「ムネモパーク」(シュテファン・ケーギ構成・演出)

◎舞台メディアを人びとが出会うツールに 演劇のフレームから離れて
大岡淳(演出家・批評家・パフォーマー)

「ムネモパーク」公演チラシヨーロッパで人気を博するリミニ・プロトコルのメンバー、シュテファン・ケーギ構成・演出による『ムネモパーク』は、期待に違わず見応えのある公演であった。

アートプロジェクト・ユニット、リミニ・プロトコルの舞台は、驚くべきことに、既に俳優を必要としていない。舞台に登場するのは、ごくごく普通の生活者たちである。その生活者たちには、演技することすら求められていない。彼らは基本的には、舞台上で、段取りに従って身の上話を語るのみである。そして、様々なテクノロジーが、この身の上話を盛り立ててゆく。従って、わかりやすく言えば、リミニ・プロトコルの舞台はドキュメンタリー演劇である。だが、俳優も演技も存在しない舞台を「演劇」と呼んでよいのかどうかすら、議論がわかれるところであろう。とすると、これは何なのか。ドキュメンタリー・パフォーマンスと呼んでおけば、とりあえず間違いはないだろう。強いて言えば、ピン・チョンのような演出の系譜に連なるものである。ピン・チョン演出『undesirable elements』も、無名の生活者たちが出演し、己の人生を物語るパフォーマンスであった。

『ムネモパーク』の面白さを言葉で説明するのはなかなか難しいが、とりあえずざっくり解説してみよう。舞台上には、スイスの風景を緻密に再現した1/87スケールのジオラマが並んでおり、このジオラマの中を、鉄道模型が走る。列車には小型カメラが据えつけられており、この小型カメラに映るジオラマの風景は、舞台中央奥に設置されたスクリーンにそのまま映し出され、観客の目に入る。この構造によって、私たち観客は、映像を介して舞台上に作られたスイスの模型の中に存在すると同時に、現実にはその外にも存在するという、不可思議な二重性を体験することになる(だが思えば、この二重性こそ、演劇というメディアに備わった特質ではあったのだが)。

舞台に登場するのは、実際にこのジオラマを製作した、鉄道模型マニアの4人の老人たち。さらに司会進行役の若い女優を加え、5人の登場人物が、列車の走行と停止を繰り返しながら、ときに彼ら自身の身の上話を語り、ときにジオラマで再現されている現実の土地に取材した、ドキュメント映像を紹介する。ゲームで勝った者が自分の過去にタイムスリップできるという愉快なしかけも登場する。そしてこれらと並行して、スイスで撮影されるインド映画の構想が語られてゆく。実際に、近年インド映画はスイスを舞台にすることが多いらしく、舞台上のスクリーンには、インド映画の中でステレオタイプ化されて描かれるスイスが登場する。これを巧みに取り入れながら、5人は身の上話の合間に、インドとパキスタンが対立し、これに絡んで原油パイプライン敷設を狙うアメリカが三つ巴で争う中、男女が逃避行を試みるという感じの、やたらに政治的な架空のインド映画を創造してゆく。最後には、このインド映画の中に5人が飛び込んで、踊りながらのフィナーレとなる(読者よ、わけのわからない説明で申し訳ない。が、こんなふうにしか説明のしようがないのだ)。終演後、観客は客席から舞台に移動し、間近でジオラマを鑑賞しながら、老人たちと語ることができる。

「ムネモパーク」公演

「ムネモパーク」公演
【写真は「ムネモパーク」公演から。撮影=冨田了平 提供=東京国際芸術祭08 禁無断転載】

情報量の多いパフォーマンスなので、緻密に分析し始めたらキリがないが、強く印象に残ったのは以下の3点である。

第一に、老人たちの人生。彼らは、半世紀に渡る冷戦体制を生き抜いてきた人々であるということに、今さら気づかされる。第二に、映像で紹介されるスイス社会の現実。牛の精子の売買の様子など、圧巻であった。第三に、スイスについてのステレオタイプの存在。確かに私たちもスイスと聞けば、『アルプスの少女ハイジ』(しかも我々にとっては宮崎アニメ!)に象徴される、のどかな高原のイメージを思い浮かべるばかりではないか。ハリウッド映画で描かれる「日本」像の奇怪さについて私たちは敏感だが、しかし私たちもまた、ヨーロッパの国々に対して得手勝手なイメージを抱いていることに、改めて気づかされた。現実にヨーロッパを旅行すればこのイメージが解きほぐされるかと言えば意外にそうでもなく、絵葉書や観光ガイドで思い描いていたイメージを、ただただ再確認することを「感動」などと呼んでいることも多いのではないか。

