流山児★事務所「ドブネズミたちの眠り」

◎からだの奥深く入り込む、男たちのドタバタナンセンス芝居
鴨下易子(アトリエ・ドミノ主宰)

「ドブネズミたちの眠り」公演チラシ今日はなぜか元気だ。昨日の芝居のせいだろうか? でもあれ面白かったけどしょうもない話で、最後にはみんな死んでしまう救いのない芝居だったのに…。タイトルは『ドブネズミたちの眠り』、会場はスペース早稲田。

西早稲田駅から劇場に向かう。いつのまにか東京の地下鉄路線はどんどん深くなり、駅はどんどん無機的になった。副都心線は最新だから、特にピカピカだ。地上に出て諏訪通りの枯葉を踏みながら坂を降り、早稲田通りに入る。しばらく行った、ぱっとしない東西線の地上出口手前に目指すスペース早稲田はあった。中華料理店の地下にあるはず、と見ると店の向こうに屋台があって、それがチケット売り場だった。その横の階段を降りて、すれ違うのも窮屈な通路から入った会場は思いのほか広い。60席ぐらいと聞いていたので、「狭い所でヤクザの芝居かぁ」と、来るのを少しばかりためらっていた。だから、贅沢な空間の取り方には少し驚いた。リングのような四角い舞台の3辺に、2列ずつ客席があって、残りの1辺は壁。見たところ出入り口がない(どこから登場するんだろう?)。

舞台が徐々に明るくなると、空っぽだった空間に何かが置かれていた。舞台装置に見えたそれらはやがて蠢めきだし、男たちが姿を現す。そして設定は地下室なのに、なんと床に開いた穴から別の男たちが鉄柱を手がかりに上がってきた! 私の席からはよく見えなかったが正面の壁に画面があり、そこには地下室の下(おそらく下水道かなにか)の映像が映っているようだ。「正面の席がよく見えます」と入場の時に言われたのは、このことだったのか。席の選び方で情報量が違う。人の話を素直に受け取れず、舞台横に席を確保した自分に苦笑した。

登場人物は全部で7人。ヤクザとしてパッとせず、でもいまさら他の何者にもなれそうもない中年男が4人、ヒットマンとして地下室に隔離されている。あとは雇い主側の幹部と下っ端2人。標的が何者かは不明。彼(女?)の現在位置が連絡されると、犯行のシミュレーションが始まる。ドタバタナンセンスだ。そういえば入り口で貰った案内パンフに「子供の頃の遊びと同じワクワク感がこの稽古場にあった」と、脚本の坂口瑞穂が書いていたっけ。確かに大の男が舞台狭しと遊んでいる様は、役割とルールを決めて遊ぶ「ごっこ」にそっくりだ。状況が滅茶苦茶ナンセンスなのを感じているヒットマンたちは「何か変だ」と言いながら、それでも何処にもいけず何者にもなれず、「男」になるために生命を賭けて遊んでいる。これは時代遅れなヤクザを使って、時代に適応したつもりのヤクザが仕掛けた茶番劇なのだ。そして最後には、罠を仕掛けたほうも死んでしまう。本当にしょうもなく情けない男たちのお話。なのに、見終わって「楽しかった」と思った。

「ドブネズミたちの眠り」公演から
【写真は「ドブネズミたちの眠り」公演から。撮影=横田敦史 提供=流山児★事務所 禁無断転載】

帰路につきながらツラツラ考えた。いったい何がこんなにおもしろかったんだろう? よくわからない。この感じは、もうずいぶん前に俳優座で見た芝居に似ている。装置のない舞台上で、5人の男が大きなダンボール箱に入ったり出たりするばかりだった芝居。ダンボール箱の中で「いいんだよ~」と何度も繰り返した台詞が奇妙に耳に残っている。話自体はもうよく覚えていないけれど、とても良い時間を過ごして「いいんだよ」と思った記憶がある。題名も覚えていないその芝居も、出演者は男だけだった。

芝居を見ているときは自分が薄れ、性別の意識も低くなる。そんなふうに自分を外した上で、自由に男になったり女になったり、また人間以外にもなれるのが観劇の楽しみの1つだ。歌舞伎やシェイクスピアが男優だけを使うのは観客に自分自身の性を喚起させず、フィクションを機能させるためだったのではないか? どうも女が出ていない芝居は、どこか無邪気さがあって「お話」の時間を過ごしやすい気がする。

私は声やからだの動きには長いこと興味を持っているけれど、芝居をすることには関心がなかった。戯曲は良くても、女の役でおもしろいとか演じてみたいと思うものは少ない。女の芝居はどこか生真面目なのだ。情けない男の話はおかし味や愛嬌があるが、(ドジや間抜けはよくても)女の情けないのは惨めなだけ。この違いはなんだろう? ふと我に帰るといつのまにか西早稲田駅の地上出口だ。けれどなんとなく素通りしていた。地下室の芝居を見た後だったから地下に潜りたくないのではなく、あまりに人間臭い話だったので無機的な物(ピカピカの地下鉄)をからだが受け付けなくなっていたらしい。そして気がついたら、いつもは苦手なJR駅の雑踏に向かってる。

男と女の違い。この劇の挿入歌でも、「女が連続・男が不連続、でも男も連続だ」というような歌詞があった。生物としての男は種を植える存在。女は種を育てる。そしてその目的のためなら男を替えることもいとわない。だから女は存在が連続ではなく、連続させるものだ。継ぎ続けるもの。女は継続させるために、どんな状況でも適応していく。一方、男は連続を想定しない者、または断ち切るもの。『断』と『継』は似た字だ。糸をたち切ることを『断』といい、切断した糸に糸を加えてつなぐことを『継』という。そういえば夏に見た『玉手箱』(脚本は同じく坂口瑞穂)の女主人公は、変化する状況の中で糸を紡ぐようにサバイバル(過適応)していた。劇中で主人公の印象は様々なエピソードで語られるが、それが彼女の実像を結ぶことにはならない。エピソードの寄せ集めでまとまりがないのは出演者全員が演出したためだと考えていたが、必死で状況に適応することによって自らの姿を消してしまった女の話だったからなのだろう、と今では思う。でも、男はこういうのを「ミステリアスな女の伝説」にするのだろうなあ~。

生物の性はともかく、現代は性差が縮まっている。「男気がある」と評される女性までいるくらいだ。「心理学では」と言わなくても、男にも女にも逆の性が内在しているという考えは、今や半ば常識になっている。だからまた、「男だけの芝居を見て、なんで私は元気になれたのだろう」と思ってしまう。そこでふと浮かび上がったのが、家を建てる時の建前の様子だった。でき上がった土台に柱を立ててゆき、最後に屋根に棟木を上げる上棟式。大工たちが声を揃えて棟木を組んでいる姿を見ていたら、初めてのはずなのに記憶の古い層がざわめきデジャヴのように見えたものがあった。それは古から続く、死を孕むほどの危険を伴うからこそ見る者の目を奪う、男たちの力を集めた祭事だった。そうだ、あれに似ていたのだ。

祭りや芝居の生の刺激は2次元の映像と違って、からだの奥深く入り込む。それはあたかも種を植えられたようなものだ。『ドブネズミたちの眠り』を見て、日々バーチャルな刺激にさらされている心とからだが少しゆるんで、生きる力や人と関わろうという意欲を取り戻してきたらしい。人ごみが苦手な私が雑踏を心地いいと感じるなんて、思いもよらなかった。どうも芝居は、見て分かったことだけに意味があるのではないらしい。
(観劇12月3日マチネ)

【筆者略歴】
鴨下易子(かもした・やすこ)
フランスの舞台人の耳と声を治した故トマティス博士に師事し、フェルデンクライス・メソッドをベースにした『声とからだの調律士』となる。アトリエ・ドミノ主宰。

【上演記録】
流山児★事務所SPACE早稲田2008 SPECIAL「ドブネズミたちの眠り
Space早稲田(2008年11月29日-12月14日)

作 :坂口瑞穂(黒テント)新作書き下ろし
演出:流山児祥

【出演】塩野谷正幸・千葉哲也 ・さとうこうじ・木野本啓(黒テント)・西條義将(モダンスイマーズ)・ 阿川竜一 ・藤村一成

【美術】塩野谷正幸
【照明】小木曽千倉
【音響】市来邦比古
【衣裳】萩野緑
【舞台監督】吉木均
【音響操作】畝部七歩
【演出助手】坂井香奈美
【宣伝写真】アライテツヤ
【宣伝美術】Flyer-ya
【制作】米山恭子
【協力】オフィスまとば フレンドスリー オフィスPSC エビス大黒舎 ステージオフィス
【主催】流山児★事務所
平成20年度文化芸術振興費補助金(芸術創造活動重点支援事業)
【チケット】前売・予約:4,000円  当日:4,500円 学生割引:3,500円 Ryu’s Club会員:3,200円


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