ジエン社「スーサイドエルフ/インフレ世界」(クロスレビュー挑戦編第3回)

「スーサイドエルフ/インフレ世界」公演チラシ クロスレビュー挑戦編第3回は、The end of company ジエン社公演「スーサイドエルフ/インフレ世界」(2011年3月31日-4月3日、日暮里・d-倉庫)を取り上げます。ジエン社は2002年に旗揚げされた総合表現ユニットを、演劇活動により特化する形で2007年10月に改称しました。公式webサイトによると「すでに敷かれている現代口語演劇の轍を(いやいやながら仕方なく)踏みながら、いつかそこから逸脱して『やる気なく存在し続ける現在』を、失敗した写真をじっと見続けるようなやり方で出現させてみようと目論んでいる」のだそうです。東京芸術劇場が6月に開く芸劇eyes 番外公演「20年安泰。」に参加する予定の話題ユニットです。レビューは五つ星による評価と400字コメント。掲載は到着順です。(編集部)

太田信吾(映画作家、俳優)
★★
 震度4以上の地震が起きた場合、公演は即座に中断され観客席と舞台上は等価になるという可能性を孕んだまま、約1時間半の上演は滞り無く終わった。消化不良、という印象が拭えなかった。
 タイトルに”インフレ世界”という言葉があるように、舞台に所狭しと登場してくる出演者自体の数、同時に舞台上でなされる会話、具象的な小道具あるいは美術、それらすべてが過多であり、一つ一つの台詞の価値、身体の動き、行動の価値が下がっている気がした。私はこの作品に限ってはそのことをポジティブにはどうしても考えられない。それを私はたとえば舞台前面に座ったとある俳優の台詞が空調の音に消されほとんど客席に届いてこず、台詞を一観客として消化出来なかったもどかしさなどからそういうことを思う。私(私たち)のそのもどかしさを含めて”インフレ世界”とするなら納得出来るけどそれは舞台作品として健全なのか? 私にはどうしても分からない。
(2011年3月31日 19:30- 観劇)

瀧澤玲衣(国士舘大学)
 ★★★★★
 役者が度々“誰かがそれを口に出すのを聞きたくない”という言葉、というか想いを、さらっと、ではなく、かといって重苦しくもなく、どうにか言って、心の中のそっとしておきたい部分を無理やりにではないけれど拾い上げてきて、それに共感、ではないけど同情に近い何かを感じる。そのあとの心の状態を人によっては「痛い」と言うのかもしれない。
 この妙なトラウマ彫り込まれてる感はジエン社特有のもので、決して気持ちのよいものではなく、プラスかマイナスかで言ったらプラスでは絶対にないのだけど、ただこの痛みは生きる上で必要な気がして、明るすぎるはっきりした希望よりもこういう生々しいけど傷つけるのとはまた違ったダメージにこそ、人は生かされるのかもしれない。そんな気がして、まだ向こう何年かは普通に生きていられるような気がした。今まで触れたどんな芸術よりも、これから生きていけるという確証を得られたかもしれない。不思議なことに。
(4月3日18時観劇)

佐藤亮太(劇場スタッフ)
 ★★★★☆(4.5)
 遠近法的な空間である劇場において異なる場所にいる人々がレイヤーのように存在しているが、それを共時的に台詞などによって同平面上で結びつける。それはさながらTL(タイムライン)のようで、その逃れられない通時的な変化(ラジオから聞こえる情勢、建物の内外の情勢、モノポリーの情勢等)が常にあり、大学跡地で停滞しているように見えながらも、その変化を見ざるを得ないのである。
 また、そこには交換がある。価値や根拠によるものであり、作中での持論や通貨だが、問い直され続ける。その交換(やりとり)は対話という演劇の駆動力であり、それによってラストのユウコとハラのデュオからアーリーのモノローグ的長台詞への流れが映える。舞台美術も大きく関わっている。
 冒頭で私は様々なモノを「結びつける」と述べたが、それは確かなものだっただろうか。だがそれでも、ある(いる)のである。そうして掬いとれたりとれなかったりする淡いものを描き切った快作だ。
(4月1日 14:00観劇)

