77年企画(ごまのはえ×竹内佑×山口茜)「マリコの悪縁教室」

 ◎「執拗なヘビ年」(高木龍尋)  1977年生まれの小劇場演劇人が集まって芝居をする……どうなるのか? かく言う私も1977年生まれである。  作品について言う前に、少しばかり1977年生まれの思いというか、愚痴を申し … “77年企画(ごまのはえ×竹内佑×山口茜)「マリコの悪縁教室」” の続きを読む

 ◎「執拗なヘビ年」(高木龍尋)

 1977年生まれの小劇場演劇人が集まって芝居をする……どうなるのか? かく言う私も1977年生まれである。
 作品について言う前に、少しばかり1977年生まれの思いというか、愚痴を申しあげたい。1977(昭和52)年に生まれたのは大変ビミョーなことである。一見、ラッキー7のゾロ目、おめでたいようでありながら、これがちっともおめでたくない。第二次ベビーブームから少し遅れ、ドラえもん放送開始より一年先んじて、五輪やW杯もなく、閏年でもなかった年に生まれたことの最大のビミョーさは、旧カリキュラム最後の学年、ということであった。

 私たち、正確に言えば1977年度生まれと、1978年度生まれの間には大きな溝がある。まず、男子高校生の家庭科。私たちはやっていない。女子の家庭科の裏で体育だった。しかし、1978年度生まれから家庭科は男女必須科目となり、男子校や女子のほとんどいない工業高校などにも家庭科室が増設され、踏み入れることのない教室が出来てゆくのを、関係ないわ、と見ていた人がいるのも私たちの学年である。そして、英語はReaderとGrammarの2つだと決まっていた。が、その後に出現した英語O。訝しんで訊いてみると、Oral communicationとのこと。そうなんだ、と言うよりなかった。そして、日本史や世界史は通史として習うわけではなく、前半・後半でA・Bに分かれていて、場合によってはどちらかだけでもよいらしい。
 高校を卒業してのち、教育実習で再度高校を訪れたとき、クラスの時間割表を見て私は呆然とした。私の高校時代に中途半端に導入された週休2日制も最早当たり前のことになっている。私たちが思春期だった頃の思い出話は、下の世代には部分的に通じなくなっているのだ、この歳にして。そして、高校や大学を卒業した頃には就職超氷河期。ツキもない。過去も未来も消されたような状態にあり、しかも三十路寸前というビミョーな年齢となっても、忘れてはならないことがある。私たちは執念深いヘビ年なのだ。

 さて、前置きが長くなりすぎたかも知れないが、作品について始めよう。
 マリコは平凡な女だが、その恋人は冷徹なオニである。マリコは恋人のオニに殺されてしまう。しかし、マリコは殺された記憶を失って生き続け、内面が外に溢れ出した輪郭のはっきりしないデブになっている。そして、人生にはユーモアが大切、と人びとにユーモアを与える会社で働いている。また、マリコの父は、人生に必要なのはテンションだ、と教える。ユーモアとテンションを両手に仕事に励む中、マリコはオニのマリコと出会う。オニのマリコはマリコの内面のマリコ。オニのマリコが憶えていることをマリコは憶えていない。と、ふたりのマリコの前に父がまた現れ、人生に必要なことに、忘れること、をつけ加える。そして、ふたりのマリコは憶えていることと憶えていないことがあることを憶えていることを忘れるため、伊勢神宮につくられた嘆きの壁に向かう。この嘆きの壁にふれて祈ると何もかも忘れてしまうという。時代は忘れたい人だらけ、嘆きの壁には人びとが殺到、嘆きの壁のある伊勢神宮を抱える三重県は実質的に日本から独立し、三重県愛と三重県知識を試す入国審査を行っていた。その審査に通過しない者はみなミンチにするという。審査に落ちたマリコはミンチになることを拒み、生きていたいと主張する。すると、さまざまに分裂していたマリコが集まりだし、マリコの内面はとめどのない肥大化を始める。オニのマリコはその中に入るのを嫌がり、マリコはオニのマリコに説得しようと語りかけるが、そのやり取りの中で徐々に憶えていないことを思い出してゆく。実は、マリコは殺されたのではなく、マリコが恋人を殺したのだ。オニのマリコはそれを知っていて、マリコの肥大化を抑えようとしたのだった。しかし、マリコは事実を思い出して消滅し、あとに残ったオニのマリコは、生きて人とかかわらなければ、と笑う。

