マームとジプシー「コドモもももも、森んなか」

■主体・客体が茫漠とひろがる《祈り》、そしてナレーション

 各シーン、つまりはコドモたちの遊び場所の記憶をこうしてランドスケープにまで〈空間的〉に織り上げていく力は、「明日から休みだっていう金曜日」に目を閉じてパンパンパンと手を叩いている次女ゆきの《祈り》によって呼び起こされているように思える。この物語にとって巫女ともいえる彼女の《祈り》は、帰ってこない親、行方不明の文鳥、絶交、引っ越し、火事、死、といったコドモたちそれぞれの抱える《不在》の感覚を、一週間とゆうエンドレスなループの中に〈時間的〉にも織り上げていく。《祈り》によるこの〈空間的〉〈時間的〉なタペストリーの縫合の象徴となるのは、「時計」を模した第一部のラストシーンだ。舞台中央に《祈り》に身を捧げる次女ゆきがいて、その上手奥、つまり短針の位置には《不在》の象徴・三女ももが佇んでいる。そして長針の位置に長女さえがいて、他のコドモたちと一緒にグルグルと時計回りに一週間のループの中を回転し、彼らの終わりなき《時間》を描き出していく。三姉妹が《時間》《祈り》《不在》の象徴となって「時計」を表現するこの美しいシーンでは、舞台に設置された3つの置き時計にうっすらと光が当たり、カチカチと秒針の刻む音が聞こえてくるだろう。

「コドモもももも、森んなか」公演から
【写真は「コドモもももも、森んなか」公演から 撮影=飯田浩一 提供=マームとジプシー
禁無断転載】

 《祈り》とはしかしなんとも不可思議な行為ではないかとわたしは思うのだがどうだろう? 神や仏に向かってお願いしながら現実の誰かの顔や声を思い浮かべていたりもするし、自分の幸福を願っていながら他の誰かの幸福がそこに混入してきたりもする。《祈り》において人は明確な答えを出さないまま複数形の主体/客体としてただひたすらに手を合わせていて、そこには「わたしたち」とも「あなたたち」ともつかない人称の不明瞭なひろがりだけがある。この点をもう少し掘り下げてみたいのだけど、例えば仮に「これから演劇をはじめます」といったモノローグ的宣告やナレーションを演劇的一人称(メタ)、「ーじゃないですか?」と客席に問いかけることを演劇的二人称(ネタ)、劇中の登場人物になりきって会話(カンバセーション)のセリフを読むことを演劇的三人称(ベタ)と呼ぶとするなら、《祈り》における主体・客体の茫漠とした関係は、このいずれにも当てはまらないのではないか(それを演劇的四人称と呼ぶのはさすがに気が早いとしても)。

 ところで、マームの作品でしばしばカンバセーションに挿入されてくるものとしてあるナレーションは少し特殊で、この《祈り》の茫漠さに近いものを持っているように思える。ナレーションはメタ的な場所(外側)に身をズラして発話することになるので、物語を瞬時に宙吊りにするだけの力を持っているのだが、マームのナレーションの方法は一見チェルフィッチュのそれにも近いようでいて、両者の志向性には大きな違いがあるようにもわたしは思う。とゆうのもチェルフィッチュはダンス的な身体の動きを取り入れながらモノローグ的に発話を繰り返していくことを舞台の基調としていて、つまり俳優とテクストはつねにひとりで自律してそこに立ちうるだけの強度をそれぞれに孕んでいる。だからたとえ複数になるとしてもそれはひとりひとりの合わさった「s」のつく複数形であり、あくまで個人あってのことだとわたしには感じられるのだ(*8)。『わたしたちは無傷な別人であるのか?』のナレーションにしても、あくまで観客にイメージを植え付ける(受精させる)ための強いベクトル(圧力)を持ったものとして屹立しているように見える。とにかく強いのである。それに対してマームとジプシーの舞台では、俳優はひとりで成立するような強度を持つようには見えない。コドモを意味する英単語のchildの複数形chiidrenみたいに、それはもう最初から複数形であるしかないような生き物の蠢きであり、個々に分解して成り立つようには思えないのだ。しかしそれはマーム/藤田の演出が未熟だからとかではなくて、未成熟なもの(コドモ)を舞台に上げるための必然的な方法としてそれがあるからだろう。マームのコドモたちは、感情が微細に共振するグルーヴ感を持ったカンバセーションの中にいつも身を置いていて、そこからシームレス(繋ぎ目のないまま)に誰にともなく語られるナレーションが発生してくる。マームのナレーションはそこに屹立する強度を持ち得ないまま、一瞬生起したかと思うとまたすぐにカンバセーションの渦に埋没していく。(*9)

