ミミトメ「マゴビキ、あるいは他人の靴の履き方」(クロスレビュー挑戦編第9回)

「マゴビキ」公演チラシ ミミトメは2010年から活動を開始。その年の夏に旗揚げ公演を開きました。Webサイトにはいま、こんな文章が掲載されています。
 「泣いたり泣かしたり、笑ったり笑わせたり、人の機微が、人間味が描かれ、とかってもうあまり興味がないのです。演劇の社会的意義とか政治性とかもいいです。もう。リリシズムとか絵画的とかそういうのも…。ましてや3・11以降の演劇でもありません。以前の演劇ですらありません。そういうのと関係ない演劇をミミトメはやりますね」。
 演劇でない演劇ってどんなものなのだろう。好奇心を頼りに、いざいざ。レビューは★印の5段階評価と400字コメント。掲載は到着順です。(編集部)

髙橋英之(ビジネスパーソン)
 ★★★★
 あなたは、中田さんとして、赤いフィギュアを動かす。広い湖と、氷山と、新宿から半径20キロの範囲と、ダーツが奇妙に重なってくるのを感じる。エレベーターの前で耳にした水族館のペンギンが脱走する話が、2人の役者のチョコボールの話とシンクロする。目の前には、青いフィギュアを動かす田中さんがいるのだけど、それはつい20分前のあなたの姿だ。役者がコーヒー豆を挽く回転音が、ヘッドフォンで指示された水門を開ける動作と重なり、パブロフの犬の話を、再構成してしまっているに違いない。
やがて、新しい6人の田中さんと中田さんを、今度は観客席から俯瞰する。何の関係もないことがらと、音と、動作が、勝手につながっていく。
 そして、あなたは、この作品を演劇と呼ぶことに躊躇していない自分に軽く驚いたりしながら、雨の街に歩きだす。このしかけが、もう少し大きな劇場で成功すれば、ひょっとしたら、大化けするんじゃないか…とか思いながら。
(年6月25日15:00の回)

木俣冬(フリーライター)
 ★★★☆(3.5)
 「見て何を感じるか、見た人の自由です」と言うクリエーターも多いが、近頃増えているネットでの一般人レビューの、自由過ぎる誤読、勘違いや酷評などを見るにつけ、感じる力が疲弊(退化?)しているようにも思う。
 劇中に「想像することは簡単です」という言葉も出て来るが、この作品は、観客に行動させることで、ある程度まで観客の想像力の底上げをはかっているかのよう。ヘッドフォンから聴こえる指示に従ううち、見えるものも聴こえる音も受け取り方次第で全く違った印象に。「これは支配ですか?」という問いがあるが、密室に閉じ込められ音声に従わされているにも関わらず、覚醒し視界が広がっていく。
 終演後「おもしろかったですね。なんか不思議な……」とひとりの観客(ふつうの芝居以上に旅行やバスでの道連れ感覚)に話しかけられた。同じことをやらされ同じ意識を持たされていたはずなのに、その心の中は、その人だけのものだ。
 こういう作家が小さな批評の枠を超えて大きなエンタメに挑んでくれると世界も楽しくなるだろうに。
(6月24日20:30 の回)

「マゴビキ」公演から
【写真は、ミミトメ「マゴビキ」公演から(写真合成)。撮影=久保田耕司 提供=ミミトメ 禁無断転載】

田口アヤコ(COLLOL主宰、劇作家/演出家/女優)
(無星)
 ますだいっこうさんの演技が緻密かつ自然で非常に良かった。ヘッドホンを使用し、録音音声を聞かせる作品、ということで、観劇後にTei Towa ”The Sound Museum”を思い出したのだが、最低でもThe Sound Museum程度の録音技術、再生 技術を用いないことには、観客を揺り動かすことは難しいのではないだろうか。作家の物語の組み立て方、言葉の選択の仕方に甘さがあり、集中力を保つことが出来なかった。この散漫さは狙いだろうか?
(6月24日20:00 の回)

水牛健太郎(ワンダーランド)
 ★★★☆(3.5)
 全体の感触は現代美術のパフォーマンスとごく近い。センスのよい「宙吊り感」が持ち味。一枚の地図を挟んで二人の観客を座らせ、ヘッドフォンからの指示で地図上のフィギュアを移動させる。途中で場所を交換することで、それまで自分の見ていた相手の動きが、想定と全く違う指示によるものであることに気付かされる仕組みになっている。かなり面白いが、最後までやっても仕組みが全部はわからない方が、示唆や余韻が深くなったのではないか。
 観客の周囲で行われる中年俳優二人の演技を間近で見られるのはぜいたく。主宰の谷杉も含め「かっこいいオジサン大会」の趣。これは、小劇場ではなかなかない魅力。
 前回公演より焦点が定まり着実によくなった。ただ、制作の人が課せられたパフォーマンスと制作としての役割をうまく両立できないなど行き届かないところもあり、一層の練り込みが必要だ。
(6月25日16:30 の回)

