劇団印象「父産(とうさん)」

◎消費社会揶揄する自己物語
風間信孝

「父産」公演チラシこの劇の作・演出をしている鈴木アツトは、奇天烈な発想をするやつだ、と評者はつくづく思った。評者は、劇団印象の舞台を観るのは、これで3度目である。初めて観たのは、夢の中に本を食べる虫が登場する『枕闇』。次は、言葉を話し、二足歩行をするイルカが出てくる『青鬼』(再演)。そして、今回は、父親が子供を産む『父産』(再演)。劇団印象の特色は、現実のルールを無視してもかまわない小劇場演劇においては、ありふれたものである。しかし、鈴木アツトは、それだけでは終わらない。「演劇は世界を映す鏡である」とは、シェークスピアの言葉だと評者は記憶しているが、この劇は、現代日本社会のリアリティを見事に映し出していると感じ取った。そして、「父親とは何か」という父親自身にとっての永遠のテーマを、現代日本社会に生きる観客に問いかける作品だった。

梶五月は、北大路英梨子との入籍前夜、父親の六月と、六月の家で一緒に過ごすことにした。六月は五月の結婚に猛反対している。五月と六月は一組の布団で寝ることになった。入籍当日の朝、ヨミメガネ(読書用眼鏡)をかけた五月と六月は、メシメガネ(食事用眼鏡)をかけたもう一人の五月の登場に驚く。六月は、前者をヨミ五月、後者をメシ五月と呼ぶことにした。メシ五月は、お腹からへその緒が出ていた。気がつくと、六月もお腹にへその緒がついていた。六月は、メシ五月を産んだのは自分でないかと察する。六月が産みの親、つまり「母親」である。では父親は……。

ヨミ五月と結婚する英梨子は、ヨミ五月に、自分には父親がいないことを隠し、妊娠していないのにしているという嘘もついていた。ところが、市役所で、婚姻届を提出する際、ヨミ五月に、その2つのことがばれてしまった。英梨子の父親は現在幽霊で、男Aとして英梨子を見守っている。しかし、英梨子の主治医によれば、赤ちゃんはちゃんと存在しているという。赤ちゃんは、どこかに移動したのだという。赤ちゃんと英梨子がへその緒でつながる前に、誰かに奪われた可能性がある。果たして、誰が? さらに、赤ちゃんは一人ではなく三つ子なのだ。

梶六月家では、肩揉み専用の五月が、六月の肩を揉んでいた。さらには、女性の五月もいた。肩を揉んでいたのはモミ五月、女性のほうはモミ五月VISTAという。2人は、六月にすっかりなついていた。

母体から受け取るはずだったヒトとして生きていくために必要な免疫成分が成長途中にもかかわらず足りないので、メシ五月とモミ五月、モミ五月VISTAは倒れてしまった。英梨子の主治医によれば、メシ五月3人を救うには、六月につながっていた、メシ五月たち3人のへその緒を英梨子につなぎ直すしかない。ヨミ五月は、英梨子のお腹の中で、英梨子のへその緒をメシ五月たち3人のへその緒と合わせる。そして、3人は羊水のなかへ入って行く。3人は無事着床した。

評者には、子どもを、(モノ=商品の)機能(ヨミ五月、メシ五月、モミ五月)やヴァージョン(モミ五月VISTA)で呼ぶ父親である六月のメンタリティが面白くて愉快だった。この作品の作・演出の鈴木アツトは1980年生まれ。この世代であれば、このような奇天烈な発想をするのも分かる気がする。この世代にとって、消費社会とは所与のものなのだ。

「消費社会とは、……(中略)……モノ=商品の体系の膨張と欲求の流れの多様化の波が次々にまき起こしていく状況をさしていうことが多い。この過剰なモノと欲求の氾濫する局面は、従来の機能的な必要という意味・感覚を超え、モードの論理に従って生起する、新しい遊び的な意味・感覚の世界を導き入れている」(内田隆三)。

