◎哄笑のディストピア
芦沢みどり
会場に入って舞台を真正面から見た時、その存在感にまず圧倒された。住宅の屋根ほどの傾斜がついた八百屋舞台は、プロセニアムの中に造り込まれた八百屋ではなく、一個の構築物としてホールのスペースにどんと置かれている。したがってそこには袖もないし幕もない。その斜面の上に、布団、椅子、扇風機その他、細々とした家財道具が、どれも学生四畳半下宿ふうの安っぽさで散乱している。この舞台面を、下手客席側に設置された二段構えの照明の列がかっと照らし出しているので、席に就いた観客はいやでも舞台をまじまじと見ることになる。<こんな急斜面で芝居ができるのかしら。それにしても汚いなあ>と思って見ているうちに、そこには生活用具だけでなく土管ふうの物体や天窓のような開口部があることに気がついた。―この光景をどこかで見たような、という思いがふつふつと湧いて来る。そうだ! 3.11の大津波で流されてゆく家々の屋根と、津波が引いた後の瓦礫の中に残された靴の片方、おもちゃ、電気炊飯器などなど・・・あれそっくりじゃない? あの日以来繰り返し映像で見せられた光景なのにすぐに気づかなかったのは、たぶん、屋根は屋根、瓦礫は瓦礫として別々に見ていたからに違いない。もちろんこの装置と「あの日」を結びつけるのは早急すぎる。創り手はそんなことは考えていないのかもしれないから。でも、いったん抱いてしまった印象は、錯覚であれ妄想であれなかなか消えるものではない。そんなわけで筆者は「あの日」を引きずりつつ『ゲヘナにて』の舞台を見ることになった。
タイトルの中のゲヘナというあまり耳慣れない英語は、太宰治の小説「トカトントン」に出て来る。第二次大戦の敗戦時の玉音放送を聞いて死のうと思った小説家志望の青年が、兵舎の方から聞こえて来た金槌のトカトントンという音を耳にしたとたんに、憑きものが落ちたように死ぬことが馬鹿馬鹿しくなる。そこで男は故郷に帰り仕事に就き小説を書き始めるが、小説にせよ仕事にせよ恋愛にせよ、何かが成就しかかるたびに例のトカトントンが聞こえて来て、すべてが虚しいと感じてしまう。自分はどうしたらよいでしょうか、と彼は太宰らしき作家に手紙を出す。作家は聖書からイエスの言葉を引いて、身を殺して魂を殺すことができない者は懼れるな、身も魂もゲヘナ(地獄)で滅ぼし得る者を畏敬せよ、君はまだ醜態を避けて気取っているだけだねと、こちらもかなり気取った返事を書く。敗戦後の若者の精神的アパシーを描いた作品と言われているけれど、読みようによっては太宰自身の優柔不断を描いていると言えなくもない。
『ゲヘナにて』は三鷹市文化芸術センターの委嘱で書かれたそうで、同市は毎年この地にゆかりのある太宰治を扱った芝居を上演しているとか。作・演出の松井周は太宰の「トカトントン」(1947年1月)と「女神」(1947年5月)を基にして作品を書いたとポストトークで言っていた。前者についてはもう触れた。では後者はどういう作品か。これもやはり敗戦直後の人心の錯乱を描いているが、「トカトントン」よりもっと滑稽度がアップしており、しかもどこかありそうな話だ。
作家である<私>の知り合いに詩を書く洒落男がいたが、戦争が始まった時あちらの方が暮らしやすそうだと満州へ渡り、そのまま音信不通となる。その男が敗戦後いきなり訪ねて来るが、あまりの零落ぶりに<私>は驚く。ところが彼の話を聞いているうちにさらに驚いてしまう。男が言うには彼は<私>と兄弟であり、彼の妻は二人の母親で、しかも女神なのだという。これからは兄弟力を合せて日本文化の建設にまい進しようではないかと男は真顔で語る。てっきり頭が狂ったに違いないと思った<私>が彼を自宅まで送り届けると、出迎えた奥さんはまったくの正常な女性で、にこやかに<私>をもてなし、こちらの当惑にかえって怪訝な顔さえする。早々に引きあげた<私>がその夜、そのことを家人に話して聞かせると、彼女は女神になるのも悪くないわね、と言ってのける。妻にとっては夫が狂っていようといまいと、大事にされるに越したことはないと言う女の腰の座り方と、それにうろたえる男の姿が滑稽だ。
『ゲヘナにて』は以上二つの小説を基にしているが、原作とゆるい繋がりを持ちつつ、まったく新しい独自の世界を創出している。太宰作品から直接発想されたと思われる太宰男や女神や優柔不断男が登場するにはするが、それよりも注目に値するのは太宰作品からユーモアを引き出して、それをさらに肥大化させ、猥雑化したことだろう。太宰治と言えば自殺未遂・心中未遂をくりかえしたことや、代表作と言われている作品が気まじめであるせいか、ユーモラスな面に光が当たることはあまりない。が、松井周が取り上げた作品はどちらもあっけらかんとした諧謔に満ちている。彼はそれをさらに自分の流儀で料理して、笑いの部分を前面に押し出した。その笑いはブラックな哄笑に近い。
