イヨネスコ「瀕死の王」

◎王の死はフレイザー『金枝篇』を思わせ、そして…
大泉尚子

「瀕死の王」公演チラシ「瀕死の王」は、文字通り死を眼の前にした王ベランジェ一世が、生に強く執着をもちながら、ついには死を受け入れるというお話。あくまでも威厳をもって王らしく死ぬことを突き付ける、第一王妃マルグリットと医者。より多く寵愛を受けているせいか、嘆くばかりの第二王妃マリー。それに、お世話係の侍従にして看護婦のジュリエットと衛兵。この6人が登場人物となる。

芝居が始まっても客電は落ちない。王、第一王妃、第二王妃…が順に現れて、衛兵がそれを告げるのだが、バックに流れるファンファーレのような音楽が、一人終わるごとにブチっと途切れる。そこが面白くて、ちょっとワクワク感がある。衛兵の「(告げ知らせて)書類の上では第二王妃、心の上では第一王妃マリー妃殿下…」とか「(告げ知らせて)国王陛下、ご錯乱~ん!」と状況をダメ押し的に説明したりするセリフが、ちょっと可笑しい。

ところが、話が進行するにつれて、期待は肩すかしを喰らって…。どうにも劇場内の温度が上がらない。空気が濃くならない。前のめりになれない。笑いがひとつ起きても、空気に吸い込まれてしまう感じで、渦やうねりにならない。一瞬、ひとりの役者から舞台空間に投げかけられた熱は、シャボン玉のようにあえなく消え、雲散霧消してしまう。個性的な役者陣だし、個々にそそられるセリフもあるのに、何ともちぐはぐ。湧かせるキャラもいないこともないが、その持ち味が空回りする。セリフとセリフ、演技と演技が噛み合って生まれるダイナミズムなどは、望むべくもない。演出はそれを狙っているのか? こういうのが、イヨネスコの〈アンチテアトル=反演劇〉なのだろうか?

始まって割に早い段階で、役者が客席に下りてきて芝居をしたり、その後、王が後の扉から退場して、ラッパの音とともに再登場したりもする。役者があらぬ方に動くわ、客席は明るいわで、気分が散漫になり心がざわつく。暗闇の中で舞台にライトが当たり、観客の気持ちがそこだけに集中する、浮かび上がった舞台空間にどっぷり身を浸すという、そういう熱をもつことを、この芝居は許してくれない。

そんな中、王を演じる柄本明の存在感は、やっぱり否定できない。わざとセリフを棒読みしたり、変な顔をしたりして共演者を笑わせる。その時点では「この演技、何?」と笑えなかったりするのに、思わず知らず、観客としての肩の力が抜けて、リラックスさせられている。昔、志村けんとコントをしていただけあって、テレビのような楽屋落ちっぽい笑わせ方も、ひるまず繰り出してくる。長嶋元監督じゃないけど、動物的勘で立ち位置を決めているみたい。しかも、オトボケのうちに雄の匂いがプンと漂う。

それに対する、第一王妃役の佐藤オリエ。率直に言えば最初は「この人も老けたなあ」という印象。かぶりつきで見ていたら、映画『黄昏』の時のキャサリン・ヘップバーンさながらに小刻みに震えていた。体を張るタイプの柄本や高田聖子とテンポ感がズレているし、やや影が薄い。

だが、終盤での様子は違ってくる。王と二人っきりになり、いよいよ死出の旅路へと誘おうというラストシーン(ここにきて、ようやく客電が消える)。ここの王妃のセリフがとても長く感じたのだが、あとで戯曲を見てみるとそれほどでもないのだ。硬い語り口なのだが、その実、静かにたたみかけていく執拗さ、透明な粘着性のようなものを湛えていて、それに時間の感覚を狂わされたのかもしれない。一本調子っぽいセリフ回しに、神懸かりの巫女か冥界の川の渡し守かと見まごうような暗い迫力が籠り、(実は少々退屈で眠かったのだが、にもかかわらず)その呪文のように奇妙とも言える響きが今も耳について離れない。

観劇後、演出の佐藤信氏の話を聞いたところによると、今回は演劇的な〈八百長〉を突破しようと試みたとのこと。たとえば、ラストシーンなども、王の柄本明には何もやらせず、ただ立っているだけ、つまり相手の言葉を聞いているという裏芝居をやらせなかったという。そう言えばここでの王は、何をやっていたか、どんな風に佇んでいたのか、ほとんど印象がない。敢えて存在感を消していたとしか思えない。

誰も本当の世界だと思って没頭しているわけではないのに、それを隠すことで平然と成り立っているような舞台=〈八百長〉を避けたかったと佐藤氏は言う。そしてそれを代表するのが歌舞伎だと。

道理で客電も落ちなかったわけだ。芝居の作り手の側も疲れたというが、ああいう状態で芝居を見るのって、客にとってもかなりキッツイ。言われてみれば、反歌舞伎というのは、現代演劇の壮大な志であり得ると思う。だが今回、その先にあるべき新たに魅力的なビジョンは、私の前には幻出しなかった。

ところでこの芝居は、アンチテアトルの旗手イヨネスコの作品ということで、さぞ理解に苦しむだろうと身構えていったら、ストーリー自体は意外にシンプルでわかりやすく、拍子抜けした。

ただ、私がずっと気になっていたのは、なぜ〈王の死〉なんだろうっていうこと。死を前にして、未練たらしい男が死にたくない死にたくないというなら、王でなくてもいいではないか。どこかの偉いさんとか、そのへんのオッサンでも。

それに、第一王妃は、何であんなに熱心にかつ急いで、夫に死を受け入れさせようとするのか。多額の保険金を掛けてるわけでもあるまいに。「私の両親を…虐殺し…」っていうセリフもあるけど、それを恨んでって感じでもない。第二王妃への嫉妬もあるかもしれないけど、そう単純でもないみたいだし。王だから死に臨んでも毅然としなければならないというのか? それには一理あるけど、理由はそれだけ? あの執拗さは何なんだ? そのパワーを王を永らえさせることになぜ使わないのか?

それからそれから、どうして第一王妃と医者には、王が必ず死ぬとわかっているのか? そして、なぜ王が死にそうになると国が衰えるのか? または国が衰えたから王が死にそうになっているのか? この辺になると、寓話的な匂いがしてくる。この話は寓話なのか?

どうにも釈然としなくて調べていたら、ブチ当たったのが『金枝篇』。この本は、イギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザー(1854~1941)の、神話・伝説・呪術・儀礼などについての研究書で、全13巻にも及ぶ。
その『金枝篇(二)』(岩波文庫版)の「神聖な王の弑殺」の章に「力が衰えると殺される王」という項がある。このなかにC・G・セリグマン博士の研究として、アフリカのシルック族という部族のことが出てくる。

彼らは、通常は王を深く崇拝しているが、「衰弱や老衰の最初の兆候があらわれると共に…王を弑殺する慣習」があったという(「弑殺」とは臣下が主君を、または子が親を殺すこと)。

その理由は「王が病気にかかったり衰弱したりすれば、家畜は病気に冒されて増殖することをやめ、作物は畑で腐り、人間は疫病で絶滅すると彼らは信じているからである」。そして「このような災厄を避けるただひとつの方法は現在の王が…活発で疫病や老齢の衰頽によって影響されぬうちに次の継承者に転移するため…殺してしまうことである」。これ以外にも、アフリカ各地のこれに共通するさまざまな例が挙げられている。

また実に興味深いのが、王の妻や側近の役割。
シルック族では、王の「衰弱の最も著しい兆候は、その妻の性欲を満足させてやる力のなくなることである。妻といっても一人だけではなくて、数かぎりもなく…養われていたのである。この不吉な前兆が現れると、妻たちはそのことを長老たちに報告する。長老たちはこの運命を王に告げ知らせ」た後、王を妙齢の娘と小屋に閉じ込め、その出入口は塗り固められて「食物も水も火も与えられず、飢餓と窒息とで死ぬまで放置」する慣習だっていうからすさまじい!

