第七劇場「かもめ」

◎かもめ・五幕-非日常の中の日常を描く-
 高倉麻耶

第七劇場「かもめ」公演チラシ 鳴海康平氏が構成・演出・美術を担当する第七劇場の「かもめ」については、知人から噂が聞こえてきて、ずっと気になっていた。残念ながら名古屋・千種文化小劇場(ちくさ座)での公演を見逃してしまったのだが、幸いにして、三重県文化会館で再演されるという情報を得、近鉄に揺られて真冬の津駅へ向かった次第である。

 チェーホフの戯曲を、行きの電車の中で読んだ。現代口語に慣れた目で読むと、文中の言葉から意味を拾い上げようとしてもなかなか難しい。これがどんな舞台になるのか、観劇経験の少ないわたしには、うまく想像できなかった。

 いざ蓋を開けてみると、そんな想像は必要ないのだとわかった。とうに、想像は超えていたのである。余計なことは考えなくてもよかったのだ。

 何よりまず、舞台装置が美しい。現代アートとインテリアデザインの粋、といった趣である。白い床に、色の濃い椅子が並べられ、テーブルの天板もオフホワイト。隅に備えられたブランコには、観客席に背を向けた白いワンピースの女性が、静かに座している。それから、テーブルの上ぎりぎりに吊り下げられた鴎のオブジェ。そしてその小さな鴎の姿に呼応するかのように、頭上には巨大な木組みの吊りものが、悠然と浮かんでいる。

 木組みは、おおむね鳥の姿を表現している。血管標本のようでもあり、骨格標本のようでもある。小ホール(といっても180人は入るらしい)の高い天井を仰ぎみて、この舞台空間は、美術的な総合造形の作品として鑑賞しても、じゅうぶんに魅力的だと感じた。黒と白と淡色の、ほぼモノトーンに近い色調。小さな鴎が、なにか異空間と現実とを結ぶ接点、あるいは物語と空間とを結びつけるぎりぎりの繋ぎ目であるように見えてくる。

 開場して客席に着いたときには既に、舞台で「演技」が始まっていた。寝間着のような白い衣服をまとった三人の女性が、ボッティチェリの絵画『春』のように、軽やかな遊びを繰り返している。彼女たちは、精神病院の病棟に閉じ込められている患者である。ただ遊んでいるというのではなく、どこか虚ろな無邪気さを醸し出している。

 目測ではあるが、白い床は、ほぼ正方形に近いものと感じられた。これが、能舞台に於ける結界のような役割を果たしている。患者達は、そこから出ることができない。

第七劇場「かもめ」から
【写真は、第七劇場「かもめ」から。撮影=鳴海康平 提供=第七劇場 禁無断転載】

 ささやかな平穏を破る杖の音。ドールン(小菅紘史)の登場である。医師は患者を威圧し、支配的でありながら、患者から向けられる鋭い疑問に耳を塞いで自分の思想を守ろうとする。どうなるのだろうと息をひそめながら見守っていると、幽霊のように無表情な青年コースチャ(白鳥光治)が現れて、舞台上を静かに歩き、すうっと去ってゆく。続いて、コースチャと同じようにすうっと通っては去ってゆくアルカージナ(額田麻椰)とトリゴーリン(須田真魚)。彼らはいったい何なのか?

 ブランコに座っていた女性が、不意に動き出す。髪に白い花を挿していることから、主役であることがうかがえる。ニーナ(佐直由佳子)である。

 ここで納得した。これは、チェーホフの『かもめ』四幕の、つづきにあたる世界なのだ。いわば、新しく創り出された「五幕」といったところだろうか。

 わたしには、『かもめ』がなぜ「喜劇・四幕」と書かれているのかわからない。物語を追う限り、これはどう見ても悲劇なのである。コースチャはニーナを愛し、ニーナはトリゴーリンを愛し、トリゴーリンは結局アルカージナへの想いを捨てられないという、誰ひとり報われない不毛な愛の関係である。風景ばかり明るいが、人物たちの心情は暗澹としている。

