電視游戲科学館「勇魚―ISANA―」

◎贅沢な序章 (高木龍尋)  タイトルから水にかかわる物語であろうと予想はしながら、劇場への案内を見ると、元は造船所であったと書かれている。行ってみると、煤けた建物にはまだ造船会社の古びた看板が掲げられていて、喫煙所から … “電視游戲科学館「勇魚―ISANA―」” の続きを読む

◎贅沢な序章 (高木龍尋)

 タイトルから水にかかわる物語であろうと予想はしながら、劇場への案内を見ると、元は造船所であったと書かれている。行ってみると、煤けた建物にはまだ造船会社の古びた看板が掲げられていて、喫煙所からは進水場であろうか、海へと何本かの突堤が伸びていた。折りしも夕刻、水面から魚が跳ねたり、運河のような海を隔てた向こうにまだ操業中の工場がありその煙突から煙がのぼったり、と、いかにも雰囲気のあるロケーションであった。

 劇場となっている部分の中に入ると、どのような施設であったのかはわからないが、一階の天井(二階の床)が刳りぬかれて高さのある空間となっていて、一階席と二階席がある。そこに巨大な装置が置かれていた。東南アジアの仏教寺院にある仏塔のようなものが両脇に並び、中央にはふたつの顔のついた造形物があって二階席の床面と同じほどの高さがあった。これまで観た小劇場演劇の中では、一二を争う贅沢さなのではないかと思われる。

 作品は、太古の海の中を舞台にしたファンタジーと言ってよいだろう。
 まだ龍がいた遠い昔、海の底にはひとつの灯台があり、少年・ユタと少女・コトノハはその灯をふたりだけで守っていた。その灯台の灯が消えると、深海から魔物たちが這い出していて海の中は戦となり、多くの災いが起こると言われていた。少年はその言い伝えを固く信じて灯を守ることに努めているが、少女は何百年と変わらぬ生活に少し辟易している。そして、五十年に一度訪れるはずの龍が現れないことに、そこはかとない不安を抱いていた。そこへ、何かの卵のようなものが少女のもとに降ってくる。少女は手に入れた卵から外の世界への興味を抱き、この海底を出ようと騒ぎ始める。灯台の灯を消せば開放されると騒ぐ少女を少年が鎮めようとしているうちに、灯は自ずと消えてしまった。すると、深海から魔物たちが這い出してくる不気味な音が聞こえてきた。少年と少女はそのことを知らせるために、灯台を出て旅に出た。

 灯台の外の世界には子どもがおらず、人に会うごとに珍しがられ、話は「昔話だ」と取り合ってもらえない。それどころか都の元締めに捕われてしまう。そこで、主人を必ず不幸にしてしまうことで仕官を断られ続けているお師匠と出会う。お師匠はふたりの話すことが少しは理解できるようであったが、仕官のことで頭は一杯。と、そのうちに深海の魔物が都を攻め、都は壊滅してしまう。少年と少女は灯台をつくった魔女ならばもう一度灯をともす方法を知っているかも知れないと聞き、魔物を封じ込めるためお師匠を雇って魔女を探し始める。魔女は海の中を漂って現れたり消えたりしていて所在はつかめない。ふ意に現れた魔女を少女は母であると知り、とっさに追いかけるうちに少年とははぐれてしまう。

 一方、少年の前には海を抜け出して地上の楽園に行こうと企んでいる夜刀の神が現れる。夜刀の神は少年を誘惑し、ともに地上へ行こうとけしかける。夜刀の神は少年の持つ不思議な力を知っていたのだ。少年はお師匠に問い質されるが、地上に問題を解決する糸口があるかも知れないと、夜刀の神と共に行くことを決める。少年が行ったあとお師匠から事の次第を聞いた少女は魔女を探すことを決心し、魔女の棲み処への道の途中にある龍の森の番人のような森婆のことを知る。森婆を誠心誠意で説得し、森を通ることを許された少女は、凶暴な龍の森へ歩みだしてゆく。

 ……と、長々とストーリーを書いてみたが、この作品の上演の前、劇団代表から挨拶があり、「今回の公演は思っていることの30~40%くらいです」という断りがあった。確かにこの公演では起承転結で言えば起の部分しかない。少年の地上行きはこれからどうなるのか、少女は魔女と会えるのか、海底の灯台はどうなるのか、それらの問題は提起されるだけで何も解決がない。それどころか、これからの展開の方がひとつの物語としては重要なのではないかという気がする。登場人物や世界の設定や、作品中に登場する不思議な小道具がその道筋を導いてゆくのだろう、という予想はできるものの、それは観客が個々の想像力の中でつくりあげてゆく、という類のものではない。起承転結の全編を観た上で、やっと観客は作品について考え、あるいは作品から何ものかを喚起されるのである。これ以降、何回の公演で作品を完結させる予定なのかはわからないが、この物語について現時点で何かを語るというのは不可能である。

 長大な物語をつくる場合、いくつかの方法がある。年代記のように始まりから終わりまでを時系列に沿って息を長く語ってゆくこともできるし、連作のように幾つかの完結した物語をモザイクのように組み合わせていってつくるやり方もある。この公演で代表者は「公演としては完結したものです」ということも述べていたが、これは連作の中の一編の完結という意味ではないだろう。物語の第一章、あるいは序章の完結というならば納得はできる。だが、ひとつの完結した作品に触れて得られるカタルシスはこの公演になかった。

 ここ数年、長編ファンタジーの映画化、アニメ化が続いている。『指環物語』、『ナルニヤ国物語』、『ゲド戦記』など、映像化不可能ではないかと言われていた作品が次々と映画やアニメで劇場公開された。この作品を観てそのことを思い出した。

 映像の場合、観客はテレビや雑誌のコマーシャルや劇場予告編などを観て、「第一章だ」、「今度は第二章か」と認識した上で作品を観るのだが、これが演劇の場合には多少事情が違うのではないだろうか。大規模広告(もちろん、それができないミニシアターなどもあるが)打って観客を集められる映像作品と、ある限定された人数しか集められない演劇とは大いに違う。仮令、観たいと望む人びとが大量にいたとしても、劇場の容量や時間的な問題で、実際に観られる人数は限られてしまう。まして、演劇はその場と時間にたったひとつだけしか存在しない。同じものを複数の場所で観客に観せることのできる映像とはこの点において全く別のものと言ってよいだろう。映像は昨日観ても今日観ても、余程の問題が起こらない限りは全く同じものが流れてくる。しかし、演劇では昨日観たものと今日観たものでは全く違うものになっている可能性がある。日を追うごとに演出が変わってゆく、台詞も変わってゆく、というのはよくあることである。そのような作品を観た上で次の章を観たとしても、うまく繋がるとは限らない。3時間、4時間の上演時間の作品がままあるとしても、「第一章」「第二章」という切り方をする作品がまず見当たらないのはこのような理由があるのかも知れない。

 巨大な装置、高い技術の照明、つくりこまれた衣装、一階と二階の段差や、両方の階でともに舞台奥が開くという劇場の機構を十二分活用し、音楽にも凝っている。夜刀の神が少年を誘惑する場面で歌われた『カルメン』のハバネラを改作した歌は如何にも魅惑的であった。また、終演時に照明で床に映画のようなエンドロールが流れた芝居は初めて観た。技術的に優れていることに圧倒されながらも、それだけに尚更に、最後の最後で床に光の文字で書かれた‘to be continued’に不満は募るのである。
 (髙木龍尋:大阪芸術大学大学院助手 7月16日観劇)

【上演記録】
電視游戲科学館ISANA―勇魚―
大阪・black chamber(7月15日~23日)
作・演出 国本浩康

【出演】
小沢道成/吉岡菜穂(兎町十三番地)/岡嶋秀昭/駒田大輔/新良エツ子(兎町十三番地)/ハラダリャン/兵頭祐香/窪木亨/行澤孝(劇団赤鬼)/ファックジャパン(劇団衛星)/平貴之/奥出鉄也(プロジェクト・コア)/河村真帆(兎町十三番地)/高橋志保/長尾恵里香/橋本源氏/東谷信昭


「電視游戲科学館「勇魚―ISANA―」」への1件のフィードバック

  1. 京都の若手劇団

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