田中伸子(演劇批評・ライター)
 ★ ★★☆(3.5)
 「既存の劇団とは一線を画した実験的な演劇」を旗印に昨年結成されたばかりの劇団「ミミトメ」の第2回公演「マゴビキ」。観客を取り込んでの一時間弱の上演を通し、彼らが問いかけたのは「観劇」という行為、そのものについてであったように思う。
 通常の「観劇」では、客は劇場へ入ると、客席に収まり舞台上から届けられる劇作品を鑑賞する受動者となる。今回、偶然による同胞たちとの観劇体験では、自らが演者であり、同時にその場で演者に仕立てられた同胞を横目で観察する観客でもあった。
 ヘッドホンから流される、演者へ向けたささやきと役者によるダイアローグ。その台詞は抽象的かつ断片的で、筋が無い分さらに観客各々のイメージは自由に喚起され、多種多様な想像へと繋がっていく。
 その場に居合わせた小さな6人の集団により形成された劇場空間における簡素化された「劇を観るという行為」の確認作業だった。
(6月25日15:00の回)

桐山敏行(シネマエッセイスト)
 ★★★★☆(4.5)
 恋人から、「その公演は面白かった?」と聞かれたら、私は「面白かったよ」とは答えず、わざとらしく他の話題に移るだろう。その理由は、面白いということは、楽しい・可笑しい・サスペンスフル、この中のどれかに当てはまるということであると私は考えているから。この公演はどれにも当てはまらない。内容は不条理である。狭い部屋の中、互いに向かい合った6人の観客と2人の役者が交わることなく、観客はヘッドフォンから流れる簡単な指令に従い、役者は観客を放置して淡々と芝居を続けていく。観客は指令を聞きつつ、芝居も見なければならない。警察の取調室のようなライトが観客を照らし、緊張感で背中が汗ばむ。脳が麻痺し、役者と客の判別がつかなくなる。隣に座っている人は“本物の客”なのか? 疑心暗鬼で混乱する中、ヘッドフォンの指令と役者の声がシンクロナイズする。その瞬間、私は、この芝居の主題である他人に操られるということを実感した。
(6月24日21:00 の回)

大泉尚子(ワンダーランド)
 ★★★
 作品の製作意図ついては、前もって、能書きを並べられたような気がする。「小説を読むという行為は、他人の靴を履くのに似ています。誰かの癖や体温を感じ直すわけですから。そういう感覚を再現したい…」とか何とか。
 とこうするうち、観客は、ビルの一室でテーブルの前に座らされ、ヘッドフォンを装着して「目の前にいる人を指差して、その指を時計回りに回して」だの、「置いてある地図上でフィギュアを移動させて」だの、「口笛を2、3回、ヒューっと吹いて」だのといった、埒もない幾つもの指示に従わされたのだった。どうしてあんなにも唯々諾々と、言われるがままになってしまったのだろう? そんな姿は、限りなく滑稽だったのではないだろうか?? あろうことか、作者の第二次谷杉氏は、テーブルの一角に陣取り、時々小さく吹き出してしたりしていたのではなかったのか!?(グムムムー、まったくもって人としてあるまじき、言語道断!)。ああ、私たちは、まんまと作者に裏をかかれて、じゃなくて靴を履かされてしまったのではなかろうか!!
 …その履き心地はというと、意外にも、ちょっぴりスキップしたくなるような軽やかさを伴っていたのだけれど。そして合間に挟みこまれた、帝政ロシアの湖畔の避暑地のパブロフ博士の話や、増えすぎたペンギンがどうやって種を保存したかてな話が、妙にクッキリと、記憶の森にピンで留められはしたのだけれど。
(6月18日15:30 観劇)

齋藤理一郎(会社員 RClub Annex:http://riichiro.air-nifty.com/rclub_annex/)
 ★★☆(2.5)
 仕組みへの取り込み方は、それなりに面白かったです。
 部屋に入場する前のパフォーマンスはあとで伏線として機能するものだったし、部屋に入ってからも、前の回の参加者達の光景から自らが体験するものが前もってインプットされる感じから、ある種の期待感もやってきて。また、その仕組みの核心部分に導かれてからわかる工夫もあって。ヘッドホンからの指示が、正面に座った人を見つめるといったものであっても、相手に対して何かをなすことで生まれた質感は確かにある。外側での役者たちの演技から伝わってくるものもある。でも、それらの感覚が常ならぬものであっても、そこから踏み出すようなものがない。個別に機能している仕組みからやってくるものが、観る側の中でどうにもひとつの感覚にまとまらないのです。
 仕掛けを重ねるための、なにかが足りないような気がする。作品を真に動かすためには、要素を束ねるもう一工夫が必要であるように感じました。
(6月25日15:30の回)

都留由子(ワンダーランド)
 ★★★
 6人の観客が会場のテーブルをはさんで3人ずつ向かい合って座り、ヘッドフォンから流れる言葉に従って動作をする。向かい側のお客には別の指示があるようだ。部屋には役者がいて、要領を得ない、でも通りすがりに見聞きしたら興味を惹かれるようなやりとりをする。
 秘密倶楽部でゲームをしているような1時間。全体像がつかめないまま指示が出るので、最初は気持ちが悪くおっかなびっくりだったのだが、何だか後ろめたいことをしているような気がしてきて、また、自分も含めてみんなが素直に指示に従っているのもだんだん不気味に思われてきて面白かった。
 お芝居を見た気分はあまりしないが、何かを体験した気分は満々である。もう一度やってみたいかどうかは自分でもよく分からないし、こういう作品を特に好きということでもないと思うのだが、でも、「演劇」とは何か、何を「面白い」と思うのか、など、改めて刺激され、今回参加できたのは面白かった。
(6月24日 20:30の回)

伊藤亜紗 (学術振興会特別研究員)
 ★ ★★
 一般的にはもちろんひとつであるはずの舞台空間を、「頭の中」「写真図面」「現実空間」という3つの空間に分割し、おもに音(イヤホンの声や周囲の俳優が立てる物音)によって参加者の意識をあちこちの「舞台」へと誘導する。演劇とは何かという問いが、舞台空間とは何かという問いとして取り組まれていることはとても面白いと思った。まだいくつか改良可能なポイントがあるように感じたが(たとえば写真図面は地図の方が「入り込める」のではないか)、とはいえそうした改良を経てもなお残りつづける本質的な問題は、この作品が、参加者を「俳優」にする、あるいはその相関物としての「観客」にする、という欲望を持っていることである。しかしイヤホンから流れてくる声に指示されているかぎり、人は俳優にも観客にもならない。指示の声をそっと無視して向かいの相手をのぞき見るときに人は観客になるし、そのようにのぞき見られたときに相手は俳優になっている。指示に従わない自由の領域にこそ「俳優」や「観客」の領域がある。ここに今の手法の大きなジレンマがあるように思う。
(6月25日15:30 の回)

北嶋孝(ワンダーランド)
 ★★★
 最初は会場を、ビル地下の劇場と間違えた。その受付にいた知人に怪訝な顔をされたのがケチのつき始め。悪い予感がしたんだよね。
 そのビルの3階スタジオ前で靴を脱がされ、6人1組で中に入って、ヘッドホンから流れる指示でテーブル上のミニチュアを操作しているうちに突然ひらめいてしまった。これって愚直なほど、タイトル通りじゃん。「マゴビキ、あるいは他人の靴の履き方  Requotation or If you wear the shoes of others」。
 ヘッドホンの「指示」を受けて「操作」するのは、疑うことを知らない演劇的惰性、繰り返しの連続。スタジオ前で聞かされたパブロフの犬の条件反射そのものではないか。向かいで同じように操作する/操作される相手は、自分(「田中/中田」)と名前が逆さの似姿。つまり自分モドキを強制的に見物させる容赦ない仕掛けだろう。しかも終了間際になると、次の6人がスタジオに入り、ぼくらを見物している…。他人の思考=指示に従順に従い、フツーはそれが観劇作法と無意識に内面化している。その繰り返しを自分でやっちゃったり他人の姿を見たり…。なるほどマゴビキと他人の靴か。テーブルの周囲を動き回る俳優が何をしていたか、それから頭に入らなくなった。コンセプチュアルアートの殻を借りた作者の毒気を浴びてしまったのだ。帰途は、古典的な仕掛けにまんまとしてやられた場面が蘇り、軽い自己嫌悪に陥っていた。あーあ。
(6月24日19:30 の回)

【上演記録】
ミミトメ第2回公演『マゴビキ、あるいは他人の靴の履き方  Requotation or If you wear the shoes of others』
SPACE雑遊 新宿三丁目スタジオ
Preview公演 全7公演(2011年6月18日)
本公演 全14公演(2011年6月24日-25日)
(30分ごとに6人ずつ入場、上演時間約55分)
作・演出:第二次 谷杉

キャスト:ますだ いっこう、尾崎 彰雄、小林 佑太
声の出演:滝野洋平(劇団俳協)里中海奈(劇団俳協)

スタッフ:
●音響 久保田耕司(クレパ)
●協力 小鷲順子(ポツりんく)森川敦、高野裕文、ソンブレロ(ソンブレロ)SPACE雑遊
●チケット ¥1,000

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