 五幕だと納得した途端、戯曲を読んで感じたその暗さと、舞台上で繰り広げられている狂気の物語が、わたしの中でぴたりと一致した。

 コースチャ、アルカージナ、トリゴーリンら『かもめ』の登場人物たちは、ニーナの妄想の中で動いている「影」である。生きた人間としてそこに存在しているわけではない。それを象徴するかのように、彼らはそこらにポンと感情を投げ出したような物言いをし、夢のように現れて夢のように去ってゆく。ニーナ自身、彼らと関わりながら、ちぐはぐで奇妙な言動をとる。たとえば、「嬉しい」という言葉を発しながら、まったく嬉しそうではなく、何かよくわからないものに対して怯えているような顔をする。そう、彼女はこのあと何が起こるかを知っているのだ。それは過去の事件であり、ニーナは幾度となくその記憶を辿りながら、心のなかで無限の苦痛と闘っている。

 原作ではコースチャが最後に自殺するが、この舞台では、ニーナがコースチャの銃を奪う。その行為の繰り返しは、反実仮想なのである。ニーナは、彼の自殺を止められなかったのだ。

 舞台上では、登場人物たちの、意味があるのかないのかわからないような言葉が積もっては消え、積もっては消え、その声はただ「音」となって降り続ける。音としての「ことば」が心地よい不気味さを奏でたあとに、はじめから何もなかったかのように、ただただ消滅してゆく。そう、まるで雪のように。これは、記憶が忘れ去られていく過程と、忘れ去ろうとしていた記憶が内部的な力で逆に蘇らされるという過程に、どこか通じるものがある。

 後半、実際に背景で雪が降り始める。(これは北海道紋別生まれの鳴海氏の、心の原風景なのかもしれないが)ここで雪を降らせるのは、単に間をもたせようとしているだけではないとわたしは思った。次々と発せられては消えてゆく、雪のような声のイメージと呼応しているように感じられたのである。

第七劇場「かもめ」から
【写真は、第七劇場「かもめ」から。撮影=鳴海康平 提供=第七劇場 禁無断転載】

 ふだん、わたしたちは発声された言葉と意味を、すぐに結びつけている。意識して、意味を離れた音だけを聴く機会というのは、あまりない。しかしゲシュタルト崩壊が起こって、知らない外国語を聴いているときのように、声の「音」だけを聴いていると、日本語の持つ音は不思議なものとして響いてくる。このような聴き方は、心地よい奇妙な体験としての力を持つ。観客の意識をふだんと違う状態に置き、心をざわつかせる効果がある(もちろん、日本語を知らない外国の人にとっては、また少し違う聴き方になってくるだろう)。

 ニーナの妄想の人物たちと、医師と患者たちの発言が錯綜する。重なり合ったり、繰り返したり、もうどこをどう観ればいいのかわからなくなってしまう。その混乱が極まってきた頃、整然と並べられた椅子をニーナが次々と倒しては、自分の手で元に戻してゆく。これは、葛藤の比喩だと受け取った。

 白と黒の相克、不毛な連続性。二重写しの物語がみえてくる。四幕までの過去と、五幕すなわち現在のニーナという、二つの物語。

 この演出では、人物たちのセリフを無意味に放出することによって、戯曲の持つ本来の物語性を、ある程度排そうとしている。そうすると、その奥に隠れていたものがあらわれる。ストーリーをわかりやすく伝えるような演技をしないことによって、『かもめ』の物語に潜んでいた人間的悲惨にうまく触れている。

 たとえるなら、ストーリーというのは太陽のようにまぶしい。昼間も星は輝いているのに、太陽の光に隠れていて見えない。太陽が沈んで夜になると、隠れていた星の光が見えてくる。そのように、明確なストーリーが押し出されてこないので、それぞれの人物の感情が物語のフィルターを通さず、そのままダイレクトに伝わってくる。そして、その人物たちの持つ人間的悲惨は、普遍性を持っている。求めるものを得られず、誰にも理解されない心の閉塞という悲惨である。

 精神病院の病棟で、心の傷と闘いながら、独り妄想の世界を生きるニーナ。何も生み出さない、閉塞的な連続性。そこにはもう、毅然として「わたしはかもめ。いいえ、わたしは女優」と言い放った強さはない。自分がコースチャを突き放したことが、彼の自殺という悲劇の引き金をひいたのだ。つまり「五幕」で語られているものは、気が狂うほどに激しい後悔なのである。

 舞台上で起きていることは、一見するとただ混沌としているように見えるのだが、実は整理されていくものをたびたび混ぜ返すという繰り返しである。これは、カオスというよりはフラクタルの連続性ではないか。小さな鴎と大きな鴎。繰り返される無限の妄想。病棟の中でニーナは毎日、この一幕から四幕を繰り返し続けているのかもしれない。

 舞台における床や衣服の白さは、決して癒しの象徴ではない。苦悩と、相克する葛藤を暗示している。なぜなら、黒いドレスに身を包んだアルカージナがそこにいるからだ。その世界の暗さをさらに深く、深く、地獄へひきずりこもうとするかのように、アルカージナが妖しい微笑を浮かべながら、白いワンピース姿のニーナにまとわりつく。蛇のような細い腕が心臓を求めてまさぐる動きは、エロティックでもあるのだが、どこかオカルティックで魔術めいている。それはニーナ自身の影(シャドウ)である。

 ニーナの心の「影」は、彼女をどこへも連れて行かない。だから彼女はどこかへ行こうとするように、壁から壁へと突進する。天へ向かって両腕を伸ばす。その動作は、先述の「ことば」と同じように意味を失った「しぐさ」である。観客には、ニーナがいったい何をしようとしているのかわからない。わからないが、彼女が必死で何かをしようとしていることはわかる。言葉を持たない幼子が、声や仕草で何かを訴えようとするように。それは、言葉にならない思いを伝えようとあふれ出てきた行動である。

 この舞台を観て、わたしは島尾敏雄の『夢の中での日常』という短篇小説を思いだした。現実と入り乱れる妄想や狂気を扱った作品であり、静謐な描写と夢想的な雰囲気が狂気の不気味さをかきたてるところが、少し似ている。

 狂気という心の闇に手を触れるのは、火を扱うよりも危険なことだ。私小説『死の棘』で高い評価を得た島尾氏だが、当人が狂っていたわけではない。リアリティをもって狂気を表現するには、人の心が病み、狂っていくという心理状態を、冷徹にみつめる理性が必要である。藤沢周平の短篇小説にも、ある嘘を信じさせるために狂ったふりをしているうち、本当に狂ってしまう男の話があるが、狂気の表現を追求するということは、そういう危険性をはらんでくる。また逆に、そのギリギリ手前で踏みとどまるぐらいの勢いでいかないと、リアリティを持てずに表現が薄っぺらくなる。成功すれば強烈なインパクトを持つが、失敗すると観客が鼻白んでしまう。

 しかしながら、俳優が舞台上で狂気を演じるということは、観る側にとっては魅力的なことだ。人は、日常の世界から抜け出して非日常の世界に浸りたいという、ある種の欲望を持っている。その欲を十分に刺激し、満足させてくれる素晴らしい65分だった。ただ美しいだけでなく、ニーナの記憶・妄想・現実が入り混じり交錯する心理世界という「非日常のなかの日常」を堪能することができた。第七劇場が次回の公演でどんなことをやってくれるのか、へたな想像はせずに期待している。
(初出:マガジン・ワンダーランド第224号、2011年1月16日発行、購読は登録ページから)

【著者略歴】
 高倉麻耶(たかくら・まや)
 本名:山名美帆(やまな・みほ) 1976年京都府生まれ。筑波大学芸術専門学群(美術主専攻・洋画コース)卒。2009年2月、短篇『星の降る丘』にて第二回ショートストーリーなごや大賞受賞(2010年映像化)。作家・堀田あけみに師事し、小説・シナリオ・戯曲等の執筆に取り組んでいる。

【上演記録】
第七劇場かもめ」(ワールドツアー2010-2011 Mゲキ!!!!!セレクション 日本公演)
三重県文化会館 小ホール(12月11日-12日)

原作 A・チェーホフ
構成・演出・美術 鳴海康平
出演 佐直由佳子 木母千尋 山田裕子 小菅紘史 菊原真結 額田麻椰 須田真魚 白鳥光治
照明 島田雄峰(Lighting Staff Ten-Holes)
音響 和田匡史
衣裳 川口知美(COSTUME80+)

料金 一般 2000円 / 一般ペア 3000円 / 学生(大学生以下)500円

主催 (財)三重県文化振興事業団
協力 atelier SENTIO
製作 第七劇場


「第七劇場「かもめ」」への5件のフィードバック

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