「ヤン・リーピンのシャングリラ」

◎滅びゆくものは美しく、喪われたものだから懐かしい
文月菖蒲(古書・骨董研究家)

「ヤン・リーピンのシャングリラ」公演チラシ東京渋谷のBunkamuraで『ヤン・リーピンのシャングリラ』は喝采をもって迎えられた。同時期、チベットでは2008年3月10日から始まったデブン寺の僧によるデモを発端として大規模な暴動が発生し、中国政府への抗議活動と中国政府による鎮圧行動が続いている。華やかな祭典、北京オリンピックを目前に控え、中国における少数民族のあり方が改めて注目されている。それは中国が大国だからこそ人道的であるべきだという理論よりも、アメリカを中心とした近代感覚が無意識に抱いている、文化・歴史への強い憧憬に近い。

中国雲南省には25の少数民族があるという。ヤン・リーピンは中国雲南省西部の少数民族ペー族出身のダンサーで、2000年から約15ヶ月を費やし、当地の歌舞を調査・収集した上で、2003年に『シャングリラ』(中国では『雲南映像』英語では『Dynamic Yunnan』)という1本の作品に仕上げた。パフォーマーがすべて当地の少数民族出身の素人であること、少数民族がもつ独自の踊りや歌にほとんど手を加えていないことが特徴である。

作品は非常にユニークだ。維新派が「舞台を祭りにした」ものだとすると、シャングリラは「祭りを舞台に乗せた」もので、博覧会を覗いているような心持ちだった。ナマハゲや御柱祭を舞台上でみている感じ。それでも祭りの様式というのは凄い。様式を行うだけでそこから若い男女の応酬、性的な解放、女性の強さ、神への畏敬など、祭りのもつテーマは沸き起こる。観客にフェイクの祭りを覗いている感覚はない。昔から繰り返されてきた人間の営の疑似体験に近い。

プロローグ「創世記」から始まり、「太陽」、「大地」、「故郷」、「聖地巡礼」、エピローグ「孔雀の精霊」と続く。音楽に合わせ太鼓・銅鑼・拍子木が独特のリズムを奏で、各民族の祭りが万華鏡のように繰り広げられる。

忘れがたいのは“腰歌舞”(フアヤオイ族歌舞)。刺繍の映える赤い衣装を身にまとった数十名の少女たちが歌い、踊る。高く澄み切った声は力強く、ただ生きる喜びに満ちている。単調なリズムは段々早くなり、彼女たちはひたすらエネルギーを増していく。この力が都会にはない。生きている美しさに満ちている素朴な女たち。イメージの中にしかいない、強くて若い女たちだ。

手のひらに目を描いて、菅笠で顔を隠して踊る“女儿国”(女性の国)も凄い。

「太陽は休んでもいい、つきも休んでもいい。でも女は休まない。
もし女が休んだら、かまどの火が消える。」(“女儿国”(女性の国)より抜粋)

動物や太陽を模した道具、ぼろきれのように大地に打ち付けられる肉体、風にはためく旗、昆虫の交尾を模した動き、経文の書かれた経典の筒。踊りの中には地、水、生物、風、火、神と彼らの生活に根付く全てが盛り込まれている。私たちは彼らの核を目視し、感嘆する。連綿と連なってきた民族の核。大地への愛情と少数民族という明確なルーツ。唄では彼らの理想郷すら語られる。

「連山の真ん中に金色の峰が聳え立っていて
その金色の峰の中に金色の湖があり
その金色の湖のはたに金色の一本の木が立ち
その金色の木の上に金色の鳥が羽を休め
その金色の鳥からしあわせの歌が聞こえてくる」(“童謡”より)

私が感じたのは圧倒的な懐かしさと、既に喪われてしまったものの匂いだ。
アイデンティティーが個人で形成されるというのは米国式の考え方である。1人一つずつPCをもち、「私は●●です」とアカウントを取得する時代の考え方。しかし、旧来は人種、民族、国、宗教、イデオロギーがアイデンティティーの根っことして存在していた。自分が何のために存在するかというよりは、自分はどうやって死んでいくかということに古来から決まった答えがあり、指針があり、安心して生きていた。死に方が決まっているからこそ、生きている間にやるべきことや、限界が明確になる。限界があるからエネルギーを放出させるための祭りや、縁を結ぶためや宗教のための儀式がうまれ、それが文化となる。アメリカが先導する近代感覚をもつ人々はその制限にこそ羨ましさを感じ、希少価値を感じるのである。

皮肉なことに近代感覚が憧憬するアイデンティティーはまさに近代化によって喪われた。
調査からはや8年、少数民族には近代化され、ジーパンを履き、1年かけて美しい刺繍を施すことや祭りそのものを止めたものも多いという。この美しく荒々しい祭りの中で、もはや舞台の上にしか残っていないものがあるのだ。演者の中には年に一度しかたたかない銅鑼をステージ毎に叩くことに、躊躇するものもいたという。同様の違和感は先に述べた「博覧会を覗いているような心持ち」として観客にもある。古き祭りを1点、1点眺める。もちろんそれが、興行的に少し改編されていること、農村で働いていた演じ手を都会に連れ出してきてしまったヤン・リーピンに対して、文化を損なうという考え方もあるだろう。

だが実際には中国の紅く、乾いた大地でこの祭りは行われていない。生活が変化するということは、旧来の形式が変容し、喪われていくことである。ヤン・リーピンが世界を巡り、彼らを舞台に上げたことによって、加工されてはいるものの、踊りと歌自体は残った。そしてそれは美しいのだ。滅びゆくものだからこそ、羨ましく、喪われたものだからこそ、観客にとって懐かしい。そのことをすら、ヤン・リーピンは計算していたのではないかと、私は考えてしまう。

この時期に少数民族の存在を世界に触発したこと、そして結果的にサンプルとしてその歌舞を保存することになったこと。ヤン・リーピンの功績は、大きい。

チャン・イーモウ監督の素晴らしいプロモーション映像があるので興味のある方は是非ご覧頂きたい。
http://www.bunkamura.co.jp/broadband/movielist/movie_orchard.html#o_liping
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第89号、2008年4月9日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
文月菖蒲(ふづき・あやめ)
古書・骨董研究家。バイヤーの嗅覚をベースに本・漫画・演劇・ダンス・歌舞伎の分野をたゆたう。

【上演記録】
芸術監督・構成・主演:ヤン・リーピン(楊麗萍)
出演:雲南映像集団
▽東京公演
Bunkamuraオーチャードホール(2008年3月14日-22日)

・全席指定S席10,500円/A席8,400円/B席5,250円
主催:TBS、Bunkamura、(株)アルバックス
後援:中国大使館

【参考情報】
・少数民族の日常舞う ヤン・リーピン主演「シャングリラ」(asahi.com 2008年03月10日14時50分)
・Dynamic Yunnan ヤン・リーピンの『シャングリラ』日本公演 制作発表(シアターガイド 2007.10.04)


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