タカハ劇団「モロトフカクテル」

◎時代を超える翼をください
大泉尚子

「モロトフカクテル」公演チラシ客入れの音楽はフォークソング。「あれっ、これってPPMの『花はどこへ行った』かな?」なんて思いながら、60-70 年代の回顧ものかと想像を巡らす。
舞台は、広めでやや雑然とした部屋。中央にストーブ、上手に長めのテーブルとイス、下手の赤いソファには、熊のぬいぐるみがポツンと置かれ、その前にあるのはキーボードだろうか。後ろの壁には棚があり、ゴチャゴチャといろんなものが詰め込まれている。家具は、そこそこ簡素というか間に合わせ的な感じがあり、ここが住まいやお固い業種のオフィスなどではないことをうかがわせる。壁沿いにつけられた数段の階段の上にはドアがあるから、もしかしたら半地下なのかもしれない。と、ここまではとても具象的な装置なのだが、背面の大きな壁は全く趣が違う。幾何学的な模様が描かれた、かなりの面積の壁面が、そそり立つようにある。白っぽいグレーを基調とした色合いの、小洒落てアート風な雰囲気。
両者の対照に、幕開け前から、この芝居のリアリズム加減がいかほどのものなのかと、興味をそそられる道具立てである。

物語は、日東大学という大学の自治会室で起こるのだった。時代は現代。自治会の活動はイマイチ盛り上がっておらず、メンバーも少ない。この部屋も、手話サークルが同居したりして単なる溜まり場風で、自治会はいかにも存在感なさげ。
その上、ストーブの使い方など細かい規則違反をとがめられ、学生課に睨まれていて、部室使用禁止の危機に瀕している。とりわけ若手職員の前川は、杓子定規で口うるさく、定年前の吉田もよく見回りに訪れては、様子をうかがっているようだ。

自治会長・田口は、これではならじと指導を仰ぐべく、「キョウセイ派」の活動家・佐藤を招く。この佐藤のいでたちが可笑しい。頭に赤いバンダナを巻いて、ミキハウスのトレーナーをボトムインに着ているところはまるでアキバ系。この「キョウセイ派」と「カイタイ派」というのが、対立する二大極左過激派集団だというのだが、彼にはどう見てもその迫力はない。単に年齢=彼女イナイ歴の男の子にしか見えないズレっぷり。とはいえ、何てったって活動家、学生たちを巻きこもうと画策し始める。

ところで実は、このストーリーの合間を縫うようにして、もうひとつの物語が展開していく。一組の若い恋人、ミチオとぬりえのやりとり。ミチオは、手紙に添えてアラセイトウの花を封筒に入れ、ぬりえに送る。彼女は部屋でその花をコップに挿し、つぼみまでが開いた。そんな小さな素朴すぎるエピソード。交換日記に綴る、他愛もない気持ちのすれ違いや諍い、含羞に満ちた愛の言葉。このサブストーリーは、本筋とどういう関係にあるのか。そのカギを握るのは、学生課の吉田だ。
かつて吉田は、今はもはや伝説と化した日東大闘争を担う一員であり、ミチオとぬりえともその仲間だった。二人のやりとりは、この部室に置かれていた「モロトフカクテルノート」に記されたものらしい。

さて、キョウセイ派本部の指令に従い、セクト主義的なやり方で、部室閉鎖撤回運動を進めようとする佐藤。だが、手話サークルの女の子や、ここに出入りする院生・内沢アカネたちは、そんなやり方に反発する。過激派同士の内ゲバには嫌悪感を抱くほかないし、第一感覚的に受け入れがたいのだ。彼女たちの感性では、チラシもかわいいのが一番、アジ文を書いたタテ看にさえ赤いハートマークをつけたら、というくらいなのだから。

事態はだんだんと切迫し、大学側の人間としてさらに強硬になっていく前川は、部室使用禁止の強制執行、学生の実力排除も辞さないと言い放つ。この状態に見切りをつけた佐藤は、〈地下に潜る〉べく出ていってしまう。

