DA・M「夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう」

◎沈黙する神に向かって語りかける-待つこと
竹重伸一

「夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう」公演チラシこの舞台は観客と共に、決して応答することのない沈黙する神に向かっても語りかけているように思えた。その意味ではDA・Mの仕事はS・ベケットの『ゴドーを待ちながら』に連なるものかもしれない。二年前の前作『Random Glimpses/でたらめなわけ』では映像や大量の椅子を使ったりしてまだスペクタクルな要素を多分に残していたが、今作はパフォーマーの肉体と空間との関係にフォーカスを絞ってよりシンプルでフラットな作品になった。そしてパフォーマーの動きも、特に前作では過剰な情念を感じさせた中島彰宏のパフォーマンスの変化がよく示しているように、よりニュートラルでイリュージョンや意味性を排除したものになっている。

その点でセリフのないこの演劇はポスト・モダンダンスに限りなく近付いているようにも思える。ポスト・モダンダンスが発見したものは訓練された特権的な肉体ではなく日常の肉体であった(実は舞踏が発見したものも同じなのだが、ここでは舞踏の話には敢えて踏み込まないでおこう)。そして舞台空間というものを日常と地続きの空間として捉え直すことで真の<今・ここ>を見い出そうとしたと言えよう。更に動きの意図的な限定と反復によるミニマリズム。この辺りの特徴は今作にも全く当て嵌まるものである。しかし私見では現在のポスト・モダンダンスは当初孕んでいたダンスの革命的価値転換を探求せず、結局その後ダンスという制度の中に取り込まれて社会との結び付きを失い、「ファインアート」になってしまったように思われる。現在の日本のダンス界においても黒沢美香を筆頭にポスト・モダンダンスの影響を受けたダンサー・振付家は一つのメインストリームを形成しているわけだが、残念ながら全く同じことが言えると思う。

男女二人ずつのパフォーマーはそれぞれ五つほどに限定された行為を無限に反復し続ける。上演時間は1時間余りだったが、それは単にパフォーマーと観客の肉体的限界が来たということを意味したに過ぎない。例えば今井あゆみなら、床の雑巾がけ、舞台中央の鉄柱に執拗に絡む、小さなテーブルをあちこち移動させながらその上で身体全体をバタバタさせる、イスラム女性のように白いスカーフで顔を覆う、上手側奥の壁に垂れ下がった布に触れる、煉瓦ブロックと戯れるという六つの行為からその場その場で一つの行為をランダムに選択しながら反復していく。四人の中ではやはり、劇団メンバーではない舞踏家の原田拓巳がやや浮いてしまっている。彼の肉体は存在するだけでどうしてもエロスや重さを醸し出してしまいニュートラルにはなれないからであるが、彼の異質感も演出家大橋宏の計算の裡ではあるだろう。そしていつものように四人はそれぞれ他者の行為には全く無関心で、ひたすら自分の行為に集中しているだけである。ただ今作では前半に二度、突発的に四人が同じ行為を始める瞬間がある。最初は床の雑巾がけで二度目は蝶々のように皆で嬉々として舞うのである。この二つのシーン、特に後者はこの意図的な無愛想さを貫いた作品の中で突発的な啓示のように訪れた美しいシーンであった。だが注意しなければならないのはそのユニゾンの美しさは本当に気付くか気付かないかの小さな漣に過ぎなくて、カタルシスとはほど遠いということである。

「夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう」
「夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう」

「夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう」
【写真は「夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう」から。撮影=中村和夫 提供=DA・M 禁無断転載】

それぞれが一定のテリトリーを与えられながら、分断され、絶望的に孤立している個々人。この舞台を観るほとんどの人に取ってとても居心地の悪い、退屈する風景には違いない。しかし紛うことなく民主主義と資本主義という現代のシステムの中で生きている我々一人一人の自画像である。そしてDA・Mの作品の中でも今回初めてはっきりと浮き上がってきたことであるが、四人は限られた行為をひたすら反復し続けながら明らかに何ものかの到来を待っているのである。冒頭で触れたように敢えてそれを沈黙する神と名付けてみることもできよう。しかしその待ち続けている神というのは「言葉」と言い換えることもできそうである。そう、「言葉」への希求こそ肉体的な行為だけに貫かれたこの舞台から逆説的に強く感じられるものである。こうした言語との強い緊張関係がポスト・モダンダンスとは一線を画させている。だがタイトルからするとその神が用意しているものは残酷な終末なのかもしれないと思えてくる。慎み深くではあるが、確かにその予感は観劇後にひたひたと私に忍び寄ってきた。その結果四人のパフォーマーは終末を知らずに無益な行為に没頭し続けるフールのような悲喜劇性を帯びてくる。そのまさに「ブリキの切り屑に映る影」に過ぎないような人間存在の哀れさ・滑稽さ、そしてそれ故の愛おしさを炙り出したのがこの舞台の最大の魅力であろう。

問題はそのひたすら待つという行為に潜む神学的ニヒリズムである。この舞台のニヒリズムは、現代の民主主義と資本主義のシステムを歴史の終着点とみなすF・フクヤマ流の「歴史の終わり」という認識からもたらされるような傲岸な世俗的シニシズム(実はそうしたシニシズムこそ今のポスト・モダンダンスの基層に色濃く流れている)とは明らかに違う。しかし行為の反復性が徹底されて作品がよりフラットな完成度を増したことにより、フロイトのいうエスが肉体から排除されてしまったような印象を受けたことは否めない。やはりそれは一つの抑圧であり、肉体の混沌を避けてパフォーマーを自我という牢獄に閉じ込めてしまったと思う。それが先程述べたように現代社会に生きる我々一人一人の自画像であるとしても、人間が肉体的存在である限りエスの欲望は厳密な反復性から逸脱しようとし、他者と激しく関わろうとするのではないだろうか。例えそれが既存の社会の秩序を破壊し、争いや混乱を導くものだとしても人間は今迄ずっとそうやってどうしようもない過剰なものを抱えながら生きてきたし、これからもそうやって生きていくしかないだろう。やはり待つという行為には超越的なものへの過度の加担を感じざるを得ない。

もう一つこの舞台に足りないと思ったのが静止である。四人のパフォーマーは1時間絶えず動き続けていて、静止する瞬間もないわけではないのだが、その静止が作品に奥行きを与える飛躍や裂け目にはなっていない。動き続けることが作品コンセプトの一部であるとしても、時間と空間は本来もう少し歪んだり、凹んだりしているものではないだろうか。
(初出:マガジン・ワンダーランド第193号、2010年6月2日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
竹重伸一(たけしげ・しんいち)
1965年生まれ。舞踊批評。2006年より『テルプシコール通信』『DANCEART』『音楽舞踊新聞』『シアターアーツ』等に寄稿。現在『舞踊年鑑』概況記事の舞踏欄の執筆も担当している。また小劇場東京バビロンのダンス関連の企画にも参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takeshige-shinichi/

【上演記録】
DA・M2010冬新作公演「夜がやってきてブリキの切り屑に映るお前の影をうばうだろう
プロト・シアター(2010年2月6日-8日)

■出演 八重樫聖
今井あゆみ
中島彰宏
+
原田拓巳
■監修・演出 大橋宏
■舞台美術 吉川聡一 山崎久美子
■主催・制作 劇団DA・M
■料金 当日・前売り \2000

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください