詞も、青年団の俳優達は、今現在の自分の事を語る時は日常的な演技、かつての思い出を語る時は時に誇張したギャグのような演技と緩急織り交ぜており、決して「静かさ」が際だってはいない。俳優は戯曲に従属するコマで良いとはっきり言い切る平田の俳優観に基づいた綿密な計算による演出意図が大いに発揮されている証拠である。近代劇的な平田の舞台創作はかねてより賛否両論様々な意見があるが、平田自身、我冠せずでこのスタイルを貫いてきたのは大きな自身があってのことだろう。確かに大人数をさばかねばならぬ群像劇には有効であると言える。

綿密な計算は戯曲にも施されている。途中、喫茶店にかつての仲間内のマドンナだった北本菊子(大崎由利子)がやってくる。懐かしそうに仲間と話す会話から彼女は現在、仙台に住んでいることが分かる。しかし、それは嘘で、岩井の臨海学校に行ったことも嘘だと後々発覚する。北本の存在はそれまでリアルな、極めて現実に則った時空間が形成されていた舞台を不安定なものへと変質させる。しかし、この不安定で奇妙な人物の存在は既に舞台の冒頭、喫茶店のバイト、香山早苗(安田まり子)と近所の人、中島(高橋緑)によって語られていた。葬義の後、火葬場へは誰でも行けるのかどうかという部分である。全く知らない人が火葬場へとやってきたが、実はその人は死んでいたという、作り話かもしれないことを中島は仄聞した話として語る。しかし、北村は彼らの同級生であったことは確かであり、なぜそういった嘘を付いたのかは定かではないが、舞台終盤、大学卒業後に亡くなった妹の弥生(荻野有里)が岩井の臨海学校の時に拾った貝殻で作られた首飾りを北村は受け取ることで救われる。つまり、死んだ妹からのメッセージとプレゼントにより、かつての思い出が証明され、北村はようやく現実に根付いた存在となるのである。

他に、吉田忠男(志賀廣太郎)と離婚した妻の間にできた娘、山下優子(木崎有紀子)が尋ねて来るシーンなど、過去の思い出と現在の状況が絶妙にシンクロして進む。そして、後半からラストにかけて物語は藤崎次郎(篠塚祥司)に重心が移行する。藤崎は癌に侵されており、余命を少しでも有意義に過ごすために中川義雄(猪股俊明)と共に染物教室にも通い始めた。この時点で、3つの死が存在することが分かる。すなわち過去(北村の妹)の死、現在(小学校の同級性)の死、そして近い将来(藤崎)に迎えることになる死である。我々が現在生きているのは、希望溢れる輝かしい未来があると信じればこそである。それは子供なら尚更だろう。しかし未来へと突き進むことは同時に着実に死を迎え入れることでもあるとうことを、具体的な死と背中合わせの人間を前にした時に思い至る。過去にも現在にも踏み留まって居られない現実に突き当たり、物語は仲間達と団結して過去の清算へ向け、突き進んでいく。

彼らはラクダ乗るため、上野動物園に忍び込む計画を立てる。それは小学校時代、学芸会の前に、ラクダに乗る気分を味わいたいと一度は実行に移したが失敗していたのであった。侵入前の練習で、騎馬のように男達によって組まれた2匹のラクダに北村と香山が乗る。頭には藤崎と中川が作った染物が、そして首には北村の妹から譲り受けた首飾りが掛けられる。2匹のラクダとそれに乗る女性達の姿は、この舞台における群像の完成形だ。砂漠を思い起こさせるオレンジ色の照明が輝く中、仲間同士支え合ったその凛とした風貌は、たとえ砂漠のような茫漠した未来であっても敢然と立ち向かい、確かな希望を見出そうとする決意のそれだ。北村は言う、「藤村! 死ぬなよ!」それに答える藤村、「うん!」。子供の頃に戻り、純真な気持ちで何度もそのやり取りが繰り返される。ここでもやはり歌われるのは『月の砂漠』である。感動的で涙を誘う場面であった。

行けども行けども希望も何もない、ただ広い一面が続くだけかもしれない。しかし、諦念せず能動的にそれを見出すそうとする人間がこの作品には存在する。舞台を観ながら思い出していたのは、かつて三谷幸喜が主宰した劇団「東京サンシャインボーイズ」(95年休団)の『東京サンシャインボーイズの「罠」』(94年)という作品であった。仲間の葬儀に集った元同級生が死者の想いを果たし、再度仲間の良さを発見するという構成は同じであったが、最後は三々五々、それぞれの生活へ「一人づつ」戻っていく。だが、『上野動物園再々々襲撃』の終わり方は、結束したラクダのまま終わる。個性ばかりが重視され、薄弱な関係性を強いられる現代において、青年団は、群や集団が人を救う方策であることをこの舞台で提示したのである。
(5月21日 AI・HALL マチネ)

(藤原央登・現在形の批評

[上演記録]
青年団 『上野動物園再々々襲撃』
AI・HALL (5月19日-21日)

【原作】金杉忠男
【脚本・構成・演出】平田オリザ

【出演】
足立誠
猪股俊明*
大崎由利子*
大塚洋
荻野友里
木崎友紀子
志賀廣太郎
篠塚祥司*
高橋縁
天明留理子
根本江理子
羽場睦子*
ひらたよーこ
松田弘子
安田まり子
山内健司
山村崇子
(*印は、旧金杉アソシエーツより参加)

【スタッフ】
舞台美術:杉山至×突貫屋
舞台監督:寅川英司×突貫屋
舞台監督助手:櫛田麻友美
照明:岩城保
衣裳:有賀千鶴
演出助手:工藤千夏
宣伝イラスト:マタキサキコ
宣伝美術:太田裕子
制作:松尾洋一郎、斉藤由夏、佐藤誠
協力:(有)あるく、(有)レトル

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください