◎ことばとからだが生成する「幸福な空間」
木俣冬(フリーライター)
新しそうな白く清潔なホールの中に入ると、アクトスペース上の中心にはマトリョーシカが2体飾ってある。その後ろには、上下に2体のマシーンが向き合って置かれている。ピッチングマシーンのようなもので、それぞれが投げたボールは、見事に相手のマシーンの受け口に入り、受けたボールが循環してまた投げられるという仕掛けになっている。もらったリーフレットによると「きまぐれキャッチボール」という名前の装置らしい。ジーッジーッとゆっくり定期的にボールが投げられるが、時々、軌道が外れてしまうこともある。すると、袖に待機している出演者らしき人物が、ボールを拾って、マシーンの中に戻す。ボールを投げるタイミングも時々ずれる。その、ズレが、見ていて飽きさせない。
袖に座ったひとりの女性が、作・構成の河村美雪さん。「実在の作者」という役割で登場する。彼女が袖に座っているその他の人たちにインタビューしていく。女優、ダンサー、テルミン奏者、会社員、眼鏡屋店員などが次々と現れる。彼らにはそれぞれ「イペソる人」「わやどうる人」「カリソウる人」「トゥラブる人」「みみる人」などという役名がある。彼らは、河村さんの指示をきっかけに、向き合って話をしたり、ダンスをしたり、演奏したりする。
ブカブカに見えるスーツを着てしなやかに踊る男性。キリッと髪をアップにして真っ赤な服をしゃんと延ばした背中で着ている女性。眼鏡をかけた小柄な男性。マトリョーシカに仕込まれたテルミンをユワンユワンと奏でる女性…。声だけの出演の人もいる。
この作品を作るに当たって、河村さんは、出演者たちと月に一回インタビューとワークショップをやっていたそうだ。そこで知り得た情報をもとに、本番では、どうやら即興で新たな会話が紡がれているようだ。
この企画を知った時、「プレイバックシアター」というものなのかなと想像した。これは、まず出演者の個人的体験がインタビューで語られ、そこから即興劇を作りあげるというもの。70年代にアメリカで生まれ広がり、エンターテインメントやアート的な側面のほか、様々な経験を抱えた参加者の心療にもなるとされている。井上ひさしの『日本人のへそ』(69)は、吃音症の治療に演劇を用いるという内容だった。正直、私は映画版しか見ていないのだが。演じる人間の真実をもとにパフォーマンスができていくという方法は、古今東西行われている。
といって、河村さんの「インタビュー・ショウ」は治療を目的にしたものではないし、プレイバックシアターとはまたちょっと違うもののようだった。
あ、申し遅れました。このレビュー原稿を書いているわたくし、木俣冬は、文筆を生業としております。演劇や映画の記事を主に書いており、俳優やスタッフにインタビューをすることが多いです。そういうワケもありまして、インタビュー・ショウに興味を持ちました。なんで、今ここで自己紹介してるのかと言いますと、よく雑誌などの記事で「筆者は」と意見や感想を述べている文章を見て、「筆者は…と言う、あなたはどなた様ですか?」と気になることがあるのです。その人の基準になるところがわからないと、いきなり、意見を提示されても困惑しませんか? 私は原稿を書く時にいつもそこに警戒心を持ってしまうのです。
自己紹介はこのくらいにします。
河村さんを中心にして、いろいろなパフォーマンスが展開していく中で、相手との距離によって、語りかける愛の言葉が変わっていくというものがあった。近いと、ストレート。遠いと探リ探り…。あからさまな中に、それぞれのオリジナリティーがあって笑わせる。
また、公演中、ずっと写真を撮っている人がいるのが気になっていた。ふたり。ひとりは、プロ仕様のカメラ。ひとりは一般的なデジカメ。プロ仕様のほうは記録用で、デジカメのほうは、最後に、スクリーンにアップされる。観客までが写りこんで。そこで、それまで行われてきた、作者の出演者への問いは、観客にも向けられていたものだということが明瞭になる。
見ている間、私は、作者が作者をとりまく人間との距離感を探っているように感じた。作者という役(?)は、腕を組み出演者たちに話しかけている。長い間、インタビューやワークショップを行ってきた関係にしては、ドライだし、彼女の問いを受けて自由で饒舌な身体表現をする出演者と比べたら、シンプルだ。でもそれは、意図的なものなのかもしれない。作者は、ただひたすら、距離が近づいたり遠ざかったりすること、その時の身体の違いを見つめているだけなのかもしれない。出演者たちが、女優やダンサーで、身体表現能力に優れている人たちだから、心情の体現がとても鮮やかだ。そのため作者の意図はとても伝わりやすくなっている。
だからこそ、ますます、実存に対する修行の足りない私には、インタビュアーである作者と出演者たちが存在する空間に、まざまざと刻み付けられていく距離に、痛みやあたたかさなど、意味を探してしまうのだった。
日常でも、このパフォーマンスのように、心情が空間を突き動かすことができたら、いいのに、と思う。日常でも当然、微細な、振動を感じつつ、生きているのだけども、理解できないこともあるし、例えば、相手が放つ拒否の振動に、傷つきもする。物理的に近づいても、埋められない心の距離というやつもある。ああ、悩ましい。こんなふうに思って見てる人がほかにもいたと思いたい。…いかがでしょうか?
