◎舞台と客席に体温を持つ人間が なりかわられることへの反措定
高木龍尋(大阪芸術大学大学院助手)
小劇場演劇に限ったことではないかも知れないが、演劇の、または劇作の大きな出発点となるのは「人間探し」「自分探し」と、「今」という時間・時代の認識なのだと思う。けれども、このところ劇場でよくよく感じるのは、現実の人間や世界には触れあわないものが増えてきているのではないか、というひとつの傾向である。
舞台の上は虚構であり、現実とは切り離された空間であることは事実だが、その虚構が現実の私たちへと働きかけてくる。舞台の上がどんなに虚構であったとしても、現実の私たちとの共通項を持っていたり、現実の譬喩であったり、人間の根源的な問題をついていれば、私たちは揺り動かされる。現実と触れあわない作品には、その意識や手法がないのだ。でも、観客を楽しませることには十分に意識して、笑いなどをとるツボもわかっているようで、観て損をしたと感じることはないかも知れない。だから、害があるかといえば害はない。でも、少なくとも私にはとても不満である。
デス電所の作品は、舞台の裏側にご縁のある人がいることもあって、何作か観ている。正直に言えばこのところ不満の残るものが続いていたのだが、今回の「残魂エンド摂氏零度」は出色であったのではと思う。
作品の舞台は真っ白のどこか寒そうなところの未来。世界、と言おうか人間が居住している区域はレゴブロックを組んだようなものになっていて、科学技術は相当な進歩を遂げている。その圧倒的な科学に抵抗するテロリスト集団が勢力を拡大し、レゴブロックのどこかで政府とテロリスト集団は始終ドンパチつづけているようである。
リイチはアンドロイドのニアと暮らしていた。リイチは両親の遺産を相続して、ほとんど外に出ることなく生活し、携帯やパソコンといった通信機器が発展し自己思考を持ったようなアンドロイドのニアはリイチの世話をいつも焼いている。ぼんやりしたリイチよりもニアの方が生活の主導権を握っているようであり、チャットによる外部との交際も、ニアの方がその対面を気にしているようである。
そのようなところに、遺産目当ての女・コッポラが近づいてくる。ニアは外部との接触を増やすためにもとリイチとコッポラをそれぞれにあおるが、うまくいきそうにはない。それどころか、ことごとく失敗するリイチを見てニアは楽しんでいる。
また、リイチの家の維持のためエンジニアのアゴンがよく訪ねてくる。アゴンの弟のタカンが少し前までリイチの家の担当エンジニアだったのだが、急に行方不明になったため、兄のアゴンが代わりに来るようになったのだ。だが、アゴンは仕事よりもリイチの家で何かを探すことに必死である。ニアはそれに気づいてアゴンを疑っている。
気色悪い人間(?)関係の蔓延る家が、テロリストの攻勢によって危険区域に入ってしまう。政府の避難命令が出され、役人のササンがやって来て家を出るように勧めるのだが、リイチとニアは聞き入れようとしない。その折、ササンは戸籍に名前があるのはリイチではなくニアであり、避難命令を受けるべきはニアだと言う。一方のニアは戸籍の方が間違っているのだと言い張る。
何度目かの避難の催促の際、ササンはあることに気づく。それは、命令が出されて避難させなければならないのは戸籍に載っている人間であり、戸籍から抹消された人間、つまり死んだ人間を避難させる必要はなく、避難させられなかったと上司に怒られることもない。ニアを死んだ人間にしてしまえばよい、ということであった。銃口を向けるササン、ニアは喚き騒ぐが、ササンはコッポラがリイチに食べさせようとして失敗し玄関の前に捨てられていたしびれ薬入りシュークリームを拾い食いしてしまっていて、そのまま倒れてしまう。
そこへテロリストが侵入してくる。テロリストのリーダーはアゴンであった。実は、タカンはエンジニアという表の顔を持ちながらテロリストのリーダーをしていて、タカンが行方不明になったと聞いたアゴンはテロリストのリーダーまで代わりにしていたのだ。この極限状態に陥ったことによって、ニアとアゴンの企みが明るみに出る。
ニアはやはり人間であり、リイチがアンドロイドであった。ニアはエンジニアとして家に通ってくるタカンに恋心を抱いていたが、タカンがテロリストのリーダーであることを知ってしまい、銃を向けられた。撃たれることはなかったが、ニアは心に傷を負い、その傷を隠すために自分がアンドロイドでリイチが人間であるという嘘を思いついた。その方が人間関係にも遺産をめぐる問題にも都合がよかったのだ。