 このようなところが作品の大体の筋だと思われる。だが、舞台を観ていて、筋を辿る作業はとても困難だったのではないかと思う。というのも、作品の中には多量の伏線が置かれているのだが、それと同時に執拗なまでのギャグで埋めつくされているからだ。
 伊勢神宮―嘆きの壁―三重県という件も、三重県と伊勢神宮とエルサレムと神道とイスラム教とユダヤ教をどこまで虚仮にしているのだろう、と思う。しかし、何事も忘れてしまうことが出来るというのはやはり魅力的なことであり、そこに人が殺到するというのも納得の出来る現実の映し方なのだろう。ただし、それにしても、ギャグ、下ネタは数限りない。現実はマリコの記憶とともに消し飛んでしまうが、その前にあまりに多すぎるギャグのために忘れてしまいそうである。この危うさが狙いのひとつなのではないかという気もするが、多く理解される作品かと訊かれると、どうも疑問である。

 この作品はトリコ・A・プロデュースの山口茜が原作、ニットキャップシアターのごまのはえが脚本、デス電所の竹内佑が演出を担当した。舞台の作品に先行してラジオドラマも制作され、こちらは台本を竹内が担当した。山口の小説がまずストーリーの核となっているのであろうが、それを脚本にし、演出し、という過程でそれぞれ表現者、そして創作者としての目立ちたがりが顔を出した結果が、この作品の狙いと危うさだったのではないかと思う。まして、この3人は主役ではないものの、役者として舞台の上に立っている。3人が企画や稽古の段階で、相当な衝突があったのではないかと想像に難くない。登場人物、あるいは人間という存在が持っている危うさが、内幕の危うさにも載っかって出てきていたのかも知れない。

 執拗に自己の内面、執拗にギャグ、執拗にシニカル、執拗にシュール、執拗に曖昧……おそらくこの3人、というべきか、この作品に参加した人たちの執拗さはハンパではないだろう。その執拗さを好む人と好まざる人の反応の差は大きいかもしれない。その執拗さも、舞台の上には登場する役者の人数分、あるいは登場人物の数だけあり、その種類もさまざま。受け入れられる執拗さと、受け入れられない執拗さが混在し、個々の観客の評価を上げもし下げもしている。言い方を変えれば、スリリングと言えるのかも知れない。しかし、作品の中に仕組まれたスリルよりも、作品が成立するのかどうか、芝居になっているのかどうかスリリングなのである。マリコが分裂していたように、作品も分裂気味。その統合と記憶を取り戻したことで一応の着地点を得たからこそ、ひとつの作品として成立したのであろうが、それを多くの観客が認めるかどうかは難しい。

 「マリコの悪縁教室」に起こった衝突と分裂は、コラボレーションという企画には当然としてあり得ることだと思う。まして、今回集まったのは執拗なるヘビ年である。舞台に上げるぞ、という執拗さもあったのかも知れないが……。
(高木龍尋 大阪芸術大学大学院芸術研究科助手 6月20日観劇)

[上演記録]
ごまのはえ×竹内佑×山口茜「77年企画」公演「マリコの悪縁教室」
精華小劇場(6月18日-25日)

□原作:山口茜
□脚本:ごまのはえ
□演出:竹内佑

□出演
奥田ワレタ、黒木陽子(劇団衛星)、筒井加寿子
豊田真吾(デス電所)、山村涼子(デス電所)

岩田由紀、大木湖南(ニットキャップシアター)
高原綾子(ニットキャップシアター)、千葉哲茂(尼崎ロマンポルノ)
宮部純子、安田一平(ニットキャップシアター)


投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

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