カトリヒデトシ(カトリ企画URエグゼクティブプロデューサー、演劇サイトPULL編集メンバー、舞台芸術批評)
 ★★★★★
 遠慮無くいってしまうと演出はさっぱり。前作の「クセナキスキス」と同じで、人物の出ハケや、展開への人物の関わり方、セリフのアーティキュレーションにバリエーションがなく、「ちょとそれは」と思った。
 演劇的には感心するところはなかった。しかし「作品」としてはめちゃめちゃ面白かった。それは作者本介の描く作品世界が、散漫であり、希薄でありながらあるリアルを感じさせるところにあった。
 ばらばらなヒューズを持つ登場人物がそれぞれの葛藤を抱えつつも一致することがなく、それぞれの電圧で生きていること。生活している感覚はあっても、充実している実感を手に入れられないこと。めんどくさいと言えるほど周りに関わってないために自分自身の薄弱さを隠しようもないこと、などという点で極めて「今」としかいいようがない、「超薄的な生」がそこに現れているからだった。
 あまり共感のえられない作品であろうが、わたしには最高に面白かった。
(4月1日14:00観劇)

細野舞(明治大学)
 ★★
 まず、とても観づらく感じた。理由は三点ある。ひとつは、ワンシチュエーションなのか、複数の場所を舞台に混在させているのかわからないため。次に、会話のやりとりが一対一でなく、AとBの会話が、突如Cと会話していたDへ飛んだりしたため。そして、会話が同時多発して聞き取れないためだ。
 また全体として、停滞と苛立ち、不穏な空気が満ち、歪んで、病みたがっている印象を受けた。不健康な蒼白さと曇天のような鼠色を感じる作品で、消極的に拒みたい気持ちになった。特にほぼ全員が一触即発の空気を放っているのは恐怖を覚え、居心地が悪かった。
 そこでメタシアターの手法を持ち込めば、もう少し心穏やかに観られ、話についていきやすいと思う。少なくとも感情や人間関係を傍観したり、整理・解説してくれる人物や構成がないと、絡まった糸を見ているようで、たとえそれが新しい手法を用いているとしても、奇を衒っているようにしかみえない。
(4月2日14:00観劇)

小川章(自営業)
 ★★★★★
 この舞台には、制作段階から「時代」などという悠長なものではなく、刹那ともいえる「今」を、直感的に練り込むことができていたのではないだろうか。われわれ観客が、3.11以降に漠然と感じている「何だかわからない」想いを劇場に持ち込みつつ、同時多発的台詞の不親切さにいらだちながらも共鳴できたのは、そこに「今」を感じたからであろう。同様に「何だかわからない」いらだちは登場人物たちの問題でもあり、彼らの狭い世界(アトリエと彼らの脳みそ)はそれで満ち溢れている。外世界(社会と他人)との不協和もそこにはある。この感覚は、人生の、ある時間帯に多くの人が感じるものであるのだが、「今」まさにわれわれが感じている、この場所、この時のことでもある。外世界とのコミュニケーション断絶は、言葉のインフレを起こし、関係性という価値と等価交換できない。すなわち、そんな世界にいるということを意識させられた95分であったのだ。
(3月31日19:30観劇)