ところが『ムネモパーク』は、ジオラマのスイスを鉄道模型で経巡る旅に我々をいざなうことによって、このシミュラクルのスイスこそがむしろリアルであり、リアルなスイスであると我々が信じているものこそフィクショナルな産物ではないか、と静かに語りかけてくる。そのうえで、演劇的な単一のストーリーに回収されない、極めてパーソナルな複数のヒストリーがただただ並置され、また、社会の様々な側面が映像で紹介されることによって、いわゆる「スイス」なるものが軽やかに脱構築されていく次第である。

もはや舞台作品がいくら政治的な内容を主張したところで-否、むしろそうすればするほど-紋切型に陥り、却って非政治化されてしまう。従って今日では、政治的な主張を排し、テクノロジーを駆使してミクロな現実を伝達するという行為そのもの、形式そのものこそが政治的なのだ。そんな信念に貫かれたパフォーマンスである。この姿勢には共感を覚える。また、演劇というフレームに束縛されず、舞台というメディアを、人と人が出会う(今回の場合は、スイスの老人たちと日本の観客が出会う)コミュニケーション・ツールとして活用する姿勢は、痛快とすら思える。こんなものを見てしまうと、たいがいの演劇が、左翼が大衆に説教するためのたとえ話としか思えなくなってくる。

もっとも、森達也のようなドキュメンタリー映画監督は、ドキュメンタリーもまた、監督の恣意によって構成されるフィクショナルな性格を免れないということを強調している。とすると、フィクションをノンフィクションへと転倒しただけで、なにか現実がつかめるという単純な話ではないだろう。いやそもそも「現実」とは何なのか? こんなふうに一歩身を引いて考えると、シュテファン・ケーギの手法に一片の危惧を感じないわけではない。が、これはもはや作り手ではなく、受け手の問題なのかもしれない。結局私はこの舞台から、主観とは何であり客観とは何であるかという、なんとも原理的な問いかけに立ち戻るきっかけを与えられたように感じている。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第91号、2008年4月23日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
大岡淳(おおおか・じゅん)
1970年、兵庫県西宮市生まれ。演出家・批評家・パフォーマー。パフォーマー集団「普通劇場」代表。(財)静岡県舞台芸術センター(SPAC)文芸部所属。河合塾COSMO東京校、桐朋学園芸術短期大学、静岡文化芸術大学非常勤講師。この4月から、月見の里学遊館(静岡県袋井市)ワークショップ・ディレクターに就任。

【上演記録】
東京公演:東京国際芸術祭(TIF)2008
http://tif.anj.or.jp/mnemo/index.html
にしすがも創造舎特設劇場(2007年3月14日-17日)
上演時間:1時間30分 (休憩なし)
一般 4,000円/学生 2,000円

キャスト:
Rahel Hubacher <ラヘル・フバッハー>
Max Kurrus <マックス・クラス>
Hermann Lohle <ヘルマン・レール>
Heidy Louise Ludewig <ハイディ・ルイーズ・ルーデヴィッヒ>
Rene Muhlethaler <ルネ・ミューレターラー>
Niki Neecke <ニキ・ニーケ>

スタッフ:
構成・演出 Stefan Kaegi <シュテファン・ケーギ>
映像 Jeanne Rufenacht < ジャンヌ・ルフェナハト>
Marc Jungreithmeier <マーク・ユングライトマイアー>
音響 Niki Neecke <ニキ・ニーケ>
照明 Minna Heikkila < ミナ・ヒキーラ>
舞台監督 Michael Jann <ミヒャエル・ヤン>
演出助手 Anna K. Becker <アンナ・ベーカー>
ドラマトゥルク Andrea Schwieter <アンドレア・シュヴィーター>
制作 Maria Kusche <マリア・クーシェ>
製作 Theater Basel <バーゼル劇場>(スイス)

助成 スイス・プロ・ヘルヴェティア文化財団
後援 スイス大使館
協力 ヨーロッパ型鉄道模型クラブ
モデル アイゼンバーン クラブ

川崎公演:
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(3月11日-12日)
料金:(全席自由・日時指定・税込)一般4,000円/学生2,000円 (当日 一般4,300円/学生2,300円)
(主催:川崎市アートセンター / 後援:スイス大使館 「しんゆり・芸術のまち」PR委員会)

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