◎今、欲しいのは浮く力。次に欲しいのは、
村井華代(西洋演劇理論研究)
1999年以来、(財)地域創造と東京国際芸術祭(TIF)が続けてきたリージョナルシアター・シリーズ。「東京以外の地域を拠点に活躍し、地域の芸術文化活動に貢献している若手・実力派劇団を紹介する企画」(公演パンフより)である。これまでは複数の地方劇団の出張公演のような形だったが、今年度は企画を一新し、「リーディング部門」と「創作・育成プログラム部門」の二部門制となった。前者に参加した団体の中から特に選ばれた一名の作家もしくは演出家が、後者において翌年度TIFでの舞台上演のスカラシップを受けることができるという仕組みだ。俳優やスタッフは在京劇団の中から招集、しかもベテラン演出家がアドバイザーとして後方支援してくれるという。(財)地域創造とTIFは「より質の高い創造的な演劇と芸術文化環境づくりを地域で推進し、全国に発信していくために」(同上)方針を一新したとのこと、それにしても選ばれた当人にとっては夢のチャレンジだろう。
その一人目の挑戦者として見出されたのが、札幌を拠点に活動している北川徹である。筆者は初見だが、2003年には『うみ。やま。ひと。』(HAPP)で日本演出者協会若手演出家コンクール審査員特別賞も受賞している。リージョナルシアター・シリーズには2001年『遊園地、遊園地。』(TPS)で参加している。過去の全参加団体を対象とした今プログラムの初回に特に選出されたのだから期待の程がうかがえよう。1971年生まれ、ロンドン・マイム・スクールに学び、演出も劇作も俳優もこなす。東京でのサラリーマン時代もある。その彼が賭けてきた自作・自演出作品が『浮力』だ。サラリーマン生活が生きてか、何がどうと言うわけでもない人々の姿が、優しい、しかし醒めた手付きで描かれた作品である。
地球温暖化による水位上昇のため、宇宙に新天地を求める豊島区の人々。西巣鴨の旧朝日小学校(現・にしすがも創造舎)ではその宇宙開発に携わる人材の面接が担当官(稲毛礼子)によって行なわれている。公募で集まったのは4人の男たち。妻に逃げられた生真面目な40代後半(猪熊恒和)、崩れた若者がそのまま中年になりかかった態の男(下総源太朗)、ソバージュ頭の団塊ジュニアといった感じの男(多門勝)、現実的で即物的な20代(足立信彦)。椅子が一つ空いているが、そこに座る予定だった候補者は、理由こそ明かされないが一昨日死亡したという。4人は、言われるままに自らの応募動機や生い立ち等について語り始め、舞台は彼らの記憶の遡行の場となる。担当官を含めた5人が互いの人生の登場人物となりつつ人々の人生がモンタージュで再現され、宇宙進出プロジェクトに適した人材か否かが試されるのである。その間にもひたひたと東京の足元には水が迫り、西巣鴨を通る地下鉄三田線は浸水で運行を見合わせる。彼らの内面を、思い出の性質を裁くのは誰なのか?それは問われも明かされもしないが、結局、担当官は、候補者全員不合格と告げる。「浮上しようとする力がない」という理由で…。
この舞台を構成する人々は、皆どこかで見たような、具体的な「地域」と「世代」に属する日本人だ。各々がどこの出身であるかということは各々のエピソードの中で明かされる(一部は朝日小学校の卒業生であって、昔は裏に何があった云々の昔話を交わす)。だからといって地域性やルーツを盾に自分を主張しようとする人物はいない。フツーの日本人が大概そうであるように。都道府県名を名札に付けた人形が舞台上にたくさん並びもするが、皆のっぺらぼうである。
逆に「世代」は、はっきりとした軋轢を示す。面接にきちんとスーツを着てくるのは40代後半と20代の二人で、だらしないのは中間の二人。彼らは明らかに、バブル経済とその後を社会人として経験した世代と、その恩恵を受けて社会に出た世代、後始末の中で育った世代を代表している。もう一つの軋轢要因は性別である。紅一点の担当官は彼らの人生の様々な女性の役を演じるが、どの役で出てきても彼女はダメな男たちを自分の世界から締め出しているか、無言で許している。男たちは彼女を幸せにすることができない。