梅田径(早稲田大学文学研究科日本語日本文学コース博士後期課程)
 ★★★
 観劇直後@d倉庫前ではなんの感想も持てなかった。その試みの困難さに驚愕したのは深夜一時半@自宅。翌朝、実はとんでもないものだったかもしれないという思いと、やっぱりつまんなかったなという素直な気持ちが交錯して悶々としてしまう。
 ジエン社『スーサイドエルフ/インフレ世界』は評価に戸惑う作品だ。舞台には異空間がいくつかあって、それを俳優たちは距離と物理法則を無視してふらふらと横切っていったり、話しかけたりしている。人それぞれにドラマを抱えているけれど、それはほとんど表象されることなく、ドラマが起こるかと思いきや起こらない。静かに破滅の時が近づいてくるのに、それを感じることができない物語は、やけにディテールが空虚である。フラフラしている登場人物たちのお互いに何かを隠しあってバランスを取るような、妙に不気味な、しかし安定した雰囲気があった。その空気感が現実の〈今〉を強く照射してはいたけれど、それを追求する演出は今ひとつとしかいいようがない。
 けれども本作ではひとつの到達があったようにも感じられた。俳優たちがだらだらと相手のことなんか知らずめいめい勝手に会話をかわす。それは時に意味を失い、単語の連鎖だけが音楽的な不協和音を伴ってたちあらわれてくる。ジエン社が魅せる会話は、意味と興味を極限まで失った果てにある音楽だ。日常会話が本来的にもつ無関心と空虚が織り成す音楽性は、初日の舞台にも調律された楽器のように美しい。
 でも冗長性の高い演出が、本作では俳優たちの魅力を抑圧しているようにもみえていて、演劇としては見るべきところは少ない。でも、面白いつまらない、で観に行く舞台を選ぶことほどつまらないことはないでしょう? ジエン社が追求した音楽は、聞く価値がある。
(3月31日観劇)

都留由子(ワンダーランド)
 ★★☆(2.5)
 荒れた、元学生会館らしき場所にたむろする美大の卒業生っぽい人たち。どの人にもどのできごとにも確定的な情報は与えられず、人物もできごとも輪郭はおぼろげ。明確にするつもりもないようで、多くの台詞が聞き取れず、事件らしいものも、断片的な情報が判然としない脈絡で並ぶのみ。
 尻切れトンボのままのやりとり、つかめない状況、もしかしたら致命的なことが起きているかもしれないのに、何も説明されないいらだたしさ。でもその中にいる限りそれはそれで過ごしていける。現在を切り取っている、確かに。だけど、この切り取り方が好みだったかというと残念ながらそうではなかった。少なくともわたしには、今見えている現実を更新する切り取り方ではなかった。しかし、そう感じたのは3.11に関連がないとは思えず、その意味では、何を感じるかは(少なくともわたしは)環境に大いに影響されるのだということに気づかせてくれたことに感謝して★半分上乗せ。

日夏ユタカ(ライター)
 ★★★★
 なにかの台詞をキッカケに、幾度となく、舞台上に作られた“壁の亀裂”に目がいってしまった。そんな特殊な時期(3.11以降)の観劇であったことからは逃れようがなく、もしも、もっと現実の重さをそのまま舞台に提示されていたら拒否反応を示してしまったかもしれない(実際、香田証生イラク拉致事件がモチーフっぽい映像はぎりぎりだった)。あるいは逆に、軽やかに虚構を提示されていたら受け入れられなかっただろう。
 だからまるで綱渡りのような繊細さと大胆さで、いま、このときに観ても耐えられる強度をもった作品に仕上げた作・演出の手腕を、まずは評価したい。丁寧で親切でわかりやすかった、とも思う。ただ反面、その長所はまた不満な点でもあって、もっと言葉や説明や意図が削られていたほうが好み、ではあるのだけど。
 そういう意味では、監禁の舞台となったイエメンの部屋の洗濯物がシワだらけのまま干されていたのに対して、荒んだ雰囲気も漂わすアトリエの階段下に吊されていた白いTシャツがピンと背筋を正していて、どこか日の丸のようだったのが、想像力を広げてくれて印象的だった。中央に赤丸などないからこそ、血を流さない、日本の国旗にみえたからだ。
(3月31日・初日観劇)

大泉尚子(ワンダーランド)
 ★★★
 同時発話にも、二種類あることを発見。二か所で発話された場合、両方が聞こえるケースと、両方ともが聞こえないケースと。前者は少し前に見た青年団若手公演「バルカン動物園」で、後者が本公演の前半。ここで言葉は、会話は、日々の泡のように浮かんでは消えていく欠片だ。その無数のあぶくを、観客である私は見るともなく見ていた。そして、前作「クセナキスキス」と共通するキャラクター(いずれも女の子)が気になってくる。前作では、ずっとヘッドホンをつけっ放しでクセナキスの曲を聞き続けている子で、今回は、死にたいと言いつつ、誰かが地域通貨10万円分を貯めれば、自分の体を触ってもいいという子。普通に話をするといった周りとのコミュニケーションを拒んでいるかに見えて、けっこうな人数が出入りする場所にい続けるのはなぜ? それは、やる気がないないと言いながら、こんなにも溢れるものを差し出してくる作者=作者本助の姿とも重なって、そうしかいようのない人物たちの佇まいを晒しているように感じられた。
(3月31日観劇)