一方、吉田は職務に疑問を覚え、むしろこの部屋を守る側に回ろうと、学生たちに、バリケードを築こうと言い出す。そんな彼を見て、ここに残ることを決意する学生たち。「うちらだって部室大事に決まっている」と。

そんな折も折、吉田は驚くような事実を知らされる。今もどこかで闘っていると信じていたミチオとぬりえのこと。実は、ぬりえはずっと以前に、内ゲバで仲間に殺され、ミチオは捕まって刑に服していた。それを知った上で、あの時逃げ出した自分は、今こそ闘わなければいけないと、火炎瓶を手にドアを飛び出していくのだった。最後に流れる歌は「この広い野原いっぱい」-。

これはおそらく、いわゆるひとつの爽やかな青春群像劇と受け止められるものなのだろう。
まずは、かつての学生運動を、あたかもわかったかのような顔や背伸びをせずに表現しているところには好感がもてる。今の学生たちが、そういった活動を、どうとらえるか、その違和感、距離感、戸惑いと背中合わせにある憧れのようなものは、ていねいに表されていると言ってもいいだろう。たとえば、むしろ笑えるキャラクターの佐藤。過激派の活動家がまじめに物を言えば言うほど、おかしいのが今という時代だ。また、団塊の世代である吉田さんの「闘争」と、学生たちの「トウソウ」、その言葉が発語されたときの落差などは意識化され、きちんと異なるものとして提示されている。

副会長・牛島ミドリの、自治会活動のモチベーションとなっている問いの立て方なども、ある意味で的を射ている。彼女の父は自殺したのだが、日記を読むと、学生運動にかかわっていたことがあるという。父の本当の敵は誰なのだろう、それを突き止めたいと彼女は思う(確かに、当時の彼らはいったい誰と戦っていたのだろう。体制? 国家? 内なる権力的なもの? そう言えば自己批判って言葉が、たたき売りされるごとく、そこここに溢れていた。そしてそれが悪名高い〈総括〉につながっていったんじゃなかったか…)。女の子たちの、セクト的な動き方に対するアンチの唱え方も、多少類型化されているが、根っこは正直。
そう、それらはもう実に素直に、あっさり、すっぱり、さっぱり、さっくり描かれているのだ。

にもかかわらず(いや、だからこそなのか)、五十代である筆者には、今ひとつすっきりしない気持ちが残った。うーん、何だかなあー。

たとえば、オープニングとラストに現れる、デモ隊の学生のシルエット。ヘルメットをかぶり大きな旗を掲げた、いかにもな風体の数人が、バラバラに立っている姿が浮かび上がる。ここいらに、キツーイ言い方をすれば、無邪気という名の表現の粗さが目立つ。十把一からげに影絵にされたこの図には、〈学生運動〉もひとつのファッションかと、しらける気分が先に立ってしまう。

ここで思い出すのは、同じく座・高円寺で上演された、流山児祥演出の「ユーリンタウン」だ。「全世界同時ションベン革命」と大書した幕を掲げたり、ヘルメットをかぶり旗を振る人物を登場させたのは、流山児の世代からいって明らかに確信犯的なアイロニー。好き嫌いは別として、それはそれではっきりした立場と主張が感じられる。対して、この作者は20代半ばというから、テレビや映画、本や雑誌などの資料をもとに描いたのだろう。マスメディアの情報から得たものをなぞろうとするとき、陳腐なイメージに陥ってしまうのは、確かに無理からぬことではあるのだが…。

それから、前川が吉田に言う、あなた方の世代は感傷的で無責任で日和見だとか、自分が放棄した闘いを彼らにゆだねているだけといったセリフ。一方、吉田の、君たちは悔しくないのか、どうして諦めるのが当たり前だと思うのかという言葉なども。ざっくりし過ぎ、こぼれおちるものが多すぎで、どうにも迫ってこない。総じて、学生以外の人物造形や言動の据え方に、隙あり!の感が強い。

