山田せつ子公演「奇妙な孤独vol.2」

◎〈要約できない豊かさ〉に触れつづけることへの戦い  森山直人(京都造形芸術大学助教授)  このダンス作品を見て、「地図を見る感覚」を連想した。なぜそうなったのかを振り返ることで、劇評にしたいと思う。 *         … “山田せつ子公演「奇妙な孤独vol.2」” の続きを読む

◎〈要約できない豊かさ〉に触れつづけることへの戦い
 森山直人(京都造形芸術大学助教授)

 このダンス作品を見て、「地図を見る感覚」を連想した。なぜそうなったのかを振り返ることで、劇評にしたいと思う。

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 最近たまたま中上健次の小説を読みかえす機会があって、それ以来、地図に夢中になっている自分に出会すことが多い。中上健次といえば、もちろん「紀州」「熊野」である。以前読んでいたとき、ずいぶんその周辺の地理には詳しくなったつもりでいたが、今度『熊野集』に出てくるたくさんの地名を出来る限りていねいに辿りながら地図を見直してみると、何にも見ていなかったに等しいことに気づいて愕然とした。愕然としながら、しかし、辿りはじめるとやめられなくなる。たとえば、聞いたことのあるふたつの地名が、びっくりするほど近くにあったり、あるいは離れていたりする。宮沢章夫の地図好きは有名だが、わたしはまるっきりの初心者で、エッセイ風の短編の活字をじっと目で追いながら、指は地図上の国道らしき白線を慣れない手つきで山道を喜々として、そろそろ海だ、などといつのまにか物語から逸脱し、勝手にそんなことを思いながらなぞっていたりする。だが、そんなときに気がつくのは、そうやって地図の山道を指でなぞっている体験がいちおう「追体験」と呼ぶべきものであるはずなのに、それが本物の山道をじっさいに車に揺られているときの、半分空が見え、半分閉じこめられているようなあの感覚とはやっぱり相当違うものだという当然の事実である。

 地図上ではどんな山道を「走って」いても、必ず近くには、ほんとうなら山に隠れて見えないはずの別の地名や海岸などがたえず視界に入っているし、地図を見ているとき、目はバラバラな地名や色彩のあいだを行ったり来たりするという、文字通り「ありえない」運動をする。〈航空写真〉に〈神の視線〉を看取する議論はよくあるが、その点でいえば、〈地図〉は実はけっして〈神の視線〉たりえない。伊能忠敬が、測量通りに紙の上に現れたふしぎなギザギザをはじめて見たときの鈍い衝撃はさぞかしだったろうと思うのだが(たぶんそれは彼が絶対に空中にのぼることが出来ないせいである)、〈航空写真〉が、いわば空中からもたらされた〈完璧な情報〉であるとすれば、〈地図〉は、いわば自分を“完璧”と信じ切ることのできない地上の作り物である。その代わり、〈地図〉は〈航空写真〉にはありえない地名表示や標高差の色分けのような、人工的で過剰な情報に満ちあふれている。そうしたフィクショナルな情報相互のあいだで、人=観客が媒介となって、現実には「ありえない」交通や交渉が次々に成立してしまうのがやはり〈地図〉というものの存在の不思議であり、おそろしさなのである。

 もちろん〈航空写真〉も色々種類があるので一概にはいえないが、気象衛星が配信してくる日本列島の映像などには、一種独特の殺風景な感じがあって、思わず見る側の思考を停止させる。たとえば衛星写真がとらえた四国なら四国は、わたしたちが日頃抱いている「四国」のさまざまなイメージを、濃い緑色と鋭利な輪郭線のもと、有無を言わせない力で封じ込め、完璧に要約してしまうのである。おそらく現代のわたしたちの日常生活には、一方にそんな〈航空写真〉のような思考様式があり、他方には一見それとは対極にみえる、昔ながらの徒歩散策のような思考様式がある。だが、〈航空写真〉の権力性を動揺へと導く力は、実は〈地図〉が開示する、無限の思考の複雑さと広がりと無方向性のなかに宿ってはいないだろうか。

 わたしが宮沢章夫とは異なる意味で、舞台の可能性と地図の可能性とを結びつけて考えるようになったのはごくごく最近のことである。山田せつ子の『奇妙な孤独vol.2』に、〈地図〉的な思考の飛躍力を最初に感じたのは、おそらく山田の相手役が、初演の天野由起子から内田淳子に変わったことを知ったときだったように思う。









 今回天野はやむを得ない理由で参加できなくなったと聞いているが、『Jericho』(三浦基演出)でも主役のひとりを演じていた内田は、京都を拠点に活動する小劇場系の舞台俳優である。演劇であれダンスであれ、いまの舞台芸術の一般通念では、こんな選択は「ありえない」だろう。もちろん内田は、初演の天野のようにダンスを踊るわけではなく、俳優性をベースにしたひとつの動く身体として存在の場を受け持っている。そして、「ひとつの動く身体」(身体が動くのは当然だ、などと思わないでほしい。これは〈舞台〉というフィクションの場における話なのだ)という発想こそが、パレスチナを扱った『恋する虜』のようなジャン・ジュネの後期作品や『ジャコメッティのアトリエ』のようなエッセイに重要なインスピレーションを受けた『奇妙な孤独』というシリーズを支え、そのなかで天野と内田という、一見まるで無関係に思っていた地名が不意に結びつくことに気づくことに成功したフィクションのすべての出発点となっているのである。

 山田せつ子のダンスが、ダンス的な動きというよりもむしろ「身ぶり」だと表現したのは乗越たかおだが、なにより山田自身が、人間でも人形でもアンドロイドでもない、ひとつの動く身体の存在様式、思考様式のかたちを、1時間の上演時間を通じてそのつど発明しようとしていることの伝わりに、不思議な興奮を覚えた。ひょっとするとその興奮は、「人間」も「人形」も「アンドロイド」さえも〈航空写真〉の目で輪郭として固定され、完膚なきまで要約されつつある現代のわたしたちだけに体験可能な、歴史的な興奮なのかもしれない。

 舞台上にひとつの動く身体がふたつ(山田、内田)。そしてその傍らには、舞台美術の杉山至が作成した二台の「ベッド」がある。人が寝る部分がゆるやかに湾曲した木製で、脚部は重い鉄製の「ベッド」は初演と同じものが使われていたが、それらは、二体の「非=ダンサー」の傍らで、もう二体の「非=ダンサー」として、ときには山田や内田の分身にも見えてくるようなものとして活用されていく。さらにまた、「2」という偶数の関係に固着しそうになる場に、まるで縫い針が布に穴をあけて繰り返し侵入していくように、もうひとつの身体(京極朋彦)も登場する。周到に計画された五体の非=ダンサーの共犯関係がひそかに打ち立てようとしているのは、わたしたちの〈航空写真〉の目に穴をあけ、視覚と聴覚の思ってもみなかった場所に思ってもみなかった記号を書き込み、視覚を〈地図〉の目へと変容させることなのである。まぎれもなく、ここには一種のメディア論的な闘争があるのだし、その部分こそが読まれるべきである。

 〈地図〉には〈地図〉を成立させている数多くの約束事があるように、〈舞台〉にもまた、〈舞台〉を成立させるための数多くの約束事がある。そうしたものは、〈航空写真〉の知の権力とは別種の知の方法がいまなお生きていることを証明するための手がかりとなり、足場となる。振付家・山田せつ子は、身体と空間と光と音の演出家として、そうした約束事を活用し、たとえば舞台に小さな四角い紙片が何枚も吊られていたら、その紙片は、作品全体のどのような局面で、どんな手がどのように握りつぶし、どのような乾いた音が、一種の〈声〉として客席に届けられなければならないかを厳密に計算する。そうしたひとつひとつの〈声〉こそが、こういってよければ舞台上ではひとつの〈人格〉=ダンサーとして生み出され、要約できない情報の束を発信する主体=ダンスとして立ち上げられるべきだという確信が、この作品の根底にはある。そのように舞台上で誕生した〈声〉の無数の反響が、〈航空写真〉に対する〈地図〉の思考様式のように、無方向な線の模様を描き出すことが、有無を言わせない〈要約〉の力(「美しい国」や「国家の品格」等は、〈航空写真〉としてはどちらかといえば不出来なものに見えるが)にあきらめることなく、要約できない豊かさにどこまでも触れつづけることへと通じる一筋の通行路であることを、作品そのものの存在をかけて証明しようとする賭けの精神は、掛け値なしに貴重な試みに感じられる。

 ジュネのテキストはたった二箇所だけ引用されるが、印象に残るのは、「金のパイエットは金色の金属のとても小さな円盤で、穴がひとつあいている」という、「綱渡り芸人」(『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』、鵜飼哲訳)の冒頭の一節の方だろう。ただ、言葉の使用という点では、何かもう一節、これに連動するフレーズがあれば、『奇妙な孤独』の別の側面が、もっと明確に浮かび上がるのではないかという気がした。
(最後に誤解のないように一言。山田せつ子氏と私は、現在たまたま同じ職場にいるが、以上の批評が、よくある社交辞令や内輪ボメの類とはいっさい無縁であり、あくまでもこの舞台に立ち会ったひとりの観客として、本気だ、ということだけは付け加えておきたい。)
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第5号、8月30日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
森山直人(もりやま・なおと)
 1968年東京生まれ。京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科助教授。専門は演劇批評、現代演劇論。現在同大学舞台芸術研究センター発行の演劇批評誌『舞台芸術』の編集委員。

【公演記録】
山田せつ子ダンスシリーズ『奇妙な孤独vol.2』
http://www.setsuko-dance.com/news3.html
会場:京都芸術センター講堂(京都芸術センターセレクションvol.23)
2006年7月1日(土)19時30分、2日(日)16:00

構成・演出・振付:山田せつ子
出演:山田せつ子、内田淳子、京極朋彦

【関連情報】
山田せつ子オフィシャルwebサイト
・山田せつ子ダンス公演『奇妙な孤独』 (魁文舎)(枇杷系
山田せつ子氏インタビュー(聞き手:山田うん、写真も) 「ST通信」
 横浜STスポット


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