徳永京子(演劇ジャーナリスト)
 ★★★
 よほどの人物でない限り、芸術を語って青臭さから逃れることはできない。作者本介も当然そこに無自覚ではないはずだが、今作は「アート」「芸術」という言葉が何度となく、正面切って飛び交う。だが無論、登場回数の多さは、その言葉への信頼とはつながらない。真剣に「アート」と口にする人々を描く一方、作者は「芸術とは何か」のあぶり出しを進める。その方法は「○○でない人」の用意だ。美術評論家、の弟。高値がついたリトグラフを描いた、のではないアーティスト。死にたいと言い続け、生きている人。あるいは人質、兵士、絵画モデル、警官という役割に、それらしく振る舞うことができない人々。空間をそうしたニセモノで埋め、反転的に「芸術とは何か」を導き出そうとするのだ。その構造は、実におもしろい。だがそれが発想レベルに留まって、うまく機能していない。作中で「芸術」と共に大きく扱われているのが「経済」と「優しさ」だが、食い合わせの悪いこの三者を扱うなら、もっと周到に執拗に意地悪く、人間を見つめる必要がある。
(3月31日観劇)

北嶋孝(ワンダーランド)
 ★★
 宣伝用のチラシや場内配布のプログラムは、公演の一部だと考えても構わないだろう。少なくともジエン社は、舞台上で展開される設定の大枠と条件をここに記しているからだ。コンピュータゲームで言う「世界観」はすでに印刷され、観客の手元に存在している。だから公演は、開演前に舞台上に寝そべっていた役者からではなく、次第に埋まっていく客席から始まっていたと言うべきだろう。おもしろい着想だ。しかし…。
 芸術支援地域通貨アートムという、どこかをパロッた名称の紙幣が壮絶なインフレを起こした設定のはずなのに、舞台は紙くずが置かれた地下空間で、やることのない若い男女がただ雑居しているように見えてしまう。だからここがデモ隊に包囲され(警官に保護され)る理由も定かではなく、ノートパソコンに向かう女と異国で捕虜になった男、間に入って連絡を取る友人も客席を置き去りにしたまま舞台前方で自転している。観客の膝の上の世界から舞台上へと至るには飛躍と断絶が多く、世界観に共感できる客席を除けば、絶えずアイテム不足のゲームオーバーで中断される。不条理めいた消化不良とちぐはぐ感が残るのはそのせいではないだろうか。
(3月31日観劇)

【上演記録】
The end of company ジエン社第6回本公演「スーサイドエルフ/インフレ世界」
日暮里・d-倉庫(2011年3月31日-4月03日)
(上演時間約95分)
脚本・演出:作者本介
出演
猪股和磨(ぬいぐるみハンター)、伊神忠聡、大倉マヤ、大重わたる(夜ふかしの会)、萱怜子、北川未来、西尾友樹、中野あき、萬洲通擴、守美樹(世田谷シルク)、山本美緒、善積元、横山翔一(お前と悪戯酒)、藤村和樹(てあとろ50/フミツケミッタン)

スタッフ
舞台美術:泉真
舞台監督:桜井健太郎
照明:南 星(Quintet☆MYNYT)
音響:田中亮大
音響操作:角田里枝
制作:大矢文
当日運営:本山紗奈(荒川チョモランマ)
演出助手:藤村和樹/吉田麻美
宣伝美術:サノアヤコ(足長画報社)
Web:きだあやめ(elegirl label)

料金2,500円 ~ 3,000円(前売り2800 当日3000 ツイッター・ブロガー割引2500)

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