◎「闇」はどこにあるか 描かれない「親との関係」
水牛健太郎(評論家)
昨年12月30日、ナイロン100℃の「わが闇」を見に行った。下北沢の本多劇場の前に出来た長い列に並び、千秋楽の当日券を求めた。階段に座布団を敷き、一段に一人ずつ、ジグザグに座る。一段上の人の脚が自分の隣に来る。ほとんど身動きも出来ない状態で、三時間も大丈夫かと心配だったが、芝居が始まるや、ぐっと引き込まれ、心配は忘れてしまった。
小説家・柏木伸彦は、じっくり創作に取り組みたいと田舎に引きこもる。従う家族は、妻・基子と三人の娘、それに彼を慕う書生。妻は神経を病んでいる。長女・立子が作家として才能を発揮し、メディアの注目を浴びる一方、夫婦関係は破綻をきたし、基子は、別居、入院、やがて伸彦に恋人が出来たことを恨み、彼の眼前で衝動的な自殺を遂げてしまう。
ここまでがいわば序章。それなりに複雑な内容なのだが、絶妙な会話に時折字幕での説明などを交えながら、テンポよく進んでいく。客席は徐々に暖まり、障子に映る基子の影が喉に包丁を突き立てるシーンで、温度が一段と上がるのが感じられた。
芝居の現在は、2007年初の冬から始まる。伸彦は年老い、基子の死の直後後妻に迎えた恋人も、ずいぶん以前に彼の元を去っている。立子は作家として書き続けているが、行き詰まっている。次女・艶子は性格に問題のある寅夫と結婚しいったん家を出たが、今は夫ともども柏木家に住んでいる。三女・類子は女優だが、妻子ある男性とスキャンダルを起こして柏木家に帰ってくる。相変わらず住み込んでいる書生を含めた家族に、伸彦を題材にドキュメンタリーを撮ろうとする監督と助手、女性プロデューサー、立子を慕う編集者などが加わってドラマが展開する。
田舎の家に住む三姉妹という設定は、言うまでもなくチェーホフの「三人姉妹」を連想させる。一家は周囲から浮き上がるほどの文化的な背景を持ち、気高く、それだけに生物として決定的に弱いとも感じられる。艶子が幼い子を火事で失って以来、一家には次の世代が誕生していないし、今後誕生することもなさそうだ。彼らは生きるということだけで傷ついていくような人たちだ。そんな彼らがりりしく試練に立ち向かう姿は客席の共感を呼ぶ。
立子を演じる犬山イヌコをはじめ、出演者たちの演技は素晴らしく、ゆったりした時の流れの中に、愛すべき人たちの姿を見事に浮かび上がらせていた。微妙な感情の動きを的確に表現する演出はもちろん、セットや、効果的に使われる音楽や映像など、すべてが極めてハイレベル。芝居が終わるや、手が痛くなるほど拍手をした。拍手は俳優たちを繰り返し呼び戻してなお止まず、脚本・演出のケラリーノ・サンドロヴィチの登場で最高潮に達した。劇場を去る観客の顔は満足げに紅潮していた。
ところが、である。距離を置いた方がよく見えるものというのは確かにある。下北沢から住まいのある三軒茶屋方面に、冷え込んだ夜道をとぼとぼと歩くうち、違和感が心の中に少しずつ広がっていくのに気づいた。自分にとって大変意外なことだった。不満など何もないと思っていたのに、しこりがどんどん大きくなって、ついには、この「わが闇」というお話に自分があまり納得していないことを認めざるを得なくなったのだった。
私が気づいたのは、「わが闇」というタイトルに見合うものが、実はこの劇の中にはないのではないか、ということだった。「わが闇」とは、立子が最初に書いた小説のタイトルであり、それは母親の狂気など家族の問題を意味するものであることが示唆されている。
ところが、このような示唆があってもなお、この「わが闇」という小説の内容はうまくイメージできない。正直に言うと、私には立子がそれほど実母・基子との関係に傷ついたように見えなかったからだ。基子の狂気はこの家族の抱える最大の問題であり、「闇」という言葉にふさわしい要素である。しかし、基子と三姉妹の関係はあまりきちんと描かれていない。