アゴンの方は、エンジニアとして仕事ができてテロリストのリーダーでもあるタカンが、弟ではあるけれども憧れであった。そのタカンが行方不明と聞き、アゴンは自ら進んでその代わりになろうとした。だが、タカンが二度と現れないという確証はない。だから、タカンが消息を絶ったというニアの家で、必死にタカンの死体を探していたのだ。アゴンはタカンの死を確認して、タカンになりかわることができたと安心したかったのだ。だが、タカンは地下に潜るために死んだことにしただけであり、タカンが生きていることを知っていたテロリストたちはアゴンを最初から信用していなかった。アゴンの企みはひとり相撲でしかなかったのだ。
ニアとアゴンの企みは潰え、家を出てようやく避難する。それは自分を縛りつけていた自分自身との訣別でもあった。
この作品で最も重要な鍵は、なりかわる、ということである。ニアはリイチになりかわってアンドロイドのふりをした。アゴンはタカンになりかわろうとして失敗した。これは作品の登場人物の行動であるが、この他にもなりかわる事柄が存在する。リイチは人間の形をし、かなりひ弱ではあるが人間と同じように思考する。通信機能も備えていて、ニアはリイチにコードを接続することで、ネットの世界へ入ってゆく。生身の人間との関係を、人間と同じようなアンドロイドとの関係に置き換え、不都合な煩わしさがない状況の関係のみで済ませてしまう。それは飽くまでも使用者と使用される機械との関係でしかない。また、ネットの中だけで外部との交流をし、生身や実体を知らないままで友達をつくる。現実の世界では成り立たない関係を仮想現実の中でつくり出し、自らつくり出した自分という虚構を維持することに躍起となる。友達とはいいながら、そこに自分の正体を見せるわけにはゆかず、現実よりも簡単に疑心暗鬼が蔓延る。通信回線の向こうにはおそらく誰かがいるであろう世界なのだが、自分の言葉も相手の言葉も自分自身でしか判断することのできない、おそろしく孤独な世界が現実になりかわる。
ふと、リイチが人間になりかわろうとしていたとしたら、と考えてみる。人工知能も人間がつくったものなのだから、制作者たる人間の想像を超えることはないのかも知れないが、もし、私たちが日頃使っている携帯やパソコンが自らの意思をもって、人間を欺き始めたとしたら、薄ら寒い恐怖が忍び寄ってくるようである。
人間が機械になりかわられる日、それは人間が存在する必要がなくなる日に他ならない。いや、現在の先進国の産業形態などをみると、それは徐々に迫ってきているように思われる。その気配を示したのが舞台装置全体に塗られた白であり、タイトルの「摂氏零度」なのであろう。
おそらく、と希望的観測でしかいえないが、今後百年経っても、人間は演劇を生身でやっているだろう。観客も生身で観ているだろう。虚構であるから実体とは言い難いかも知れないけれども、体温を持った人間が舞台と客席にいる。役という仮想に入っていながらも、この作品自体、演劇という芸術自体が、何ものかになりかわられることへの反措定なのではないだろうか。ニアが家を出る寸前、「一応、便利なものを破壊するテロリストだから」とリイチはテロリストの銃撃で破壊される。純粋で従順な(もちろん、機械なのだから)リイチが破壊されることは哀れなようにも感じたのだが、それと同時にひと刷毛の安堵のようなものを抱いたのは、このようなところからきたのではないだろうか。(2007年11月7日、大阪・精華小劇場)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第77号、2008年1月16日発行。購読は登録ページから)
付記 大阪公演では作品の本筋とは関係のないところで日替わりゲストがテロリストの一員として登場した。日によっては楽しめたのかも知れないが、私が観た日は……正直なところ、ない方がよかったような気がする。
この文章を書くにあたり、デス電所制作の西川悦代さんにパンフレットを送ってもらった。持つべきものは愛すべき後輩である、と思いつつ感謝。
【著者紹介】
高木龍尋(たかぎ・たつひろ)
1977年岐阜県生まれ。大阪芸術大学大学院芸術文化研究科博士課程修了。現在、同大学院芸術研究科芸術文化学専攻嘱託助手。文芸学専攻。
【上演記録】
デス電所「残魂エンド摂氏零度」
大阪公演 精華小劇場(2007年11月3日~11月25日)
東京公演 下北沢ザ・スズナリ(2008年1月11日~1月14日)
作・演出 竹内佑
音楽・演奏 和田俊輔
出演
丸山英彦、山村涼子、豊田真吾、田嶋杏子、福田靖久、米田晋平、松下隆、竹内佑
スタッフ
作・演出 竹内佑
音楽・演奏 和田俊輔
舞台監督:中村貴彦
舞台美術:池田ともゆき(TANC!池田意匠事務所)
照明:西山茂、加藤直子
音響:三宅住絵/映像:松下隆、本郷崇士
振付:豊田真吾
衣裳プラン:遊光
小道具:原田鉄平(Iron-Level)
宣伝美術:渕野由美
写真:イトウユウヤ
制作協力:金田明子
制作:小林みほ(pinkish!)、西川悦代
主催・企画製作:デス電所
精華演劇祭vol.8精華演劇祭スペシャル選出作品
平成19年度文化庁芸術祭参加公演