前田司郎作・演出「ノーバディ」(演劇計画2006)

◎この舞台はちょっと凄いぞ 身体表現の新次元を開示
 藤原央登

 結論から言えばこの舞台はちょっと凄いぞというのが観劇後の率直な感想である。とにかく何はなくともそれだけは言っておきたい。これまで人間の不確かな存在を「死」という命題に照射させて表現してきたのが前田司郎だが、本作は登場人物がただ死んでいき、舞台上に累々と死体が増えていくという「死」そのものを描いた作品である。身体表現の新奇な領域を開示したという点で、そして前田司郎がやろうとしていることの一旦を垣間見ることができたという点でもこの作品は以後ターニングポイントとして記憶されてしかるべき公演である。

 登場人物は合わせて17人。舞台はいたって簡素で、段差の極めて小さな4段の舞台空間の、最上段手側にベンチ、下手にワーキングデスク、3段目下手に3脚のイスとテーブルがあるのみで他には何もない。開幕するとその3段目下手部に男が1人と女2人が着席している。どうやら喫茶店の設定のようで、ヨネダカツフミ(尾形宣久)というその男はシジマカオリ(長沼久美子)という妊娠中の彼女が居ながらキミジマリョウコ(高田司優子)という女子学生と浮気をし、それがバレてしまったがため、どうやら当事者同士が集まって事の真相と今後について話し合っている最中のようらしい。それぞれの立場の下、真剣な女性2人に対し終始他人事のヨネダの言動が時折笑いを誘う。

 そうこうしているうちに同じ段上手側に大学生のグループがやってくる、そうするとその部分は大学の中庭か何かなのだろう。そのグループの内の一人、都市伝説サークルに所属するナナ(野津あおい)は、大学の地下3階に米軍が門外不出の悪性ウイルスを培養しているのではないかという都市伝説を、ナナの恋人であるコンドウマサヒコ(浅井浩介)や、喫茶店ではこれからヨネダとリョウコが修羅場を迎えようとしていることなど知らずに結婚式の出し物に何をするかを思案するエイコ(宮部純子)、エリナ(深見七菜子)アンドレ(上田展壽)らである。

 しばらく2つの陣地から発せられる会話が代わる代わる進められるだけでさしたる展開はない。しかしいささか退屈しかけた開幕30分後に劇は突如動き始める。ナナが酢昆布を口にした途端苦しみだして急死してしまうのである。冗談かと思い、マサヒコをはじめとする仲間が恐る恐る呼びかけるがそれも空しく響くのみで、ようやく死んでしまったことを認識する。それは我々観客にしても同じであり、一体何が起こったのか混乱するばかりなのだ。そして程なく、場所が変わって1段目でダンスを練習していたエリナが激しい痙攣(あの痙攣のリアルなさま!)で息絶えてしまう。ここで舞台の住人、観客共に今の状況、そしてこれから起こるだろうことが了解可能になる。つまり、倒れた人間は間違いなく死亡しているのであり、今後周りの人間はもとより自分達も早晩死んでしまう、そして死因は何かが全く分からないということ。

 それが証拠に、時間が経てば経つにつれ登場人物は次々と死んでいく。死に方も痙攣、頭痛、腹痛、他人の死によるショックと様々であることから分かるし、従って冒頭部でナナが言っていたように地下3階の米製ウイルスが原因でもない。終演後、前田司郎自身、ポストパフォーマンストークでも語っていたように、作品のあらすじはあまり関係がない。要となるのは登場人物が全員死んでいき、オブジェの様に死体が醸し出すある種の雰囲気とその死に方をいかに趣向を凝らして演出できたのかが重要なのである。苦しみだしてこれから死んでしまうというのに付き合って欲しいと告白してフラれたり、突然の死をこれ幸いとばかりに父娘の会話が途切れがちだった間柄を修正するため親子水入らずにさせてくれと懇願する父親など、往生際の悪い死に我々観客は不謹慎にも爆笑させられる。一言で要約すればこの舞台は否応なく死期を早められた人間が業の深さを暴露させて身勝手に振る舞った結果「笑える死」を迎えてしまう不条理劇なのである。