登場人物は男4人、女4人の計8人。まずはじめに、透という男がいる。彼は1年くらい前につくしという女に振られた。それをくよくよと嘆いていると別の男が現れて、自分はつくしの兄であり、太宰治の生まれ変わりであり、君の父親なのだと言い始める。言われた方はあっけに取られるが、訳が分からないまま太宰男の女神捜しについて行き、彼を太宰を先生とまで呼ぶようになる。なんで女神? という観客の疑問を宙吊りにしたまま、太宰男はますます作家らしく振る舞うようになる。いい気になった彼は、ファン・よし子の求めに応じて絵のモデルになったりする。彼女が描くのは壁に映った太宰男の影というところがイミシンだ。一方つくしが今付き合っているダンサーの虹男(ニジオ)は、自分をロシアの天才バレーダンサー、ニジンスキーと比べてコンプレックスの塊になっている。太宰男がなんの根拠もなく自分を太宰の生まれ変わりと主張するのとは逆に、比べたところで絶望するだけと最初から分かっている相手と自分を比較して自信をなくしているのが虹男で、二人は同じ自意識過剰コインの表と裏のような関係にある。そして4人目の男は寝取られ男。彼の妻は太宰と心中して彼女だけすでに死んでいる。僕はあんたの奥さんと何度も浮気したよと、聞かれもしないのに太宰は夫に話すが、それに対して彼は怒ることができないほど優柔不断である。そこへ死んだ妻が現れて、太宰男にあんたとの情事なんか交通事故みたいなものだったとうそぶく。もう一人の登場人物は透の母親。ノラ猫に餌をやって近所から苦情が来ているが、そんなことはお構いなしにネコ界に入り浸っている。人間とネコの見境がつかなくなっているのだ。
見境がつかない状態は、劇のあちこちで散見される。太宰男の浮気の相手はすでに死んでいるのに、生きているかのごとく振る舞うし、そもそも二人の自意識過剰男はモデルと自分の境目に線引きができない。この8人はいったい何者か、と思っているうちに劇は大団円(?)を迎える。太宰男の女神捜しはますます混迷の度を深め、彼は太宰をやめて女装して、自身を女神に変身させようとする。虹男とつくしの関係は破局を迎え、透の母はついに猫の子を産み、太宰男の浮気の相手は優柔不断な男どもに罵詈雑言を浴びせ・・・ゲヘナの狂騒はますますエスカレートしてゆく。この狂騒を表現するのに俳優は八百屋を転げ落ちたり、舞台の天辺から背後に軽々と飛び降りて消えたりする。最後は一人で踊ることを決意した虹男がドデカイ張りぼての男根を付けて登場し、それをしごきながら、戦争反対! ラブ&ピースと叫ぶと、男根の先から精液ならぬ天の川が噴き出す。なんとしょぼい天の川!
最初に舞台装置を見て3.11を連想したのは、それほど見当はずれとは言えない。この世は生きるも地獄、死ぬも地獄。ただしこれを死者たちへの鎮魂歌と受け止めるには、そうとうタフで図太い神経が要るだろう。センチメンタリズムとは程遠い世界だからだ。
【筆者略歴】
芦沢みどり(あしざわ・みどり)
1945年、天津(中国)生まれ。演劇集団円所属。戯曲翻訳。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/category/a/ashizawa-midori/
【上演記録】
サンプル+三鷹市芸術文化センターpresents
太宰治作品をモチーフにした演劇 第8回『ゲヘナにて』
三鷹市芸術文化センター星のホール(2011年7月1日-10日)
[作・演出]松井周
[出演]辻美奈子 (サンプル・青年団)/古舘寛治 (サンプル・青年団)/古屋隆太 (サンプル・青年団)/奥田洋平 (サンプル・青年団)/野津あおい(サンプル)/渡辺香奈(青年団)/岩瀬亮/羽場睦子
[舞台美術]杉山至
[照明]木藤歩
[音響]牛川紀政
[衣裳]小松陽佳留 (une chrysantheme)
[舞台監督]谷澤拓巳
[演出助手]郷淳子
[ドラマターグ]野村政之
[英語字幕]門田美和
[宣伝写真]momoko matsumoto(BEAM×10inc.)
[フライヤーデザイン]京(kyo.designworks)
[WEB・総務]マッキー
[制作]三好佐智子(有限会社quinada)/森川健太(三鷹市芸術文化振興財団)
[企画] 森元隆樹(三鷹市芸術文化振興財団)
[製作]サンプル/quinada
[協力]岩井秀人/古澤健/三浦直之/青年団/レトル/M★A★S★H/至福団
[助成]アサヒビール芸術文化財団/公益法人 セゾン文化財団
[主催]公益法人 三鷹市芸術文化振興財団
[料金]一般前売 3,000円 一般当日 3,500円 高校生以下1,000円
[劇団ホームページ]http://www.samplenet.org/