◎閉ざされた世界の底にわずかに残る演劇の希望
柳沢望
宮森さつきの脚本による『F』は未来社会を舞台にしたSF仕立ての二人芝居で、設定上、ある少女とその世話をするアンドロイドがホテルの一室のような場所にほとんど閉じこもって過ごす一年に満たない日々を、四季をたどる四つのシーンで描いていく。設定の突飛さを除くと、アンドロイドと少女二人の会話によって描かれていくシーンは、ごく日常的な情景と言っていい。今回の初演では、端田新菜が少女を演じ、多田淳之介がアンドロイドを演じた。演出は木崎友紀子。
設定をかいつまんで説明すると、舞台は現在よりも極端に階層分化が進んだ未来の日本らしい社会であり、裕福な階層の人々が、かつての自然や文化の名残を模造した世界で過ごすのに対して、貧しい人々はまるで人間として扱われていない。
そんな社会の貧困層で育ったひとりの少女が、ある病の特効薬の治験者になるため、あえて自ら病に感染することに同意し大金を得ることで、富裕層にだけゆるされた生活を送って、その日々から得られるささやかな喜びを、その少女に執事のように仕えるアンドロイドと共に味わっていくというのが、あらすじだ。
舞台は、春、お花見に行っていた二人がホテルの一室のような部屋に戻ってきた場面から始まる。貧困層が暮らす外の世界に桜など残っておらず、富裕層が暮らすエリアにある公園には人工的に管理された桜が植えられているという設定だ。自然と見えるものも、フェイクとして提供された高価でぜいたくな消費の対象でしかない、そんな未来社会というわけだ。
冒頭では機械的な口調で応対していたアンドロイドだが、途中で「そんな堅苦しい言い方やめてよ」と少女が言うのを聞くと「俺、なんでもお前のしてほしいようにするからさ。学習能力あるから」といった風に、少女の居心地の良いように親しげな語り口に切り替えてみせるといった展開もあって、コミカルさも交えてアンドロイドのスペックを説明する構成は巧妙だ。
この口調が変わる場面は、単にアンドロイドがプログラムされた心のない存在であることを強調してみせているだけにとどまらず、俳優が演じてみせる言葉はすべて、プログラムされただけのフェイクなのかもしれないという印象を残す。アンドロイドの作られた自然さは、そもそも人間の自然さも模造的なものかもしれないと印象付ける。そこから暗示される「すべての言葉はそもそもうわべだけの嘘なのかもしれない」といった疑念は、作品のテーマに密接に関わってくる。
未来社会を舞台にしたSF的な背景は非現実的なようだけれど、そうした設定はある意味、現代日本の社会状況を誇張して描くための仕掛けにも思える。二極化の進行も含め、この舞台で描かれているのは、少しばかり大げさに誇張されているだけで、まさに私たちの生き方そのものであるかのようだ。
夏の場面では、レンタル品の浴衣の着方がわからず、アンドロイドに着付けをしてもらう様子が描かれるのだけど、そこでは、無線で直接頭脳がネットに接続されているという設定のアンドロイドが、情報をネットから引き出しつつ浴衣の着方を教えるという展開になっている。設定上、アンドロイドは外的デバイス無しでネットにアクセスするので、検索といっても「ネットには着方の情報はあるけど着せ方の情報が無かったんだ、だから真似してみて」と語る演技が示されるだけで、舞台にはPCの画面は出てこない。そこが現実とは違うだけで、伝統的な風習をネットで調べてその通りに振舞ってみるといったことは、現代の日常にありふれたことだろう。未来社会に残されたフェイクとしての日本の四季、それは未来に仮設された視点に浮かび上がる現代の日常に他ならない。
アンドロイドは契約者の利益を最大限実現するように行動するようプログラムされているらしい。アンドロイドは、少女の機嫌をそこねないように「何がしてほしい?」「言い方が良くなかった?」「学習するからどうしてほしいか言って」「お前の利益になることをするのがオレの役目だから」と繰り返すのもその設定を強調している。これは、ペット風のロボットが感情を癒す機械として現実に商品化されているのを思い起こさせる以上に、そもそも現代のプライベートなパートナー関係自体が、互いに利益を与え合う関係として、まるで一種の感情労働のように、実にこの舞台でアンドロイドが契約した主人の利益を学習するのと同じようなものになってしまっているのではないかと思わせるものがある。
その意味では、心のない機械であるアンドロイドとは、多かれ少なかれ生涯を損得の計算で設計せざるをえない現代人を少し誇張した姿であるようにも見える。
多田淳之介は、そうした自然さを装う不自然さの質感を演技において達成していた。とりわけ、少女がアンドロイドにおずおずと口付けしてみても、意味ある反応が帰ってこないという展開において、揺れ動く少女の心理がセリフ抜きに描かれる繊細な場面で、アンドロイドが無表情に口付けされるがまま凍りついている様子は不自然な自然さを印象深くあらわしていた。