 このナレーションの一瞬の飛来によって、安心してベタにカンバセーションを眺めていたつもりの観客はほとんど気づかないまま微細に混乱することになるだろう。つまり観客は「お芝居を観ている」安全地帯から少し釣り出されて心を揺さぶられる。そしてこの作品における《祈り》の主体・客体の茫漠としたひろがりの中に、観客個々人の記憶や感情も呑み込まれていくのではないか? このカンバセーションにまぎれたナレーションによる混乱のメカニズムによって、用意された一本の物語の筋にいわゆる「共感」とゆう回路でべったりとシンクロするのとは異なり、観客の記憶や感情は切れ切れになった断片のまま、コドモたちの声と《祈り》に呑み込まれていく。マームの舞台における観客の「感動」にはこうしたメカニズムが働いているようにわたしは思う。

■音=声に敏感な演出

 コドモたちの声といえば、甲高い女の子たちの声が劇空間に乱反射するのもマームの特徴だが、だからこそ彼らにとって音はとても大事な要素といえる。藤田は特にSTスポットの白壁での演出を心得ていて、まるで調律師さながらに繊細に音を調整していく。音楽はスピーカーを通さずに、舞台裏に設置されたラジカセからうっすらと聞こえてくる仕掛けになっている(*10)。俳優の声に関しても繊細で、セリフ喋りが高速すぎて意味がよく聴き取れないシーンも多々あったりするけど、もちろんこれは意図的に演出されたものである。特に斎藤章子(役名・とう子)や尾野島慎太朗(役名・なつお)はこうゆう高速での喋りを超得意としていて、天才的といっていいくらいもう何を言ってんのか分からない(だけどなんてグルーヴィーなんだろ!)。

 また吉田聡子(役名・さえ)、青柳いづみ(役名・ゆき)の、荻原綾(役名・みずうみ)の声は、カンバセーションとナレーションを違和感なくシームレスに繋いでいく特殊な質感を持っている。中でも今作の巫女といえる青柳いづみは《祈り》を担うだけではなく、姉や妹に対して感情を爆発させたり(「さえちゃんはいつもさー、何時何分何秒地球が何回まわった時!?とかさー」)とか、憧れのちづみに対して背伸びして斜に構えてみたり(「ん、シューズ? あ? ん? ふんーん?」)とか、いろんな形でこの作品の音域に起伏をもたらしている。また《不在》の象徴である三女もも役の召田実子は、ほとんど神童かとみまごうばかりの驚異的な幼児っぷりで、他の誰にも決して真似できんだろうとゆうような言葉未然の不定形な音のカタマリをコドモたちの世界にごんごんごんと投げ込みつづける得体の知れない存在と化している(聴き取れるところでは「なんじゃー」「鬼か!」「宇宙人?」「カッパ隊長!」などの「もも語録」があるが、ほとんどは言葉にもなっていないただの音である)。青柳いづみはチェルフィッチュやtoiで、召田実子は岡崎藝術座やFUKAIPRODUCE羽衣その他でお馴染みの人もいるかもしれないけども、実は彼女たちは学生時代から藤田と活動を共にしてきた盟友である。

「コドモもももも、森んなか」公演から
【写真は「コドモもももも、森んなか」公演から 撮影=飯田浩一 提供=マームとジプシー
禁無断転載】

 さらには「みかん食べられないからー」と泣き続けるうんちちゃん(高山玲子)が自分の家では生き生きとしていてむしろ気持ち悪さが増してるのとかも面白い。彼女は今回初のマーム出演だったけどもその馴染みっぷりはすごいし、さすが客演経験豊富なだけあってこの劇団に新風(別の遺伝子)を吹き込んでいるようにも思う。「あたしゃ四時半からバレエだよ!」と得意げに自慢するちづみ(伊野香織)の声は、一度聞いたらそう簡単に忘れられないようなある種の神経逆なで感(?)をともなっている。彼女の前作でのバレーボール部キャプテン役に心打たれた人も多いだろう。そして猫が生まれてこないかと漠然と想像し、淡々とコドモたちに語りかけるちょっと大人びたりり子さん(とみやまあゆみ)、同年代の子に河原で出会って少し興奮したせいか、木曜洋画劇場で観たエミリー・ローズの真似をしてベッドの下で眠ってみる少女あずさ(北川裕子)のフレッシュな感じなど、特に女性の声に関して藤田が敏感にキャスティング・演出しているのはありありと感じられる(逆に男の子に対してはそこまで執拗ではない?)。