母親の魅力は少女にとっては大きい。狂気であってもなお、子供は母親に愛されたいと願い、だからこそ深く傷つく。それ以上に恐ろしいのは、実母と自分は遺伝によってつながっているという意識である。女性どうしでもあるからなおさら、娘たちは、狂気の実母と同じものを自分たちの中に折に触れて感じるはずである。狂気の母を持つということは、自分たちにも発狂の可能性があると考えるはずだ。このようにして、実母はその死後も娘たちに対して無視できない影響力を行使する、はずだ。
だが、「わが闇」では、実母・基子の問題は、基子が死んだ時ほぼ解決したように見える。立子と艶子の間では父親・伸彦の愛情を巡るライバル関係があり、類子は義母を嫌っている。だが実母の問題はスルーされており、それが「闇」が舞台上に立ち上がってこない理由となっている。
実母だけでなく、奔放な女性として登場する義母、実母と同じ「顔」を持って後に登場する女性プロデューサー(基子と同じ女優が「お母さんとそっくりの顔」という説明つきで演じる)、また艶子の夫・寅夫にも言えることだが、彼らはみな、三姉妹にとって一種の「天災」のように描かれている。彼らははた迷惑で人の気持ちを傷つけてかえりみない人たちであり、三姉妹は彼らの襲撃を、首をすくめてじっと耐え忍ぶ。理不尽な攻撃者と三姉妹の間には、家族であっても特に共有するものがない。つまり、三姉妹と彼らの間には「関係」というほどの関係がないように思えるのである。例えば、艶子が極めて恥知らずな自分の夫・寅夫を見る視線は立子や類子が寅夫を見るそれと同様冷ややかなものであり、何で艶子が寅夫に惹かれたのかよくわからない。ある場面で説明が加えられるのだが、説明のための説明のように感じた。
気高い三姉妹と、理不尽な攻撃者たち。実はこの二分法こそが、観客の満足度の高さをもたらしているのではないか。観客は安心して三姉妹に感情移入し、攻撃者たちを憎むことができるからだ。三姉妹の人間性は深く描かれているため、決して安っぽい印象は与えず、気品に満ちた舞台となっている。しかし、劇の構図は意外なほど単純なものだ。そこにマジックがある。
重要人物である父・伸彦も、実際に舞台に姿を見せるのは序章だけであり、それ以降は二階で寝たきりになっているという設定だ。また義母は序章で伸彦の恋人として登場するほかは、一場面しか登場しない。しかも、彼女を嫌っている類子とは舞台上で出会うことがない。家族ドラマであり、親との関係が主題になっているように見えて、実は親との関係が直接描かれる場面がほとんどないのが、この劇の大きな特徴となっている。
「親と関係がない」ということは、人間に大きな自由の感覚をもたらす。ナイロンの芝居を数多く見たわけではないが、そこに比類のない自由の感覚があるとすれば、ナイロンの芝居は「親と関係がない」からではないか。
あくまで感覚の問題で、そこに親子関係が全く存在しないという意味ではない。以前みた「ナイスエイジ」にも親子は登場した。しかしその親子関係は、やはり通常の親子関係とは全く違うもので、親に威厳がないのはもちろん、親というものが存在するだけで子供に対して持ってしまう、有難さと裏腹のうっとうしさのようなものがなかった。親子と名づけられてはいるが、実は対等の人間関係だった。「親と関係がない」というのはそういう意味だ。
世の中のほとんどのことは、親などとは関係がなく描ける。ただ、そこに「闇」は生じない。「闇」は誕生の瞬間と現在の自分との間に横たわる薄暗いところ、自分と親の意識がはっきり分かれていなかった時間の中に源を持つものだからだ。この劇に登場する動機不明の攻撃者たちに闇はある。しかし、三姉妹たちの側には闇はない。つまり、この作品には「わが闇」はない。そういうことなのだ。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第75-76合併号、2008年1月9日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
水牛健太郎(みずうし・けんたろう)