後日、作・演出の高羽彩さんの話を聞いた。ミチオとぬりえにはモデルがいる。連合赤軍のあさま山荘事件で、最後まで立てこもったメンバーの一人と、その恋人だった女性。彼女は子供を身ごもりながら、山のアジトで仲間に総括を迫られ、リンチ殺人の犠牲となった。高羽さんは、参考文献としてあげられている「あさま山荘籠城」(祥伝社文庫)という本に出会い、二人がごく普通の若者たちであり、事件が、とんでもない人間が起こした猟奇的なものではなかったことに驚きを覚えたのだと言う。

確かにこの本を読むと、金子みちよというその女性が、自らの思想に殉じようとしながらも、追いつめられて急激に閉鎖的、教条的になっていく集団に疑問を感じ、身をもってそれに異論を唱えようとしていた姿をたどることができる。極限的に差し迫った状況下、あまりにも密な人間関係が音を立てて歪んでいき、形作られるのは、先がひどく鋭角なピラミッド構造。ほとんどヤクザが因縁をつけるような理不尽さで総括を求められ、最も信頼していた恋人とも対立的なところに追いやられながら、彼女は声にならない声を上げ続けていた。これはおかしいのではないかと。

ところで劇中、内沢アカネの印象的なセリフがある。終盤近く、アカネが実は前川の恋人であったことがわかり、しかも、彼はカイタイ派に属し、アカネを利用していたのかも…という疑いが生じる。そこで彼女は前川に、あなたは本当に私を大事に思っていたの?という問いをぶつけ、あなたを困らせてやりたいからと、部室に残ることを選ぶのだ。

実在の金子みちよさんは、実はこういう言葉を言いたかったのではないだろうかと、高羽さんは漏らしていた。この時代にあって、女の本音を思うさまさらけ出してしまえるアカネと、ああいう状況のもとで、永久に口を閉ざすことを強いられたみちよさん。そのとても重い落差。そこにこそ、「モロトフカクテル」が描き出そうとしたものの、見えない鍵穴のような何かがひそんでいるかに思える。

同世代の、足元の定まらない低体温な感じをいきいきと描き出した作者が、みちよさんが発していた根源的な問いを、もっと深くとらえきれていたなら、さらに鮮明な像を結ぶ舞台になり得たのでは…。そんな想いを、筆者は禁じえなかった。

それぞれが生きている時代や場所で、人が見ることができるのは自分に配られたカードだけ。それはごくごく断片的なものであり、世代や時代を超える翼を持つなんて、誰にも不可能だ。それでも、演劇という虚構のなかで、ほんの一瞬そんな翼を得ることを夢見て、作者と観客は出会おうとするのかもしれない。
(初出:マガジン・ワンダーランド第168号、2009年12月02日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
大泉尚子(おおいずみ・なおこ)
京都生まれ、東京在住。70年代、暗黒舞踏やアングラがまだまだ盛んだった頃に大学生活を送る。以来、約30年間のブランクを経て、ここ数年、小劇場を中心に演劇やダンスを観ている。フェスティバル/トーキョー春・秋ではボランティアクルーを。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/oizumi-naoko/

【上演記録】
タカハ劇団第5回公演「モロトフカクテル」-第2回演劇村フェスティバル
座・高円寺1(2009年10月15日-10月18日)
作・演出: 高羽彩
出演:有馬自由(扉座)/畑中智行(演劇集団キャラメルボックス)/広澤草/恩田隆一(ONEOR8)/奥田ワレタ(クロムモブリデン)/石川ユリコ(拙者ムニエル)/山口森広/酒巻誉洋(elePHANTMoon)/浦井大輔(コマツ企画)/西地修哉(726)/こいけけいこ(リュカ.)/小沢道成(虚構の劇団)

舞台美術:稲田美智子
舞台監督:藤田有紀彦
照明:吉村愛子(Fantasista?ish)
音響:角張正雄
演出助手:棚瀬巧

入場料金 全席指定 一般 3,300円(税込) 学生割引※ 2,500円(税込)

企画協力:嶌津信勝(krei inc.)
運営:安田裕美、たけいけいこ
制作統括:赤沼かがみ(G-up)

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