■反復による「慣れ」を克服するための編集と、「地図」としての戯曲

 さてこうした藤田の「声」への執着は、演出面のみに留まるものではなく作劇にも大きな影響をおよぼしている。藤田の作劇・演出では、書かれた文字(エクリチュール)よりも発話される声(パロール)に圧倒的な信頼が置かれる。といってもどんな作家でもそうであるように、当然彼の頭の中には過去の演劇や映画、小説、漫画、詩、歌として書かれた言葉がたくさん流れ込んでいるわけで、だけどもそうした言葉をマームの作品として舞台の上でリプレゼント(represent)するにあたって、つまり再度命を吹き込むにあたっては、あくまで「文字=意味」よりも「声=音」としての言葉のほうにより神経が研ぎ澄まされるのだ。

 そもそもマームは「台本が書かれ→役者に手渡され→役者はそれを読んでセリフを暗記して→身体に覚えさせていく」といった一般的な稽古方法をとっていない。最新の台本は確かに藤田のパソコン(ネットは繋がってないのでほぼワープロ同然)に書かれてはいるけれど、それはつねに役者の声によって発話されるための暫定的なテクストでしかない。いちおうある時点での台本が役者に手渡されたとしても、稽古の中でどんどん書き換えられていく。つまり「かりそめの台本→役者の記憶力→発話する役者の声と身体→演出家による修正と創造→台本へのフィードバック」といったこの有機的な繋がりこそ、マームとジプシーの稽古法の心臓部なのではないか。

 だけどここに大きな問題が立ちはだかる。たとえどんな方法を採ったとしても結局役者は「演技に慣れてしまう」ではないか? 一発撮りが許される映画のような〈複製芸術〉と異なり、演劇みたいに稽古や本番を通して同じ演技が繰り返し再生される〈反復芸術〉では、役者は「すでに書かれた台本」や「一回前までの自分の演技の記憶」をどうしても根拠にしてなぞってしまうではないか? 特に目の前のグルーヴを大事にするはずのマームなのに、俳優が自分の内部の記憶を頼りにしはじめたら鮮度が一気に失われてしまうのではないか?

 演劇にとって避けがたいこの問題に対して、さて藤田は何をしているかとゆうと、例えば役者をつねに可愛くリフレッシュした状態に保つために、初日から千秋楽までのあいだに(必要があれば)シーンを入れ替えたりするのだった。つまり稽古の段階で最終的には採用しない可能性のある短いシーンを膨大につくりあげていて、その無数にある引き出しからエピソードをパズルのように組み合わせ、役者が慣れてきたなと思ったら、本番期間中でも新しい素材や奥の手を投入してフレッシュな状態を保とうとする。これは役者にとっては大きな負担になるし、演出家にもかなりの編集能力が要求されるわけだけど、マームとジプシー/藤田貴大はそれをやってのけている。膨大なシーンの存在を役者は稽古の中で記憶しているので、だから、役者はただ観客に見えているところだけではない、その背後に隠された様々なイメージをもって稽古や本番に臨むことになるのだった。

 今作の上演台本をわたしは見てないけども、「もはや地図みたいな状態」だと藤田は語っていた。もうその戯曲は一本の線で書かれるものではないし、あるいは複数の並行する線が五線譜のようにリニアに並んでいるものとも違う。パズルのように編集可能な断片的なシーンの集積が、「地図」として台本の上に横たわっているのだ。藤田は学生時代、平田オリザの演出助手を務めていたこともあるそうだが、こうした戯曲の書き方とゆう点では、平田の打ち立てた同時多発的な現代口語メソッドを更新するような批判的継承者のひとりとも見なせるだろう。ちなみに平田の擁する青年団に出自を持ち、昨年の岸田國士戯曲賞を受賞した柴幸男(ままごと)は藤田の才能を認める好敵手のひとり(?)だが、ミステリー的な結構をもつ美しいストラクチャーを戯曲の底に置きつつ、ラップを導入したセリフによって舞台を構成するなどして新たな「演劇」の可能性をひらいた。その柴との先に挙げた急な坂スタジオでの対談の中で、藤田はみずからの作劇をCDアルバムづくりに喩えている。ストーリーの起承転結の流れというよりも、短いシーンをどの順番に配置・編集してアルバムとしてパッケージするのかといった発想。その模索の結果としてこの「地図」のような戯曲は生まれたのだろう。

 他にもたくさんの演劇人の名前を挙げて比較することは可能だが、ともあれ端的にそうした先駆者たちとの大きな違いをひとつ挙げるとするなら、それはマームとジプシーの舞台がノイズ的な要素を多量に含んでいることである(*11)。それはしかし作為的にバラ撒かれるようなものではなく、例えば声を出す際に発する息(ブレス)の量が多い役者を選んだり、あるいは布とゆう不定形な素材を用いる、といった形で舞台におのずとノイジーな手触り感が導入されていくとゆうことだ。さらに今回の再演ではサイドストーリーが増えたせいかユーモアも飛躍的に増していて、例えばうんちちゃんが「学校はパラダイスだと思っていたのにー」と夢想するシーンでは、男の子たちがそれぞれマーライオン、ダビデ像、しょんべん小僧になって彼女をわーいわーいと胴上げする。あるいは秘密基地の存在を自分だけ知らされてなかったことに気づいてショックを受けたとう子が、「このやろー、うんちー!!!」とブチキレてつかみかかるシーンでは、その場にいる全員を巻き込んでのスラップスティック爆笑コメディが巻き起こる。あるいはまた三姉妹の家に遊びに行ったなつおがトイレでうんこをするものの、トイレットペーパーが切れていて焦ってパニックに陥るとかとか。こうしたユーモラスなシーンの数々は、コドモたちの世界を華やかに(ノイズフルに)彩るだけでなくて、ともすれば繊細な表現をしているこのカンパニーの幹をいい意味で図太くしているとも思う。ひとことで言うとガッツを生み出しているのだ。

 以上のようなマームの特性は、技術的に計算して理論構築されたというより、結局のところ「声=音」に対する藤田の執着心や嗜好性がおのずとつくりあげていったものだと思う。むしろ技術に関しては藤田はほとんど関心がないのではないかとさえ思える(とはいえいうまでもなく技術はまったくおろそかにされていない)。そこでもうひとつ忘れてはならないのは、藤田がこの〈コドモ・シリーズ〉において同じモチーフ( 川、海、排泄、猫、火事、旅立ちetc.)を執拗に描きつづけてきたことだ。この執念を見るにつけ、彼にはやっぱりどうやって描くか(How)とゆう技術的なこと以上に、描きたい何ものか(What)があるのだと感じざるをえないし、本音かどうかは別として「書きたいものなんて特に何もないんですよ」と答える作家が多い昨今にあって、書きたいものがはっきりあるのは特異なことかもしれない。しかしそれは何か訴えたいテーマがあるとかではない。欲望がある、とゆうことだ。藤田はここ数作で、おそらくは彼の記憶の底に眠るモチーフを保持したまま、その時々の関心に沿ってテーマを少しずつ変えるスタイルをとってきた。だから今作で〈コドモ・シリーズ〉もひとまず完結し、次からしばらくはなんらかの原作を翻案して戯曲を書いていくようだけども、こうした執拗なモチーフがすべて消え去るようなことはたぶんないだろう。

 長々と書いてきたけども、マームとジプシー/藤田貴大の戯曲・演出の特徴をまとめると以下のようになる。

★意味=書き言葉=エクリチュールよりも、音=声=パロールに執着する。
★台本や過去の演技の記憶より、今ある有機性を大事にする。
★モノローグとして屹立せず、カンバセーションもしくはナレーション。
★台本は線ではなく、地図。
★シーンを出し入れする編集能力が異様に高い。
★息、布、ユーモアなどのノイズが多い。
★特定のモチーフを執拗に描く。
続く>>


「マームとジプシー「コドモもももも、森んなか」」への5件のフィードバック

  1. ピンバック: OKAT
  2. ピンバック: 横山 真
  3. ピンバック: Kazuaki Takamura

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