 気になるのは死んだ(という体の)俳優達である。開始30分後に酢昆布を食べて最初に息絶えた野津あおいはそれから1時間10分もの間、身体の位置の変更も許されず、そのままの状態で「死に続け」なければならない。俳優とは舞台の上で役をさもそれらしくまさに今、その場にいるように「生きる」ことだとすれば、舞台の上で「死者のように生きる」という矛盾した「役」をこなさねばならない俳優達の心境たるやどういったものだったのだろうかと追想したくなる。カーテンコール時、寝起きのような顔をしている俳優達もいたが、動いてはいけないという制約は、行動し台詞を喋ることとはまた違う緊張感を強いられた筈で、あの時の顔はひょっとすると一瞬臨死体験にも似たトリップをしたのではないかと思えるほどのものだった。俳優にとってメビウスの輪のような矛盾したものを演じる体験を経ることで、演劇の大命題である虚実皮膜性について身体でもって思想することになり、「役になりきる」というだけが俳優の仕事ではないし、第一何かになりきることは不可能である事が分かるのではないか。死んだ事のない人間が死者を生きることも、死体になりきることも不可能なのであるから。そのことを承知で、それでも尚且つ死体を演じるには客観的に見た時に死体のように「そこに在る」という状態に身体を持っていくしかやりようがない。となれば、身体をピクリとも動かさずに静止するということこそ一番にやるべきことであり、死体の気持ちを考えてからなんてことは愚問でしかないのだ。前田司郎の身勝手な思いつきに応えようとした俳優陣による、演劇における身体性の新たな地平を示したという実験性が含まれている点において、私がこの舞台が秀逸なものだと考える理由の一つがある。

 身勝手と言えば前田はこの作品に最も身勝手な人物を設定している。マキタミキ(荒木千恵)という病人である。彼女はヨネダが死に、自分も一緒に死のうと添い寝していたリョウコに懇願されて絞殺する。この部分はポストパフォーマンストークで「楽にしてあげようとする彼女(マキタ)の優しさからか」との質問があった。それに対し前田は生きるということは何かの体積ではなく死に続けるということだと答えている。また、人間はいつか死ぬということは周知の通りであるにもかかわらず、他者がそれを早めると逮捕という名の罰を受けることに(社会人として法律や常識から認められない事は十分理解しているが)釈然としないものを感じると続ける。なるほど、この舞台を人間はいつか死ぬという普段さして意識しないことを前景化した作品だするなら、原因が分からないが今すぐにも人間は一人残らず急死していくという状態だけを取れば異常ではあるが、生物の生命としての天寿の全うを凝縮して描いた日常自然風景と考えた方が良いだろう。このシーンで確認しておかねばならないのは死者本人が早く死にたい、殺してくれと意思表示し、その望みに応えようとしればそれも否定されてしまうのかということである。いかなる極限状態にあろうとも社会のルールや倫理・哲学の問題が適応されてしまい、人為的な力によって死期を早めることは認められないというのは、尊厳死を巡る昨今の議論に通じる内容を孕んだ印象深いシーンである。

 ミキが最後の一人の死を見届けた後、実は自分以外の全ての人間が居なくなることを祈ったと告白する。自分が居なくなった世界と自分一人しかいない世界はイコールだと思考させる。世界中の人間が一人残らず死んでしまう現実をマキタが祈ったというその理由を、独りよがりの身勝手な願望に求めるならば全ての原因はマキタという事になろうが、結局マキタ自身も間もなく死んでしまう事は間違いがない。となればそれは彼女にとっても本当に幸福な事か疑わしくなる。0か100か、極端で短絡的な発想から生じた欲望を労せずして手に入れようとするのはマキタばかりではなく、死に際にここぞとばかりに無茶を申し入れた他の人間も同様である。もし世界でただ一人になれば好きな事をするだろうにといったレベルの妄想は誰だってするだろう。しかし、「殺すぞ」という言葉が単なるギャグや口癖の域から本当に殺してしまう所まで一気に思考が高まるのが昨今の人間であり、それだけに作品に描かれる人間は私達に切実な問題を突きつけてくる。