「父産」公演

「父産」公演
【写真は「父産」公演から 提供=劇団印象 禁無断転載】

消費社会においては、消費活動が「機能」から「記号」へと移行する。生活必需品は一通り揃い、物質的欠乏が満たされた後、消費者はモノ=商品に付加価値を求めるようになった。モノ=商品を提供する側も、モノ=商品の差別化を図るようになった。「消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される」(ボードリヤール)。

記号とは、一定の内容を表すものである。一定の内容を、メッセージと言い換えてもいいかもしれない。われわれは日常生活の中で、言語だけではなく、モノを媒介にして、多種多様なメッセージを送ったり、メッセージを理解している。例えば、高級ブランドのカバンをもつことでハイソな自分を演出したり、高級ブランドのカバンをもち歩いている人を階層が高い人なのだろうと見た人は判断するかもしれない。メッセージのやりとりが生じるという意味で、一種のコミュニケーションが成立している。つまり、言語活動がおこなわれているのである。

消費社会において、消費者は消費活動を通して、自分のライフスタイルを追求する。そのさい、ライフスタイルに応じて、モノ=商品を使い分ける。ちょうど、新聞を読むときはこのメガネを、食事をするときはあのメガネをかける、というふうに。六月にとって、「五月」とは、自分のライフスタイル(例えば、食事をするとか、肩を揉んでもらうとか)に応じて使い分ける、モノ=商品なのである。

この劇を観る際のもう一つのキーコンセプトは、自己物語である。自己物語とは、「自己という現象が自分自身について物語ることを通して現れてくる」(浅野智彦)という概念である。自己物語の特徴は、物語る自己と物語られる自己という視点の二重性を含み、結末から逆算された形で出来事が時間軸に沿って構造化された、他者に受け入れられた語りであるということだ。

消費社会において、さまざまなモノ=商品のまとう物語に準拠して、人は自己物語を物語っている。日本社会は1970年代後半から消費社会に突入したので、まさに、鈴木アツトは消費社会の申し子と言うべき存在である。鈴木アツトは、気分で掛けるメガネを変えるような十人十色ならぬ一人十色という消費社会のメンタリティを、自嘲気味に描いていると評者は思う。

この劇の主題は、父親が子どもを産むことである。父親は、子どもを産むことができる母親と違って、親のアイデンティティをただでさえ獲得しにくい。また、戦後の日本社会では、「男性が稼ぎ手で、女性は家を守る」という性別役割分業のなかで、男性は、家事・育児と無縁であった。ここでの父親の自己物語は、終身雇用制度と年功序列制を軸とする会社に準拠したものである。しかし、終身雇用・年功序列の崩壊と雇用の流動化や、「男性も女性も、仕事も家庭も」という近年の流れのなかで、家庭や地域に参加し始めた男性は、父親の自己物語を、試行錯誤の中で、手探りで紡ぎ出そうとしている。この劇には、3人の父親が登場している。六月とヨミ五月と男Aである。この3人の父親も、三者三様、父親の自己物語を物語ろうと骨を折っている。

六月は、ヨミ五月の育ての親で、メシ五月たち3人の産みの親である。ヨミ五月とメシ五月から父さん、モミ五月とモミ五月VISTAから、パパと呼ばれているので、六月は、メシ五月たち3人の産みの親である「母親」だが、ヨミ五月4人から父親として認められている。消費者が商品のまとう物語に準拠して自己を構成するように、六月は、メシ五月たち3人をよりどころにして、産みの親の物語を紡ぎ出そうとしている。「現代社会のおびただしいモノは、……(中略)……消費者のアイデンティティを表わす記号なのである」はボードリヤールの言葉だと評者は記憶しているが、メシ五月たち3人は、産みの親である六月のアイデンティティを表す記号なのである。六月の父親の自己物語は、消費社会を揶揄しているものだと評者は思う。

ヨミ五月は、メシ五月たち3人の実の父親である。英梨子の主治医に、メシ五月たち3人を英梨子のお腹の中に戻すように言われたり、メシ五月3人に名前をつけたりして、父親の役割を十分に果たしている。

男Aは、英梨子の父親である。現在幽霊で、いまだ成仏せずにいる。この劇の語り手だが、始めのほうしか語っていない。それは、語り手の役割を十分に果たしていないことで、男Aは、父親として中途半端な存在であると、観客にアピールする鈴木アツトの演出だと評者は思う。幽霊は死んだときから年をとらないことになっているので、来年からは、英梨子に年を追い越されてしまう。英梨子に何もしてあげられず、できることは見守るだけである。自分には英梨子の父親の資格がないと思っている。英梨子に「別にいらない人」と言われる。父親としては失格である。

この劇において、言葉遊びが効果的に使われている。ユメ(夢)とヨメ(嫁)。パパとババ(婆)。カジ(梶)とカジ(家事)、等々。ヨミ(五月)、モミ(五月)、ゴミ(五月)、メシ(五月)、カジ(五月)と韻を踏んでいる。また、ヨミ五月が英梨子のお腹の中に入る前に、『夢の中へ』が遠くから聞こえてくるシーンがあるのだが、歌詞は「夢の中へ 夢の中へ♪」ではなく、「嫁の中へ 嫁の中へ♪」であった。言葉遊びが巧みに使われているせいもあって、全体として、テンポのよい言葉のやりとりがされていた。演出についていえば、劇の始めのほうで、男Aがヨミ五月と六月を、あやつり人形のように操るようなアンサンブルが、評者の興味をひいた。また、幕を下手から上手へ動かしての場面転換も面白かった。

今年の劇団印象の公演は、2つとも再演だった。鈴木アツトは、今年は、自分の作品を掘り下げたのだろう。『青鬼』と『父産』は、ともに興味深い作品だと評者は思う。しかし、勝負はこれからである。来年の新作で、劇団印象の真価が問われることになるだろう。鈴木アツトをはじめとする劇団印象の今後の活動に期待する。

【筆者略歴】
風間信孝(かざま・のぶたか)
1977年8月生まれ。岩手県盛岡市出身。東京大学文学部行動文化学科社会学専修課程卒業。2008年春季、劇評を書くセミナー「舞台を読む、舞台を書く」の受講をきっかけに、劇評を書きはじめる。

【上演記録】
劇団印象-indian elephant- 第12回公演「父産(とうさん)」
吉祥寺シアター(2009年10月30日-11月3日)

作・演出 鈴木アツト
出演 加藤慎吾 笹野鈴々音 山田英美 澁谷友基 毎ようこ 岸宗太郎 前田雅洋 岡田梨那 星野奈穂子(時間堂) いとう大輔 小角まや 伊谷彰 最所裕樹 吹原幸太(ポップンマッシュルームチキン野郎) 関根信一(劇団フライングステージ)

スタッフ
舞台美術:坂口佑
舞台監督:川田康二
大道具:川田崇
小道具&美術補佐:西宮紀子
照明:小坂章人
音響:斎藤裕喜
選曲:勝俣あや
絵:大野舞”denali”
hair stylist:田中講平
メイク:能作香織
舞台美術補佐:加藤美緒 矢柴智雄 山田果林 高木晶規 鈴木祐太 鈴木里奈 石垣悟 山本賢吾 酒井健太 木村光晴 尾ヶ井麻衣
照明補佐:道家脩平 佐瀬三恵子 鈴木千晴 渡辺隆行
音響補佐:島村幸宏
映像撮影:吉本龍司
制作:北野絢子 金野沙紀 寺林淳史 三木浩平 片方良子
プロデューサー:まつながかよこ

料金 全席指定席 前売2,800円 当日3,500円 初日特別料金(前売当日共通)2,500円

主催:劇団印象-indian elephant-
協力:劇団フライングステージ krei inc. スターダス21 ポップンマッシュルームチキン野郎 時間堂 横浜演劇サロン ラゾーナ川崎プラザソル (株)ヤザワコーポレーション

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください