神村恵カンパニー「山脈」

◎「動かされる」身体から生まれる不気味さ
 伊藤亜紗(ダンス批評)

 神村恵の作品で面白いのは空間性だと思って以前から注目していた。空間性といっても「体を大きく使いなさい」とかそういうことではない。ひとことで言うと、ダンサーがちゃんとリアルな空間のなかにいるという意味だ。ダンサーが、三次元的に広がっている空間の中に自分がいるということに対して自覚的なのである。

 このことは、舞台作品にどうしようもなくつきまとうスペクタクル性やシアトリカリティに対する批判と直結している。というのも舞台上の空間はふつう、前や後ろといった観客のまなざしとの関係で規定される「方位」をあらかじめそなえている。つまりニュートラルでない、遠近法にのっとった観念的な空間として存在する。ところが神村が(そのソロ作品でしばしば行っていたように)観客に対して横を向いたまま静止し、そちらが自分にとっての「前」なのだと主張するとき、舞台上の出来事が観客のために向けられたスペクタルであるという先入観は否定され、それに伴ってダンサーは観客から切り離された、自分の空間をもった自律的な、自己に没頭した存在としてあらわれてくるからである。ダンサーが自分の空間をもつことと没頭は不可分のものだろう。

 新しく結成されたカンパニーによる今回の作品「山脈」でも、冒頭、「フォーメーション」という手法によって空間性が印象づけられた。ひとりずつ、5人のダンサーが入ってきてここと決めた場所に順に位置を占めていく。ダンサー自らが駒となり将棋の一手を次々打っていく要領だ。新しく入ってきたダンサーは観客に背を向けてすでにそこにいて寝転んだり四つん這いになったりしている他のダンサーたちの布置を読み、それらとの関係やバランスを考慮して自分の取るべき位置と姿勢を決めなければならない。ダンサーがいない空間をも無視できない「余白」として意識させる巧妙な仕掛け。5人全員が入場したあともフォーメーションのゲームは刻々と、しかしあくまで淡々と続き、プレイヤーである同時に駒であるダンサーたちの表情のなさは、この時点でかなり不気味な雰囲気を醸し出していた。

 フォーメーションは個々のダンサーよりも全体を優先させる論理である。全体を統括し動かしている法則が純化して見えてくるとき、それは快いと同時に不気味だ。たとえば中盤、ダンサーたちがほとんど闇雲にも見える波形をそれぞれに描きながら、決して広くないアゴラの空間を高速で歩きまわる。普通なら衝突や接触を起こしそうな5本の波線はどういうわけか常に無理無く相互に回避し、いやむしろ相互に回避しつづけることによって個々の波形が決定されていくようにも見える。5人というよりは浮遊する5つの分子が織りなすコロイド運動。動くというよりは動かされる身体。「動く」は巧みなほど快いが、「動かされる」は巧みなほど不気味だ。

 法則によって動かされる身体を前面に出すという点で、今回の神村のアプローチは明らかに、1960年代初頭にNYジャドソンチャーチで活動を始めポストモダンダンスの流れを牽引したダンサーの一人、トリシャ・ブラウンの、とりわけ70年代のカンパニー作品を意識していた。動きを何かの表現としてではなく加算しうるオブジェクトとして扱い、さらに複数のダンサーの動きをシンクロさせることによって、「歩く」「しゃがむ」「腕を挙げる」といった簡素な身振りさえも汎用可能な、つまりその人の身体と切り離すことが可能な運動として浮き出させてみせる。動きを身体から分離して対象化するというアイディアは、「複雑な動きを身体の中で単純な線として感じたい」とワークショップの案内で語られていたとおり、神村自身の動きをめぐる探究の方向性でもあるだろう。

 だがゴールは、運動をつかさどる法則それ自体を見せることにあったのだろうか。作品の終盤、列をなす5人がタテ・ヨコに進む「アルゴリズムこうしん」的な動き-その動きはあらかじめ一人が「1、2、3、4…」とカウントしながら見本を示しておいたものだ-をする。ピタリと息のあった90度の方向転換。複数のダンサーが動くカンパニー作品において、動きを開始するタイミングの一致・不一致は、法則の顕在化の度合いを左右する重要なポイントだろう。あの「アルゴリズムこうしん」における従順な身体において極まっていたように、動きが完全に法則に還元可能になるとき、リアルであったはずの舞台空間はもはや純粋な幾何学的空間に変わっている。舞台上にあるのは、いわば身体なきノーテーション(記譜)そのものだ。幾何学的空間はスペクタクルの空間ではないにしても、観客のいる空間ではない。あえて差異を強調するなら、これはトリシャ・ブラウンが空間を意識する仕方とは決定的に異なっているといえよう。しばしば野外で行われるブラウンの作品において、空間は思いがけない物音や凹凸に満ちており(意図的に音が出されることさえあった)、そのひとつひとつが法則に従うことをスリルに満ちた綱渡りに変えていた。与えられる法則は、それをいかにこなすかという自由度を高めるためにこそある「ゲーム・ルール」であったはずだ。そして何よりブラウンは、タイミングを合わせなければならない他のダンサーと、プレッシャーを与えてくる観客のあいだで踊っていた。

 もし純粋に法則を見せることがこの作品のゴールであったとすれば、最後、5人がそれぞれの身体を執拗に痙攣させたあの長く暴力的な時間は、かなり異質な要素にみえる。身体を遠心分離機にかける実験のようなあの時間は、結果として、疲労やひきつりといったノーテーション不可能な身体の成分を大量に抽出していた。あれが作品を終わらせるためのカタルシスだったなどと思いたくないし、かといって法則に対する身体の反乱というありがちな解釈をしても面白くない。身体と運動を分離する実験から何が生まれてくるのか、その成果を今後期待して待ちたい。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第30号、2007年2月21日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
 伊藤亜紗(いとう・あさ)
 1979年東京生まれ。東京大学大学院にて美学芸術学を専攻。現在博士課程1年。ダンス・演劇・小説の雑食サイト「ブロググビグビ」も。

【上演記録】
神村恵カンパニー「山脈」(冬のサミット2006 参加作品)
こまばアゴラ劇場(2007年2月3日-4日)

振付・構成:神村恵
出演:岡村泰子、坂本知子、原田香織、古館奈津子、神村恵
音響:牛川政紀
照明:三枝歩
宣伝美術:河上聡
※2/3 終演後アフタートーク。ゲスト:武藤大祐(ダンス批評)
料金:前売一般2000円・当日一般2500円/前売学生 1800円・当日学生 2300円


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