 以前、私は五反田団公演『ふたりいる風景』について、上記のような「受身
型人間」が描かれていることに着目した劇評を書き、そこに存在するのは「底
流する人間」だと書いた。その部分を拙稿から引用してみよう。

 「(『ふたりいる風景』に登場するのは)完全なる他者が忌避されてどこにもいない自己充足的人間の物語なのである。大上段に構えた目標を掲げていたにもかかわらずちょっと試して無理だと判明するとすぐに諦めて、手ごろに解決できる方へと容易にシフトする人間。前田司郎が描いたのは、この男に代表される若い世代特有の底流し、なんとなく漂い続ける人間である。」(『現在形の批評』#31

 『ふたりいる風景』で描かれたのは受身型人間で且つ到底無理だと思われる事の激しい希求であったが、己を変革したい欲望はまだ捨ててはいない。一転して本作に登場するのは自己変革の可能性を諦めた結果至ったのは自分以外の人間を抹消して解決しようというさらにシニカルな視線で世界を見つめる人間である。冒頭で述べた前田の考え方、表現しようとしている事が以前観たものよりを発展させ、よりはっきりとしたものになっている事に注目したい。若者の感性や気分に伴っているシニカルさを非常にうまく描ききった所に私は前田自身のシニカルな一面を見たような気がした。そのシニカルさが鮮度を保って社会とシンクロしているうちは、それをどうリアルに描き出すかに苦心していれば良いが、その先の創作者としての願望や未来予測にも似た思想を早晩、テーマとして提示しなければならなくなったその時、どう変化させてくるのかが楽
しみである。

 忘れずに記しておきたいのはこの公演がワークインプログレス(途中経過)という位置付けである事だ。本作のこれまでの上演経過は、前田司郎が若手演出家の発掘・育成を目的とした「京都芸術センター舞台芸術賞2004」を『家が遠い』で受賞したことによる。オーディションで選ばれた俳優との作品創りである今公演を経て『ノーバディー・京都バージョン』として2007年の本公演を目指す長大な事業である。貸館のみならず、積極的に劇場が演劇人を育てようとする京都の新たな芸術都市としての試みであろう。

 しかし、完成度は極めて高いが問題がないわけではない。死体を一種のオブジェとする美術的構図は再考の必要があるだろう。死者が増える度、一段ずつに4人の死体を並べ、真ん中にマキタを最後に配置するシンメトリーな構図になるのだろうかと思ったが、中途半端に3段目と4段目の人数が違っていた。ならいっそ段にまたがって死者を配置してもっと雑多にすることで文字通り累々と重なった死体の場を演出するすべきだろう。また、前田自身が語ったように最初の死者が出るまでの30分間の処理も再考すべき点だが、そういった問題を含めたとしても今年度屈指の作品であることには間違いない。
(9月1日 京都芸術センター フリースペース ソワレ)

【著者紹介】
 藤原央登 (ふじわら・ひさと) 1983年大阪府生まれ。近畿大学演劇・芸能専攻卒業。演劇批評ブログ「現在形の批評 」主宰。Wonderland 執筆メンバー。

【上演記録】
ワーク・イン・プログレス公演「ノーバディー」(「演劇計画2006」)
京都芸術センター フリースペース(9月1日-2日)
* ポスト・パフォーマンス・トーク:9月1日

【作・演出】前田司郎(五反田団
 
【出演】
浅井浩介
荒木千恵
上田展壽
岡嶋秀昭
尾方宣久
剣崎あさむ
駒田大輔
鈴木正悟
高田司優子
長沼久美子
新田あけみ
野津あおい
肥田知浩
深見七菜子
松田裕一郎
宮部純子
森岡望
(50音順)

【スタッフ】
舞台監督:浜村修司
照明:高原文江
音響:宮田充規
宣伝美術:木村敦子
制作:和田克己
制作助手:井上エミ
広報:垣脇純子
企画:橋本裕介・丸井重樹

【主催】
京都芸術センター

【助成】
アサヒビール芸術文化財団
財団法人セゾン文化財団
財団法人地域創造
平成18年度文化庁芸術拠点形成事業

【協力】
アトリエ劇研
欠陥ロケット
飛象社
前田珈琲


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