タテヨコ企画「アメフラシザンザカ~宇宙ノ正体シリーズその5」

◎清濁の境目に身を置いた定点観測 「宇宙ノ正体」の地図を描く
長谷基弘(劇作家、演出家、劇団桃唄309代表)

「アメフラシザンザカ~宇宙ノ正体シリーズその5」公演チラシタテヨコ企画の第17回公演『アメフラシザンザカ』(2009.1.14-1.20)を観劇しました。
禅宗をモデルにした架空の宗派。その修行僧たちが、俗世の出来事に居合わせ、事件解決の役に立ったり立たなかったり。煩悩多き修行僧たち自身も揺らいだり。そんな、「坊主もの」と作・演出の横田修さんが呼んでらっしゃるシリーズの第5作目です。シリーズ第3作『ムラムラギッチョンチョン』(2007.6)も観劇しています。

心の奥底に投げられた幾つかの小石。そこからひろがるさざ波が、ごくありふれた日常の風景や人間関係に微妙な揺らぎを生じさせる。その揺らぎを、居合わせる修行僧たちの視点で丹念に描いていく……という点が本作と、前に観た同シリーズ作品で共通していました。
その揺らぎは決して気持ちのよいものではありません。人間の(=自分自身の)醜い点や浅ましい点も浮き上がってきますから。ですが出家僧という観測定点を通すことで、その揺らぎを冷静に観察し味わう視点が確保されています。

横田さんの作品は、横田さんの人柄をほんのちょっと知る自分としては意外なほど、単純な「いい人」はほとんど出てきません。日常に暮らす我々同じように、欲やねたみや苦しみを抱えています。それも結構強く。心のさざ波によって、それらが空間を包むように漠然と、時に針のように鋭く露出します。にもかかわらず『アメフラシザンザカ』に優しさや懐かしさを感じるのは、視点や構造の優しさなのかもしれません。

本作『アメフラシザンザカ』の舞台は、どこかの漁師町にあるお寺。登場する修行僧の一人、永然(好宮温太郎)の実家です。一般にも開かれた宿坊(寝泊まりするところ)も営んでいます。
具体的な地方は明らかにされていません。原発をめぐってコミュニティが二分されているらしい、というシチュエーションはあります。が、原発を、ビール工場でも郊外型ショッピングモールでも何でも、他の「外からやってくる力」に置き換えたとしても、本作が描く心のさざ波に本質的な違いは生じないように思いました。そういう意味では、普遍的な「変わりゆく故郷」をイメージしているようにも感じました。

さてある日、妖怪アメフラシを名乗る何者から、子供を誘拐するという手紙がそのお寺に届きます。ひょんなことから永然ら修行僧4人は、予告された晩にお寺を警備することに。その一晩の出来事が、物語の縦糸です。
こう書くとミステリーのようです。実際ある種ミステリー仕立てなのですが、いい意味でおちゃらけているというか、地元に伝わるアメフラシという横田さんオリジナルの妖怪が本当に登場します。金田一温泉の座敷わらしをすこぶる活発にし、繁栄をもたらすという伝説を引き、なおかつ時々人さらいをするらしいという部分を足したような妖怪。ほとんどの人には姿が見えません。と言いつつ全身緑色ですが。

「アメフラシザンザカ」公演から
「アメフラシザンザカ」公演から

「アメフラシザンザカ」公演から
【写真は「アメフラシザンザカ」公演から。撮影=平地みどり 提供=タテヨコ企画 禁無断転載】

村の人たちや修行僧の悩みや苦しみを全く意味に介さず、イタズラを繰り返すアメフラシたち(青木柳葉魚、大塚あかね)。一夜の騒動に混乱はもたらせど、その解決にはほとんど役に立たない……。その怪演も見ものでしたが、登場人物の心に生じるさざ波をより客体化するという構造上の役割が、とても興味深かったです。
例えばシェイクスピアの戯曲に出てくる道化は、その無遠慮な発言によって王その他の人物像を客体化します。王その他の人物は、道化の客体化によって自己を再発見し、主観と客観を融合させつつアイデンティティを明確にしていきます。

