維新派「ナツノトビラ」

◎自然への親和力喪う芸術作品に 果てしない世界を覗く無垢な感覚を

 今年の維新派公演は昨年メキシコ・グアナファトで開催された「セルバンティーノフェスティバル」にて初演後、ブラジル・サントスのセスキ劇場でも上演された中南米ツアー作品を上演(梅田芸術劇場)した。

 開幕してほどなくして、白を基調とした舞台空間の上手と下手からこれまた白塗りの役者達があの独特のリズムと発声を伴ってやって来る。彼ら麦藁帽子を被った少年達は吹きすさぶ風に抗っている。腰を屈め、麦藁帽子を前に突き出して小刻みに震わせる仕草。明確な台詞を配し、絶妙に計算され尽くしたこのような身体表現だけで観る者にまさに今、何を行っているかを伝達させる技術には目を見張るものがある。それに合わせて効果を上げているのは、舞台中央付近の都市のビル群である。それを様々に移動させることで、この少年達がビルとビルの間、果ては街中を駆け抜けていく様を十分に補完する。そして後方には橋が架かっており、その上で真ん丸の月が唯一と言っていい暖色のオレンジに輝くのが特に際立って印象的である。

 維新派の舞台とは均整のとれた運動表現とジャン☆ジャンオペラと称される、世界中に溢れるノイズをも含む様々な声と巨視的な目を自然に観客へ獲得させる巨大な舞台装置、それに大音響の音楽が入り混じることで、まるで子供の頃夢中で読んだ(体験した)「飛び出す絵本」のような無邪気な世界なのである。しかし、今回の公演では冒頭に挙げた感心が長続きすることはなかった。その最大の原因はやはりあえて劇場で公演したことによる意味性が感じられなかったことにあるのではないか。

 『キートン』(2004・大阪南港野外特設劇場)を上演した南港の舞台は常識を超えた何十メートルもの空間であり、私は後方に座っていたにもかかわらず、終始首を上にしなければとても見れないほど巨大な舞台装置が常に動き回り、俳優達が遥か彼方からやってきて徐々に大きくなっていく様を見た時には、映画のスクリーンを見ているような気分にもなったし、何より驚いたのは夜空をバックに、上方に設けられた線路を走るキートンを機関車が追いかけ、そこに眩い光が当たったシーンであり、これまで一度も見たことのない壮大さと冒険を確かに目の当たりにしたのだ。ここで、維新派の世界とは身体表現や舞台装置をひっくるめて機械的な世界でもあると言えるだろう。と同時に最も重要なのはそれを引き起こすのは人間であるということである。つまり、維新派の世界に触れた時、私達は人間の叡智を今一度再確認することができるのだ。

 さて、以上のことを踏まえて『ナツノトビラ』へ話しを戻せば、様々に挙げた特徴が果たして十分に発揮されていただろうかと疑問符を付けたくなる。やはり私が維新派の舞台の最大の特徴でもあり、重要だと思う「飛び出す絵本」のような無垢な感覚は、野外劇で上演してきたからこそ感覚神経にダイレクトに結び付いたのであり、まさに非日常と日常の淡いを経験できたのではないか。屋外と屋内の最大の違いは舞台空間と自然性の有無である。今回の作品がいくら大劇場で上演されようとも、やはり野外劇に付き物の解放感には及ばない。3階席に居た私は、見上げる視線ではなく見下ろす視線で観劇しなければならなかったために額縁舞台にあたかも美術作品のような、高尚なものを見ているような気分に私はなった。それは童子の感覚といった感受性に代表される動物的感覚を取り戻させることで、普段いかに「身体」で感じることを抑制し、忌避しなければ生きていくことが困難かを示したことにより、演劇の原初性に確かに触れた『キートン』とは異なり、『ナツノトビラ』では俳優の一挙手一投足に注視し、その堆積が何を表わしているのか、つまり観る者にストーリーと「意味」を求める括弧付きの「芸術」に対峙する姿勢にさせてしまうということなのである。それが全てではないと知りながらも、温度や風といった自然要素が欠けてしまったことにより、結果的に維新派にあった親和力が喪失してしまったのではないだろうか。

 確かに劇場舞台でも効果を発揮でき得る舞台装置、そしてモノトーンを基調とした色使いにしたことで、劇場サイズに目一杯格闘した跡を感じさせる。また、劇場と都市という文化から象徴的に連想させる無機質さと近代という性格に対抗するという主題が維新派による劇場公演にはあったのかもしれない。というよりも、それしかないと私は思う。だから、奥行きが果てしなく続いているように、橋の奥に消失点を出す舞台設計(私の席からは確かに書き割のように見えた)等は、やはり野外劇の特質を劇場内へ持ち込んだ以上の理由を見出すことが出来なく、あえて劇場で公演を打ったことの判断をし難くさせるのである。

 舞台空間と夜景の日常風景が並立する野外劇では、水平線の上下のように日常と非日常が分かれていながらも、その日常空間と虚構が限りなく近接し、時に融合する一瞬がある。例えば『キートン』のラストシーン。遥か彼方にある舞台セットのビルに乗ったキートンは小さい。しかし、それ故にセットと本物のビル群とが見事に重なり、そこから果てしない世界を覗き見るキートンが叙情的な姿として立ち上がっていたのである。

 演劇の果たす役割とは、舞台に宇宙を開示させることで真実を表わすことだとすれば、先述したように芸術性が際立つ結果になったが故、仕掛け、動きを含めて単調にさえ感じる場面すらあった。夏休みを過ごす少女がテレビ番組をザッピングするとニュース・音楽・お笑いといった番組音声が劇場中に次々反響するという冒頭場面には、我々を取り巻く日々が、近代の遺産とそれを発展させたものの洪水によって構成されていることが示された一瞬であり、期待させる場面であったが、その後、幻想の世界に迷い込むという展開に突入したため立ち消えてしまう。劇場で公演する以上、自らを含めて批評的に捉える視点を見たかった。従って、都市をさまよう少年というモチーフだけでは弱いと私は思うのだ。未見で確かなことは言えないが、回り舞台を採用してロードムービー風の作品だったという『ノクターン』(2003・新国立劇場中劇場)の方が劇場に見合った工夫が施されていたように感じる。
(7月14日 梅田芸術劇場 ソワレ)
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」創刊号 8月2日発行)

【著者紹介】
 藤原央登 (ふじわら・ひさと) 1983年大阪府生まれ。近畿大学演劇・芸能専攻卒業。「現在形の批評 」主宰。
Wonderland 執筆メンバー。

【上演記録】
 維新派「ナツノトビラ-光と影のモノクローム・デジャヴ
 大阪・梅田芸術劇場(7月14日~7月17日)

▽作・演出】松本雄吉
▽パフォーマー
升田学、岩村吉純、藤木太郎、坊野康之、森正吏、木戸洋志、イルボン、西塚拓志、金子仁司、小崎泰嗣、石本由美、平野舞、エレコ中西、石黒陽子、小山加油、石丸史夏、稲垣里花、江口佳子、中麻里子、尾立亜実、境野香穂里、大石美子、大形梨恵、辻本真樹、土江田賀代、まろ、田口裕子

▽スタッフ
音楽監督:内橋和久
舞台監督:大田和司
美術:田中春男
照明:吉本有輝子
音響:松村和幸
海外制作・映像:高岡茂
宣伝美術:東學
宣伝写真:福永幸治
美術デザイン:黒田武志
制作:衛藤千穂


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