1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。大学卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。そのほか経済評論も手がけている。
【上演記録】
NYLON100℃ 31st SESSION「わが闇」
下北沢・本多劇場(2007年12月08日-12月30日)
作・演出
ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演
犬山イヌコ みのすけ 峯村リエ 三宅弘城 大倉孝二 松永玲子 長田奈麻 廣川三憲 喜安浩平 吉増裕士 皆戸麻衣 岡田義徳 坂井真紀 長谷川朝晴
【大阪公演】
イオン化粧品シアターBRAVA! 、2008年1月13日(日)~14日(月・祝)
【札幌公演】
道新ホール、2008年1月17日(木)~19日(土)3 ステージ
【広島公演】
アステールプラザ大ホール 2008年1月23日(水)19時開演
【北九州公演】
北九州芸術劇場中劇場、2008年1月26(土) 13時/18時開演 27(日)13時開演
【新潟公演】
りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館・劇場、2008年1月30日(水)・31日(木) 両日とも19時開演
協力:アミューズ ジャングル イイジマルーム キューブ マッシュ オフィス’s 大人計画 オフィスPSC ダックスープ
東京公演後援:TOKYO FM
大阪公演運営協力:サンライズプロモーション大阪
助成:文化庁・芸術創造活動重点支援事業
【企画・製作】
(株)シリーウォーク
「わが闇」を見た
土曜日は、今年最初のえんかんの観劇会でした。本当は金曜夜に行くはずだったのです
某紙で舞台評を担当している者です。
劇評を楽しく拝見しました。
(JMMの経済評論も拝見しています。)
「闇」が描かれていないというご指摘、じつは小生、水牛さんとは逆に、芝居を見終わった直後に感じて、客席の歓声についていけない思いを感じていました。
ところが、あとになって、「わが闇」という立子の処女作の内容が説明されないように、「闇」は謎として、あえて描かれていないのだと納得し、作・演出のケラの芝居作りに舌を巻いた次第です。
私見によれば、母親に自殺された子どもは、心の奥に罪責感を育んでしまいます。3人の娘の半生はそれぞれ自己処罰へのドライブによって決定されてきたのではないでしょうか。「闇」は「説明」も「描写」もできないからこそ闇だというのが作者の意図ではなかったでしょうか?
私の1月劇評は、小生のブログに転載したのでご覧くだされば幸いです。
http://murakaminaoyuki.blog…
村上直之さま
コメントをありがとうございます。また、JMMも読んでいただいているとのこと、恐縮です。
さて、劇評を拝見しました。なるほど、と思いました。そういう解釈もあるのか、と思ったのですが、自己処罰ということについては、正直よくわかりません。
結局批評というのは、評者の資質や経験、その他色々な要素に左右されるのかもしれません。私はエキセントリックな親を持った子どもの問題はよくわかるのですが(理由はご想像にお任せします)、親の自殺に対して子どもがどのように反応して、それがどのように生き方に影響していくのかというのは、身近に例もないし、どういうわけか、うまく想像もできないのです。
そして、ケラさんにはそれができるのか、あるいは無意識にでも芝居の中にその要素を反映させていけるものかも全くわかりません。否定しているのではなく、本当にわからないという意味です。
そんなわけで、コメントを頂いたのですが、その内容自体に関しては適切に反応できないような気がしています。ただ、芝居の解釈の可能性の大きさとか、劇評の内容と評者の経験や資質の関係とか、そういうことを考えさせられるという意味で興味深いコメントでした。
改めて、ありがとうございました。