他国の例では、王は死にそうになると毒杯をあおって自殺しなければならないのだが、ためらったり杯が持てなかったりすれば妻が毒をすすめたり、あるいは、絞殺するのが妻や有力な配下の務めだったりする。

こう見てくると「瀕死の王」には、この〈王殺し〉に符合するところがあると思う。
まず、王は殺されるわけではないけれど、第一王妃や家臣である医者(しかも死刑執行人)に、やたらと死ね死ねってうながされてるみたいだし、王の衰えに連動して、王国も衰退の危機に瀕している。王妃や医者も、個人的恨みってわけではなく、役目として王を死なせなければならないのだとしたら、その言動はある意味でうなづける(といっても、王妃はそれほど単純なそれだけの役ではない。佐藤氏は、ラストの王妃の長ゼリフが「愛情に満ちた夫婦の世界とも、王妃の王に対する対抗心」とも受け取れると語っていたが、私もそう読めるとも感じる。つまりこの王妃は、ダブルイメージ、トリプルイメージをもち、かなり深い役なのではないのだろうか)。さらに〈第二王妃〉っていうのも、王には側室とか愛人ならたくさんいるだろうが、ヨーロッパの話としては違和感がある。公式に多妻というのは、やはり異国的だ。それからこじつけかもしれないが〈金枝〉とは宿り木のことで、第一王妃の最後の方のセリフに「枝に生えた宿り木は、枝ではない」というのもある。

山口昌男『新編 人類学的思考』には「…こういった『王殺し』の慣行又は意味するところ、または社会機能についてはフレーザー以後数多くの人類学者の論議が重ねられて来た…」とあり、このテーマは後世にも引き継がれたようだ。ただしフレーザーは、後の実証的な方法論からはひどく批判され、書斎派と揶揄されたそうで、例証の真偽のほどは定かではない。だが『金枝篇』は多くの研究者や文学者を魅了し、その影響下でT・S・エリオットの詩集『荒地』が、日本では柳田民俗学が生まれたのだという(『初版 金枝篇』ジェームズ・フレイザー 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇(HP)参照)。

イヨネスコは、宗教学者で神話学をひもといているエリアーデとも親交を結んでおり、こういう方面に興味があったとしても不思議ではない。この戯曲は『金枝篇』に綴られたがごとき、豊穣な神話的イメージを下敷きに書かれたのではないかと、私には思えてならない。その上に「あと1時間40分で王様はお亡くなりになるのです、このお芝居の終わりには」といった、まさに演劇の〈八百長〉を喝破するような今日的なセリフをちりばめ、さらには、いくつもの貌をみせるキャラクターをも併せ持って、読者を惹きつけるのではないだろうか。

そこでエリアーデの著作に当たってみると、批判的なものも含めて、フレイザーの名は所々に出てきて、やはり少なからぬ影響を受けたことがうかがわれる。

ところで、島田裕巳『父殺しの精神史』という本に、エリアーデに関するこんな記述がある。
「エリアーデは…十九世紀の終わりから二十世紀初頭の宗教研究に見られた〝起源への執着〟の背景に、ニーチェの〝神の死〟の宣言を見ていた。近代の社会は神を失うことによって、その方向性を見失い、混沌のなかに放りだされた。神(王・父)殺しの発見は、そういった事態を自覚する試みであり、儀礼論や神話論が注目されたのも、神なき近代社会が成熟していくための方法を見いだそうとしたからである。その鍵になったのが、象徴的な死と再生というテーマであり、これはフレイザーが『金枝篇』の中で展開した枠組みを引き継ぐものであった。エリアーデは、神話や儀礼をめぐって展開された論議を下敷きにしながら、二つの議論を統合するための方向性を見いだし、新たな宗教理解の枠組みを創造したのである」

確かに〈死と再生〉は、エリアーデの大きなテーマであるらしい。
『聖と俗-宗教的なるものの本質について』では、原始社会の儀礼における象徴的な死と復活について、各地の例が繰り返しとりあげられている。たとえば「或る民族の間では、候補者は新しく掘った墓のなかに入れられ、あるいは木の枝で覆われて、死者のように身動きもせずに横たわる」といった成人儀礼など。

そしてこのテーマは、一人の人間にとどまらず、世界全体の〈死と再生〉へと広がっている。
「…私は終末観においてさえ、肝要なのは終末の事実ではなく、新しい始めへの確信であることを明らかにしようと努めた…世界は存続すれば、退化し、消耗するので、これが年々世界を象徴的に再建しなければならない理由である」(『エリアーデ著作集第7巻 神話と現実』)

ちなみに、ルーマニア出身のエリアーデとイヨネスコは、ブカレスト大学で出会い、第二次大戦後は、ソ連の支配下にあった故国を離れ、パリで活動している。ともにソ連の共産主義体制に批判的な立場をとっており、二人は生涯の友と言える強い絆で結ばれていたようだ。

エリアーデは、『著作集第7巻』で同時代の芸術について語り、盟友イヨネスコにもふれている。「絵画に始るこの言語破壊は、詩、小説、そしてごく最近にはイオネスコ(Ionesco)によって演劇にもひろがった…多くの近代芸術家のあいだで、『造形言語破壊』はきわめて複雑な過程の最初の局面にすぎず、新宇宙の再創造が必ずや続かなければならないことを私は感じるのである…かれらは真の新しい始めは、真の終りの後にしか来られないことを理解している。そして、近代人に先がけて、芸術家は人間が生活し、思索し、夢みることのできる芸術的世界を再創造するために、かれらの世界の破壊にとりかかったのであった」。エリアーデにあっては、イヨネスコらの実験的な創作行為自体が、既成言語の〈死〉を経て、新しい世界を再生する試みと捉えられたのだ。

先の島田裕巳の記述は、「神が死んだ」近代ヨーロッパにおける、エリアーデの位置付けという、私にはあまりにも大きすぎて手に余る説だった。だがそこからさらに想像を膨らませて、もしかするとイヨネスコの『瀕死の王』も、その大テーマの一断面なのではないかと考えると、限りなく興味をそそられるのである。
(初出:マガジン・ワンダーランド第117号、2008年12月10日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
大泉尚子(おおいずみ・なおこ)
京都府生まれ。芝居やダンス、アート系イベントが好きな主婦兼ライター。「アサヒ・アートスクエア」インターン。時には舞台のスタッフボランティアも。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/oizumi-naoko/

【上演記録】
あうるすぽっとプロデュース「瀕死の王
あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)2008年9月28日-10月5日
l
○作:ウジェーヌ・イヨネスコ
○演出:佐藤 信
○訳:佐藤 康
○出演:柄本 明/佐藤オリエ/高田聖子/
斎藤 歩/谷川昭一朗/松元夢子

企画:鴎座
企画製作:あうるすぽっと
(スタッフ)
美術:佐藤信/照明:黒尾芳昭/音響:島猛/衣裳:岸井克己/演出助手:鈴木章友/舞台監督:北村雅則/宣伝美術:マッチアンドカンパニー/宣伝写真:ノニータ/広報:小沼知子/制作:藤野和美/プロデューサー:ヲザキ浩実

(東京公演)
主催:(財)としま未来文化財団/豊島区
助成:芸術文化振興基金

(兵庫公演)
主催:兵庫県立尼崎青少年創造劇場

あうるすぽっとインタビュー 佐藤信×柄本明(取材・文/尾上そら)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください