維新派「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」

◎小さい人 途方もない世界
 岡野宏文

「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」公演チラシ 維新派の舞台の最大の特徴は、人がみんな「小さい」ということである。三、四十人も登場する人物たちが、その数の多さを裏切るように、みなあまりにも小さい。白塗りの少年たちがいくら喜びの中を疾走しても、スーツに身を包んだ若者たちがいくら粛々と歩もうと、その小ささは圧倒的だ。

 逆にいえば、彼らを包む世界の大きさが途方もない。維新派の公演が、大阪なら南港の空き地、奈良だったら私鉄の小さな駅からしばらくいった壮大な原っぱみたいな場所、あるいは琵琶湖のひょうぼうとした湖畔、とにかくけた外れに空っぽの空間で上演されるのは、もしかしたらこの「人の小ささ」を確保するためなんじゃないだろうかと思えてくる。

 たとえば数メートルもある手作りの町並み群がダイナミックに移動する維新派ならではのスペクタクルには、確かにいいようもないときめきを感じる。あるいは、もうほとんどひとつの湖かと錯覚させるスペースに静かにたたえられた水のたたずまいは、限りなく美しい。けれどそれは、本来ある人間のスケールを映し出すための、それこそ必然の「装置」なのではあるまいか。

 人はさまざまな道具を発明し、手、足、目、耳をいわばとめどなく拡張してきたが、それらのツールは当たり前の話、等身大にできている。つまり私たちの進化は世界を等身大にリサイズすることでもあった。いま等身大の世界の真ん中で、愛は叫ばない方がいいと思うが、私たちは私たちの本当の大きさに間違いなくはぐれている。人の本当の大きさはたぶん、思いがけないくらいに頼りない。

 維新派のステージを見て、なにやら切ない気分にとらわれるのは、そんなちっぽけな私たちのむき出しの姿を見いだしてしまうからだ。観客はみな、知らないうちに自分が本質的に抱える頼りなさ、いいかえれば「淋しさ」と出会ってしまう。どんな題材を扱った時でも維新派の舞台が不思議に哀しいのはそのせいだと思う。

 「台湾の、灰色の牛が背伸びをしたとき」が上演されたのは、彩の国さいたま芸術劇場だった。野外公演でなく、また劇場入り口をとりまく屋台村のないのもいささか寂しい気がした。維新派が都内で野外公演するには、いったい誰が都知事になればいいのか。松本雄吉さんだな。立候補するなら私は東京へ引っ越して一票投じよう。だが万一当選したらすぐさま私は神奈川に戻る。そんな東京にはあぶなくていられない。

 さて、作品タイトル「台湾の、灰色の牛が背伸びしたとき」は、フランスの作家ジュール・シュペルヴェイユの詩の一節からとったという。

 シュペルヴェイユは詩人とも、小説家とも判別し切れぬユニークな、いわばハイブリッドな芸術家だ。ある日少女の流した一粒の涙がノートのうえで乾かなくなり、それ以来地球上の水という水が乾かないため、降雨により洪水になる「ノアの方舟」という作品や、幾本もの橋の下をくぐりながらセーヌ川を海にまで流れていく少女の水死体を美麗に描写した「沖の少女」なる作品や、奇妙な味のものをたくさん書いている。

 また本人も、フランスとウルグアイの両国籍をもち、生涯にわたって二国を行き来しながら、ジャンルの定められない作品執筆を続けた。そんな彼のさまよいにも似た生き方は、本公演を支えるモチーフにゆるやかなふさわしさをもっている。

 アジアの海にはあまたの島々が存在する。その南方の海から、島づたいに日本にいたる道のことを「海の道」と呼ぶらしい。今回維新派が構築してみせたのは、その海の道をたどって南方へ移民した日本人と、南から日本へたどり着いたアジアの人々と、そうした生国に根づかぬ移動に生きた人々の群像劇だったのである。もっといえば、アメリカやヨーロッパを軸とした史観を飛び越え、アジアの20世紀を描くことにフォーカスをあてているのだ。アジアの20世紀に「地べたを歩いて生きた人々」の息づかいを甦らせながら。

 物語は、時系列にそって語り起こすストーリー方式でなく、時空を幾たびも往還しながら、一人一人の生の現場を点在させるエピソード形式によって進められる。このからくりがたいへん効果的だった。私流にいうとこのからくりは、ヴォネガット・スタイルともいえる。SF作家カート・ヴォネガットが読み手を翻弄した、あのジグソーパズルみたいな世界の記述法だ。

 ヴォネガット・スタイルはもう一つ、作中、数人の人物のあいだで繰り返し交わされる、次のような幻想的なせりふにも顔をのぞかせていた。
 「そこはどこですか」
 「そこはいつですか」
と呼びかけあい、
 「フィリピンのミンダナオ島です」
 「1921年です」
と答えあう。

 つまり彼らはときおり、時もところも飛び越えたフィールドに立ち、故郷を捨てねばならなかった者どおし、はるかに呼びかけあい、それによって仮初めにつながり、ようやく足元を確認した夜夜をもったのではないだろうか。いいかえれば、数千数万の死者との対話、そして未来に生まれるはずのさらに多くの者との交信を通じ、ようく地上に安息したのではないだろうか。そういう想像をかき立てるとめどもなく淋しいシーンと私は受け取ったのだ。維新派の「淋しい」がここにもまた現れている。

 もちろん、維新派ならではのあの群舞、まるで木偶人形に霊が憑き、手足をひどくぎこちなく動かしながら、韻のそろった歌詞を切れ味鋭く吐き出すみたいに、しかしすべての動きが寸分の乱れもなく刻まれるあの不可思議な群舞は、いやましに健在であった。まったく、あの魔法にかからぬ強者がいるだろうか。

 ところで、シュペルヴィエルの詩に描かれている情景が、どのようなものかというと、台湾の(原典は「中国」)牛が背伸びをしたときに、地球の裏側のウルグアイの牛が振り向き、その上を鳥が飛ぶ、といった調子である。劇中でも、せりふとして数度くり返されていた。この詩で言及されているのは、世界の同時性あるいはシンクロニシティ感覚に違いあるまい。とすれば松本は、「海の道」を通って生涯を暮らした人々のとても手触りのある造形をそのまま、別方向からある意味それを客観化する大きな視線、ひょっとすれば宇宙の息吹、そうした時間を導入しようとしている。冒頭に述べた「世界の大きさと人の小ささ」という巧妙なからくりが万全な効果を生んだ力もあり、その壮大な時間の定着に蟻のはい出る隙もなかった。

 さらに、とてもステキだったものの大丈夫かと不安にもなったのは、舞台装置というか、むしろ舞台そのものがたまげたことになっていたのである。まずさいたま芸術劇場の通常のステージは、下方へグッと沈められていたのだと思う。ステージを沈めてあいた空間に、鉄パイプを組んで支える形で、フローリングまがいの新しい舞台が仮設されている。これは晒した板を使っているのだろう、時を和んだ風合いを放って幻想的なのだ。だからそこまではいい。しかしなんというか、モザイクが所々剥がれ落ちたというか、あちらこちら板張りが途切れて黒黒とした奈落をのぞかせているではないか。舞台端なんぞは客席と完全にたち切れて鉄パイプむき出しの闇が大きく口を開けている。もうこれ、ほとんど裏宝塚の銀橋である。暗転で板に付く役者もいるだろうに、こいつらみんな忍者か、たぶん下忍だな、と私は思った。登場人物たちが、物理的にはバラバラの環境に遠く引き離されて存在していることの象徴として、しかしまことに生きていた。

 海外公演もふえた維新派であるが、かくなる冒険、かほどの無茶、ぜひとも洗練しつつなお経済に逆行するかばかりの野蛮をしっかりと携え、虚無の中を走り続けていただきたい。

 そうそう、大劇場の興業にもかかわらず、並席三千円という目を疑うチケットにも、感動してしまったのだった。
(初出:マガジン・ワンダーランド第211号、2010年12月22日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
 岡野宏文(おかの・ひろふみ)
 1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「せりふの時代」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に「百年の誤読」「百年の誤読 海外文学編 」(豊崎由美と共著)「ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)」(扇田昭彦らと共著)「高校生のための上演作品ガイド」など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/

【上演記録】
維新派「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」《彼》と旅をする20世紀三部作 #3
彩の国さいたま芸術劇場(2010年12月2日-5日)

作・演出 松本雄吉
音楽 内橋和久

舞台監督 大田 和司
舞台美術 黒田武志(sandscape)
照明デザイン 吉本有輝子(真昼)
照明 ピーエーシーウエスト・岸田緑 魚森理恵・伊藤泰行
音響デザイン ZAK
音響 田鹿充・move
SE 佐藤 武紀
演出助手 中西 美穂
屋台村ディレクター 白藤 垂人
衣裳 維新派衣裳部 ・江口 佳子
衣裳協力 木村 陽子・高野 裕美
メイク 名村 ミサ
宣伝美術 東 學(188)・北村美沙子(188)
宣伝写真 福永 幸治(スタジオ・エポック)・井上嘉和
ウェブ製作 中川裕司(house-A)

スタッフ
五十嵐大輔・生杜野かかし・池田剛・井上憲次・内田欽弥・大鹿展明・岡博史・岡田保・柏木準人・木村文典・金城恒次・白藤垂人・豊川忠宏・百々寿治・中村公彦・羽柴英明・山本真一・富島美奈・中麻里子・松下香代子
協力 高岡茂(スタジオデルタ)・田辺泰志 西尾俊一(FINNEGANS WAKE 1+1)
制作 山崎 佳奈子・清水 翼

キャスト
岩村吉純・藤木太郎・坊野康之・森正吏・金子仁司・中澤喬弘・山本伸一・小林紀貴・石本由美・平野舞・稲垣里花・尾立亜実・境野香穂里・大石美子大形梨恵・土江田賀代・近森絵令・吉本博子・市川まや・今井美帆・小倉智恵・桑原杏奈・ならいく・松本幸恵・森百合香・長田紋奈

<犬島公演>
池田光曜・森田晃平・岡崎由起子・片山晴絵・清原瑞穂・黒神奈美・杉田愛美・住吉山実里・高矢慶子・恒吉美都穂・肥後実可子・藤原那津子
<埼玉公演>
青木賢治・内田祥平・村島洋一・安達彩・安藤葉月・大村さや香・関根敦子・曽合はるか・中武円・堀井秀子・山本芙沙子・吉田由美

<岡山>
2010年7月20日(火)~8月1日(日)
/犬島アートプロジェクト「精錬所」内・野外特設劇場
<埼玉>
2010年12月2日(木)~5日(日)
/埼玉 彩の国さいたま芸術劇場
料金 S席 一般=5,000円/埼玉県芸術文化振興財団メンバーズ=4,500円 A席 一般=3,000円/埼玉県芸術文化振興財団メンバーズ=2,700円

主催/
維新派(犬島・岡山公演)
財団法人 福武教育文化財団・瀬戸内国際芸術祭実行委員会(犬島公演)
財団法人 埼玉県芸術文化振興財団(埼玉公演)

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