本作では、アメフラシが暴れるたびに、コミュニティ内の対立や人間関係のゆがみが僅かずつこぼれ出て、登場人物たちはそれを認識していきます。人物像を客体化させるというよりは、人間関係を客体化させる存在。集団にもアイデンティティっぽいものがあるとしたら、それを悪ふざけしつつも明確にさせる存在です。
もっともらしく表現すると、コミュニティが抱える道化としての「地元に伝わる妖怪」、と言ったところでしょうか。

ですが、妖怪という存在は、現実には「いない」わけで。この劇に現れる等身大の登場人物のなかではきわめて異質なキャラクターでもあります。顔も身体も緑色だし。
それを踏まえた上で、本作のアメフラシとはなんなのかをよくよく考えると、結構怖いような不気味なような。
ここから先は思索のゲームですが、例えば共同体の持つ暗部であったり、煮詰まった人間関係の逃げ場であったり、そういう痛みを伴う深層を象徴していると考えることもできます。
劇中で、村人たちから嫌われている木島いくみ(舘智子)だけは、アメフラシの姿を見ることができます。それは、木島がコミュニティの痛みを見つめかつ逃げないでいる人物であることを示しているとも言えます。
まぁこのようにややこしく考えずとも、登場人物たちの心の揺らぎとアメフラシのでたらめさを、対比しつつ楽しめばよいでは、という気もしますが。

さてさて。
ポストパフォーマンストークで横田さんは、坊主シリーズはシチュエーションを変えれば何作でも書けそうだ、とおっしゃっていました。日本国内のみならず、ニューヨークとか南極とか国際宇宙ステーションとか、なんでもありですね、たしかに。
心に生じるさざ波の、清濁の境目に身を置いた修行僧という定点からの観測。シリーズとして繰り返していくことで、「宇宙ノ正体」の全体像が形作られていくのかもしれません。それは、結局は完成しない地図をコツコツ描いてくような作業かもしれないけれど、そこがいい! と思います。
次回作も期待しています。
(初出:マガジン・ワンダーランド第127号、2009年2月18日発行。購読無料。手続きは登録ページから)

【筆者略歴】
長谷基弘(はせ・もとひろ)
東京都生まれ。立教大学文学部卒。劇団桃唄309代表。劇作家、演出家。日本劇作家協会常務理事。大学や高校の非常勤講師を複数つとめるほか、自治体や公共団体、文化庁主催のワークショップを多数手がける。
劇団Web: http://www.momouta.org/
個人Blog: http://www.momouta.org/blogs/mloge

【上演記録】
タテヨコ企画第17回公演「アメフラシザンザカ~宇宙ノ正体シリーズその5」(タテヨコ企画10周年記念公演 第一弾~)
駅前劇場(2009年1月14日-20日)

●作・演出:横田修
●キャスト:
青木柳葉魚 市橋朝子 大塚あかね 舘智子 ちゅうり 鶴川春男 西山竜一 久行しのぶ 藤崎成益 好宮温太郎 青山麻紀子(boku-makuhari) 勝平ともこ(劇団M.O.P.) 小高仁 じょじ伊東 堀夏子(青年団)
●スタッフ:
舞台監督/田中翼
照明/鈴村淳
音響/島貫聡
舞台美術/濱崎賢二(青年団)
宣伝美術・写真撮影/平地みどり
チラシイラスト/糠谷貴使
制作/タテヨコ企画制作部+森佑介+大木孝司
製作/タテヨコ企画
協力/(株)81プロデュース 劇団M.O.P. boku-makuhari 青年団 GLove (有)レトル 演劇番組「theatre plateaux」 JVCエンタテインメントネットワークス(株)
●助成:
平成20年度文化庁芸術創造活動重点支援事業
財団法人三菱UFJ信託地域文化財団

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