命の取引によって貧困層の現実から逃れ、ささやかなぜいたくを味わっていく少女は、不治の病でどんどん衰弱しているらしいことが舞台の進行につれてわかってくる。そんな状況の中で「熱があるからもう休もう」とアンドロイドが少女を諭す場面も描かれる。アンドロイドは少女の健康維持も図るようプログラムされているという設定だ。
そうした状況で、少女はアンドロイドに「本当のことなんてもう知っているし、もうこれ以上知りたくない」と言い放つ。貧困層の現実を忘れてフェイクの幸福を味わうのを邪魔しないでほしい、むしろ、都合の良い嘘をついてほしい、とアンドロイドに求めていく。
初めは、少女を死から遠ざけようとして健康を維持するために正しい情報を提供することに専念していたアンドロイドだが、やがて都合の良い嘘を望む少女の意図を学習し、少女の死が避けられなくなったことがはっきりした場面では「また春が来たら桜がみられるね」と嘘をつくようになる。
舞台の設定では、富裕層と貧困層は別のエリアに住んでいることになっていて、だれも人間扱いなどされていない環境で育った少女は、「基本的人権などという理想は、現実離れしたたわごとにすぎない」と鼻で笑うように描かれる。劇中では、貧困層が暴動を起こし都市が混乱して外出できなくなるが、その暴動もすぐ鎮圧されてしまうと状況が語られたりもする。観客には、少なくともこの架空の世界においては富裕層のフェイクの豊かさが、貧困層の犠牲なしにはありえないらしいこと、そして、少女が命とひきかえにつかのまの豊かさを味わっていること自体、その犠牲のひとつに他ならないことが知らされる。
そうした状況がすべて明らかになった段階で、すでに嘘を語ることで少女の気持ちを宥めることが少女の利益であると学習したアンドロイドは「君の幸せは誰かの犠牲の上に成り立っているわけではないんだよ」と語りかける。まさに、少女自身のささやかな幸せは、自らの命を犠牲にして得られたものだったのだから、このアンドロイドの嘘は極めて皮肉に響くものだ。
そして、契約者が死んでしまった場合は廃棄処分になるのだとアンドロイドから聞いた少女は、廃棄される前に逃げてほしい、とアンドロイドに最後に訴え、やがて息を引き取る。
この二人芝居のラストシーンは、死んでしまった少女を抱きかかえてアンドロイドがアゴラ劇場のエレベータに消えていく場面で終わる。上演台本の指示がどうなっていたか知らないが、上演された場面を見る限り、この最後の場面は二重の解釈を許容する。
この幕切れは、アンドロイドが最後に少女の死を人間らしいものとして扱ったという、いささかロマンチックで空想的な解釈の余地を残す。かわいそうな少女に涙することで慰撫されたい観客はその解釈を選ぶだろう。 その裏側で、実は少女が死んだらその遺体を回収するようアンドロイドは最初からプログラムされていた、という解釈も可能だ。嘘を仕掛けにしている時点で、あらかじめのプログラムは背後にいくらでも隠されているという風な、出口の無い罠のような構造をこの戯曲に読み取って、ある種のそら恐ろしさを感じることもできるかもしれない。しかし、そんな合わせ鏡に魅入られるようなうがった反省もまた、舞台に溺れて慰撫を得ようとする態度に過ぎないだろう。
アンドロイドの嘘は、どれだけ優しげに演じられていようと、設定から言って、フェイクとして演じられている。そうしたフェイクに慰撫されることが偽りに他ならないことを意識する観客は、四季のフェイクをいつくしむ過程を丁寧に描くこの二人芝居もまた、私たちの現実を誇張して描くことで観客を慰撫しようとする偽りなのではないか、という反省に誘われるかもしれない。
模造品のクリスマスツリーが象徴するように、すでに私たちもフェイクの四季がもたらすささやかな幸せに避けがたく絡めとられている。そうしたフェイクを味わってしまうと私たちはもはや身動きもとれず、それ以外の現実には手が届かない。
そんな風通しの悪い感覚こそが現代社会の正確な把握だろう。その皮肉さをわが事として認識しはじめた観客は、世界の中では比較的裕福な日本で生活に多少の余裕ある恵まれた立場にいるからこそ芝居と言うフェイクを享受できるのであって、芝居に涙ぐむことができる幸せが「誰の犠牲の上になりたっているわけでもない」とささやく言葉があったとしても、それは私たちを慰撫してくれる嘘でしかない。
そういう反省へと観客を誘うものとして、この芝居を受け取ることもできるだろう。
しかし、そのような反省をしてみたところで、それはあらかじめ安全圏に身を置きながら反省を口実に自分の責任を棚上げにする身振りでしかないだろう。
この戯曲は、そんな風に抜け道のない閉ざされた領域をあらかじめ構築してしまっているようで、作品の枠の中に留まる限り、そこから出ることはできない。
貧困層と富裕層が別のエリアに住んでいて、貧困層でいる限りは路上で死を迎えるしかない。そうした現実はすでに変えることはできない。革命はあらかじめ失敗を運命付けられている。それが、この二人芝居の前提である。
この上演の作り手たちは、そういう条件をゆるぎないものとみなして、緻密な説明や心理描写をその枠の中におさまるように編みこんでいったように思える。しかし、この舞台の精緻な作りこみは、何であれ与えられた条件から虚構の世界をくまなく構築し創造しようという姿勢から生まれたものではなかったのではないか。
たとえ架空の世界の話であれ、貧困からフェイクの四季へ逃げ込み、半年以上アンドロイドと二人だけで暮らしたら、その少女はどのように変容するだろうか。その問いを、この舞台の作り手たちは徹底して隅々まで想像してみようとはしていなかったように思える。あらかじめほどよく制限された範囲で都合よく四季を並べ、起承転結にあわせてみただけのことではないか。
たとえば、少女の感情を表現する演技が派手なほど巧みで、起伏を伴って大げさに示される様子は、ある種の技術の成果ではあっても、作品世界に一貫しているはずの少女の存在にどこまでも身を寄せていくような想像力の働きの結果ではないように思えた。
あらかじめ決められた結論とプロットの中に、プロットの都合に合った説明や心理のあやをはめ込んで行くだけの作業は、世界に対する判断停止を前提にして初めて遂行できるものではないかと思う。
架空であれ、現実においてであれ、世界が世界としてありそこに具体的に生きているならば、世界はこのような仕方で閉ざされたものではありえない。そう認めさえすれば、この上演の、見かけ上幾重にも閉ざされた世界の外に、想像力と判断力をどこまでも働かせる余地は、いくらでも広がっているだろう。
そうだとして、閉ざされた世界で少女が自らを犠牲にしたという解釈を唆す戯曲の言葉もまたフェイクであるとするならば、逆に、「その幸福は誰かを犠牲にして成り立ったのではない」という言葉を、嘘の中にまぎれた真実として捉える返すこともできる。
そこから、作中世界で少女が選んだ生き方を、それ自体として肯定する道もあるかもしれない。
ほとんどメロドラマ的なこの劇の構造において、ただ単にかわいそうなものと見なされかねない宿命的な死を、それ自体として肯定するように再解釈することで、この作品に萌芽的にある悲劇的な構造を浮かび上がらせる道もあったのかもしれない。そのためにはしかし、観客もまた、作品自体が自らを縛っている枠組みの外に出るしかないと思われる。
たとえば、ホテルの閉ざされた部屋で交わされる男女の対話によって展開するSarah Kane の戯曲 Blasted では、終盤、兵士が乱暴に部屋に入り込んでくる。ここでは、『F』と極めて似通ったテーマ系が展開されているとも言えるだろうが、『F』とは違ってBlasted では、描かれている世界の閉塞を開くものもまた、暴力的な表象を介してであれ、作品の中に着実に据えられているといえる。
『F』では、そのように閉塞を開くものは、すべて舞台の外にあらかじめ排除されている。舞台には終始二人しか登場せず、クリスマスツリーや、浴衣や、花火など、舞台にもたらされる品々もあらかじめ閉ざされた領域のなかにある。作品の中に居るかぎり、内向きに慰撫されることしか許されないような構造になっている。
いずれにせよ、何がこの二つの舞台作品の相違をもたらしているのか、その点を考えるためには、更に息の長い考察が求められるだろう。
ただ、この点で、火をつけるものが無いので花火ができないという『F』の夏の場面の展開は、戯曲の閉塞が消防法に制約された「劇場」の社会的あり方とすっかり重なり合うことを示しており、作り手はこの虚構を仕掛けることで劇場の閉塞を十分自覚していたと言えるのかもしれない。
だとしたら、その場面で線香花火に火をつける代わりに行われる「花火ごっこ」こそ、この作品の根底に残されている、わずかながらも演劇的な希望のひとつなのかもしれない。それは、舞台の上でなくても想像力さえあれば誰でもできる遊びとして開かれている。
その希望を舞台の中に閉じ込めてしまって良いのか、ということこそが問い返すべき問題なのかもしれない。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第179号、2010年2月24日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
1972年生まれ長野県出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。個人ブログ「白鳥のめがね」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yanagisawa-nozomi/
【上演記録】
青年団リンク 二騎の会『F』
こまばアゴラ劇場(2010年1月29-2月7日)
作:宮森さつき
演出:木崎友紀子
出演;端田新菜、多田淳之介
照明:岩城 保
宣伝美術:京
制作:服部悦子 木元太郎
芸術監督:平田オリザ
日時指定・全席自由・整理番号付
一般=3,000円、学生・シニア(65歳以上)=2,000円、ペアチケット=5,000円(予約のみ)
1月割引=2,500円(1月29日(金)―31日(日))
『F』Girl’s ver.リーディング=1,000円
企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場