例えばその世代と性の軋轢の一番無残な姿をさらすのが、ローティーンの娘と二人で暮らす40代後半の男だ。自分自身、会社で下の世代からはオヤジ扱いされるが上司には未だに「若い人」と言われる中途半端で専門性のないサラリーマン。それなのに定年は7年後に見えている。あるとき娘が深夜、親友がケータイで自分を呼んでいるから彼女の家に行くと言い出す。許可するわけにいかない父はいろいろ代替策を提案するが、父を軽蔑する娘が聞くはずもない。互いの「今なすべきこと」は全く異なり、争いたくはなくとも全く心を酌み合うことができない。「サイテー!」と娘は父に世代的用語を投げつける。しかし父はこういう娘に対する強力な世代的一言を持たない。
いくつも描かれるこうした「ありそうな」エピソードは、やがてどれが誰の人生なのか、本当に一人の一貫した人生の像なのかも曖昧になってくる。ただ残って行くのは彼らの属する世代と性の間の惨めな軋轢、そしてできることなら相手に優しくありたい、愛し愛される人間でありたいという切ない願いだ。しかしそんな抽象的煩悶に具体的な個人的行動は伴わず、従って全員「浮上する力なし」なのだ。
性別はともかくとして、○○世代という日本人の分類は、情報の同時発信と大いに関係している。テレビやラジオが流す同一情報を、そのとき何者としてどのように受け取ったかが日本全国に均一に問われるので、同年代なら北海道と沖縄でも同属意識を持ちうるのに、3歳違うだけの大学の後輩に異様なギャップを感じることになる。オトナ社会に入り、自分も他人も1ピースでしかない世界に慣れれば多少の年齢差による分類など無意味になるが、今度は「何に属することができたか」の社会的グループ像に積極的に依存する。そこに立派に属することイコール自立・存在と捉える風潮が生まれる。すると次に続くのが、その社会的グループ基盤が失われた途端、世界から存在を拒絶されたと感じる層の出現である。身一つになった自分が拠って立てる基盤はどこなのか。かつて属していた基本的グループである「世代」、あるいは「地方」や「家族」、それが再び拠り所になりうるのだろうか?
この足下の土が抉られるような今日的焦燥は、劇中では水位上昇のニュースや死亡した候補者の存在によって象徴される。尤も、ここで基本的グループを「民族」や「国家」や「宗教」などに求められないところが日本のミソで、同じTIFによる中東の招聘演劇シリーズにおける社会と演劇の関係に比べると、こうした日本人のローカルなアイデンティティ障害は随分ナイーヴに見える(そこにきてアドバイザーは宮城聰。偶然か?)。が、結局のところ、こんな日本人のローカルかつナイーヴな問題を描けるのは日本人しかいない。日本人が描くべき課題なのである。
『浮力』は、育成枠ながら、この課題を描いて十分評価できる作品だ。勿論、ナイーヴな問題をそのまま作り手のナイーヴなゴリ押しで扱われてはたまらないが、『浮力』は、上演中に劇作家兼演出家の存在がふっと消えてしまうような手法で、現代の(20~40歳代の)日本人の姿を描き出している。その手法を私は「優しい」と評する。料理で優しい味と言うのと同じで、味がないのではなく、でしゃばらず調和して素材を美味しく感じさせてくれる。
昔ながらの言い方をすれば、俳優が台詞を言わされているのではなく、人物本人としてそこにいるかの如く感じられた瞬間が何度もあった。さりげなく嬉しい。よくあるようで、なかなか最近では得られなくなった感覚だ。アフタートークでアドバイザー宮城聰が「劇中で人物の語るエピソードはどこまで俳優本人のものか」と北川に訊ねていたのがよい証拠だろうが、実際に俳優の語る台詞が俳優本人の体験に基づくかのようにしみじみ聞こえた。例えば、幼い頃に祭で怪しげな見世物師に騙されて小銭を取られたとか。愛媛の海上で母親の散骨をしたら逆風で骨の粉が船に戻ってきて、それを係が白い箒で冷静に掃いたとか。幼少時剣道をやっていて、左利きなのに竹刀の持ち方を右利きと同じに矯正されたとか。営業の心得としてス○バはケータイが使えないので打ち合わせにはド○ール、しかもフットワークの軽いところが見せられる二階を選ぶとか。実際には新聞や街で見聞きした話を主体に、俳優個人の情報も合わせてつなぎ合わせたものだという。どうでもいい話ばかりだが、俳優の身体はそうしたヨタ話や愚痴も愛おしく新しいものに変えてくれる。特に猪熊恒和と下総源太郎は、等身大の人物を演じて滲むような味わいがあった。演劇の構えにもいろいろあるが、今回は俳優に預けて吉である。
空間の使い方も思い切りがよく、全体的に素直な力のある作品だった。苦言を呈するなら、男性4人が等身大であるのに比べ、女性の性格付けがやや紋切り型である。現実に生きるのは皆ダメ男で、女の子はその現実から一段浮いたレベルで純粋を保ち、超越的な立場から男性を攻撃するか、そうでなければ傷ついているというのは「世代的」な表象だ。稲毛礼子はさらりと演じて嫌味がなかったが、劇作の方法としては手垢がつきすぎた感がある。もう一つ、チラシの作品紹介が抽象的に過ぎて、まるで「ナイーヴな」舞台であるかのような印象を先に与えてしまった(TIFの公式HPに同文掲載)。実際にはそんな先入観を裏切る出来だったので、これが集客に影響したとすれば残念だ。
ともあれ、TIF「リージョナル・シアター創作・育成プログラム」第一作として上々の成果だったのではないか。この企画のみならず、TIFの母体NPO法人アートネットワーク・ジャパンが日本の演劇の公共性に注ぐ心血は並々ならぬものがある。公共の理念を追求実践しているのが公共団体ではなく民間団体だというのはいかにも日本らしいが、実際に、演劇をとりまく日本の状況が近年大きく変化してきたと肌身で感じられるまでになってきた。メディアの浸透、ワークショップ等の地道な積み重ねが背景にあったことは言うまでもないが、TIFは最初からに意図してこの状況を牽引してきた団体である。公共演劇は近代国家にあって当然、そう思っている西欧諸国には想像しがたい努力のプロセスだったことだろう。「今回のフェスティバ
ルはまさに存続させることを最大のテーマとしているといえます」とディレクター市村作知雄氏はパンフレットに書いているが、万一にも存続不能などという理由で終わって欲しくはない。(3/10観劇)
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第34号、2007年3月21日発行。購読は登録ページから。本ページに掲載した写真の著作権は撮影者または提供先にあります。転載など使用の際は必ず許諾を得てください)
【筆者紹介】
村井華代(むらい・はなよ)
1969年生まれ。西洋演劇理論研究。国別によらず「演劇とは何か」の思想を縦横無尽に扱う。現在、日本女子大学、共立女子大学非常勤講師。『現代ドイツのパフォーミングアーツ』(共著、三元社、2006)など。
・wonderland 寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/murai-hanayo/
【上演記録】
『浮力』
にしすがも創造舎特設劇場(3月9日-11日)
作・演出:北川 徹
アドバイザー:宮城聰
照明:齋藤茂男
音響:相川晶
美術:加藤ちか
舞台監督:大川裕
衣装:竹内陽子
演出助手:柳原暁子
制作:飯田亜弓(ぷれいす)
出演:
猪熊恒和
下総源太朗
多門勝(THE SHAMPOO HAT)
足立信彦
稲毛礼子
東京国際芸術祭(TIF)2007 リージョナルシアターシリーズ創作・育成プログラム部門