ところで、タイトルにある、my space。これは、いわゆるソーシャル・ネットワーク・サービスのひとつで、アメリカではじまり日本版もあるもののことと思う。ネット上で人間関係を紡いでいくことと、相手の顔と身体と息づかいがわかる実空間での人間関係。これもまた、単純に、どちらがいいか悪いかなどを問うのではなく、ただあるがままに受け止めるべきことなのであろう。こういう場の誕生と拡大も既にリアルなのだから。
『My space, のようなので。』でおもしろいのは、インタビューという言葉のやりとりからはじまるという部分だ。相手を知るために言葉をかける。その言葉がきっかけで、いろいろな表現が誕生していく。「言葉責め」という行為もその範疇に入るのであろうか。そして、言葉(音がなくて文字だけど)がないとはじまらないのは、ネットでのコミュニケーションに通じるかもしれない。
空間に置かれたキャッチボールマシーンは、ボールを相手に向かって投げ続け、たまに、外す。落ちたボールを拾って、もう一度、マシーンに戻してくれる人がいなかったらそれで終わりなのだけど、この空間には、ボールを拾う人がいる。
そこが幸福な空間だ。
(初出:マガジン・ワンダーランド第127号、2009年2月18日発行。購読無料。手続きは登録ページから)
【筆者略歴】
木俣冬(きまた・ふゆ)
フリーライター。映画、演劇の二毛作で、パンフレットや関連書籍の企画、編集、取材などを行う。キネマ旬報社「アクチュール」にて、俳優ルポルタージュ「挑戦者たち」連載中。蜷川幸雄と演劇を作るスタッフ、キャストの様子をドキュメンタリーするサイトNinagawa Studio(ニナガワ・スタジオ)を運営中。個人ブログ「紙と波」
・wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimata-fuyu/
【上演記録】
Co.うつくしい雪 「my space, のようなので。」(インタビュウ・ショウ)
駒場小空間(東京大学多目的ホール、2009年1月24日-25日)
作・演出 河村美雪(http://utsukusi.exblog.jp/)
[出演者]
イペソる人 エイキミア
わやどうる人 木室陽一
カリソウる人 賃貸人格
トゥラブる人 松下恵子
さてる人 矢木奏
みみる人 渡辺タケシ
不在の第三者 大倉マヤ
実在の作者 河村美雪
[スタッフ]
音響ポエム 平石博一
きまぐれキャッチボール 原倫太郎
DJ Shimakuro
舞台監督 北川大輔
映像技術 小楠竜也
記録撮影 スズキアサコ
公開ミーティング=1/24 終演後
司会:宇野良子(認知言語学・東京大学研究員)
アフタートーク=1/25 終演後
河村美雪×宇野良子(認知言語学・東京大学研究員)
協力:荒川修作 ABRF, Inc. / 情報学環(東京大学)/ マイスペース株式会社 / シュティフ・ロマン
企画・制作・宣伝美術: Co.うつくしい雪
主催:池上研究室(東京大学)